マンスリーレポート

2010年11月号 自伝から得る勇気

批評家の上野俊哉氏が、最近『思想家の自伝を読む』という本を上梓されました。ある雑誌でこの本についての紹介があり、そこにはたしか、「自分探しのような無意味なことをするのではなく、自伝を残した思想家から多くを学ぶべきであることを若者に説いたメッセージ」のようなことが書かれていました。「自分探し」はともかく、私自身も日頃から、自伝を読んで勇気付けられることが多いので、この雑誌のコメントはすっと腑に落ちました。

 そこで、早速この本を買って読んでみたのですが、内容は決して簡単ではありません。寝転びながら読んですーっと中身が頭に入ってくるようなものではなく、思想家の考えることですから、部分によってはかなり難解で私はこの本の内容が著者の意図が伝わるほど理解できたのか自信がありません・・・。

 しかし、「自伝を読む」ということに関しては、おそらく私は世間の平均よりも興味を持っています。自伝を書いているほとんどの人は、初めから成功者であったわけではなく、想像を絶するような苦労をしていることが多いのです。貧困や苦労のなか、懸命に努力を重ね、ついに夢を実現する、といったストーリーはときに感動につつまれます。

 もっとも、私は子供の頃から自伝が好きだったわけではありません。おそらく周囲の大人からは、エジソンやリンカーンなどを読むように言われたこともあったと思うのですが、私の記憶にはほとんど何も残っていません。(だからたぶん読んでいないのでしょう)

 子供の頃に読んだ自伝をひとつあげるとすれば、王貞治選手の自伝(自伝ではなく他人が書いたものだったかもしれません)です。プロ入りして26打席無安打で苦労を強いられた、というところに感銘を受け、「そうか、王選手もそんなに苦労をしていたのか・・・」と感じた記憶があります。

 私が自伝に興味を持つようになったのは社会人になってからです。きっかけは、すごく単純な話で、日経新聞の最後のページに連載されている「私の履歴書」です。「私の履歴書」は、経済人、政治家、学者、芸術家などが1ヶ月に渡り自伝を連載します。私は日経新聞を1991年から購読していますが(医学部時代と研修医時代は新聞代が払えなくて中断していましたが)、「私の履歴書」は私が最も楽しみにしている記事のひとつです。

 最近では、オービック創業者の野田順弘氏と哲学者の木田元先生のものが特に面白く、私は毎朝、日経新聞を手にすると真っ先に「私の履歴書」を読んでいました。

 野田氏は奈良県出身で、貧しい家庭に育ち苦労を重ねます。大阪の百貨店に就職しますが、コンピュータに未来を感じ転職します。やがて事業をおこしますが、すべてが順調に進んだわけではなく、手痛い裏切りにも合い、いくつもの苦しみを経て現在のオービックへとつながるのです。

 木田元先生は著名な哲学者で、私が社会学を学んでいた頃に著書を読んだことがありますが、難解すぎてほとんど理解できませんでした。だからきっと、勉強一筋の堅い人なのだろうと思っていたのですが、「私の履歴書」を読むとそれが全然違うのです。敗戦直後の混乱期に10代を過ごされるのですが、闇屋に米などを売り生計を立てられていたそうです。1つエピソードを紹介すると、米を売りにいくため汽車に乗らなければならないのですが、当時の汽車は乗客があふれ普通に乗ることはできません。みんなが窓から乗り込もうとするのですが、それでも重い荷物を持ってスペースを確保するのは困難です。そこで木田先生は、日本人は誰も乗ろうとしない朝鮮人が占領している車両に、朝鮮人から袋叩きにされながらも窓から乗り込んでいくのです。メルロ・ポンティやハイデガーに関する極めて難解な書物を上梓されているあの木田先生がまさか・・・、と大変興味深いものでした。

 「私の履歴書」は著者が自分自身のことを書いているわけですから、当然今生きている人が書くことになります。一方、私が小学生の頃に興味を持てなかったエジソンやリンカーンは大昔の人の自伝です。時代背景が異なるのだから子供がそのような本を読んでも興味を持てないのは当然ではないか、というのは私の言い訳ですが、今生きている人の話の方が文章からその情景が想像しやすいだけに、読みやすいのは当然なのです。

 さて、「私の履歴書」は好評だった人物のものは単行本や文庫本として刊行されています。私が何度も読み返し、読む度に勇気付けられているのが、松下幸之助の『夢を育てる』、本田宗一郎の『夢を力に』、稲盛和夫氏の『ガキの自叙伝』です。この3冊については、すべての日本人ができるだけ若い頃に読むべきだと私は思っています。

 海外ではリチャード・ブランソンの自伝を気に入っています。ヴァージンレコードやヴァージン航空創業者のリチャード・ブランソンは、読み書きの障害があるため勉強ではハンディキャップを背負い、ハイスクールを中退、その後貸しレコード屋を始め、いくつもの至難を乗り越えていきます。特にヴァージン航空設立の過程で、ライバル社であるブリティッシュ・エアウエイズから様々な嫌がらせを受けても決して屈しないところが感動を呼びます。これも是非多くの人に読んでもらいたいと感じています。

 最近読んだ自伝では、作家・山崎朋子さんの『サンダカンまで』という自伝が印象に残っています。山崎氏は、戦争で軍人だった父親を失い、母親と妹と共に大変貧困な幼少時代を過ごされます。女優を目指していた彼女は、東京にでて貧乏な暮らしを続けながらも雑誌のモデルの仕事も始めていました。ところが当時つきまとわれていた男性に夜道で待ち伏せされ、顔面を7箇所もナイフで切り裂かれます。女優やモデルの道はこれで断たれました。その後、女性史研究家として活動され、日本婦人問題懇話会という言わば当時のフェミニストの大御所が集まっていた会に参加します。そこで、顔の傷について信じられないようなひどい仕打ちをうけるのです。この部分は大変印象深いので著書から引用したいと思います。

 一介の主婦のわたしからすればそれこそ仰ぎ見なければならぬような社会的キャリアの女性が、突如、わたしの方を向いて、
「山崎さん、あなたのお顔のその傷は、どうして附いたの? 化粧で分からないように工夫してるみたいだけど、幾つあるの?」
 そう問いかけながら、右手を伸ばし、人差し指で、傷痕をひとつずつなぞり始めた。そして七箇所をすべてなぞり終えると、
「あなたは、長く伸ばした髪をいつでも左側に垂らしていて、だから左頬はかくれているけど、こっちにはもっと大きな傷痕があるんじゃないの?」
 と言いつつ・・・

 この「仰ぎ見なければならぬような社会的キャリアの女性」は、名前は伏せられていますが、本文をよく読むと誰かが分かります。その人は後に大臣にまでなった大変著名な人物です。

 雑誌のモデルをしている女性が、顔面をナイフで7箇所も傷つけられたのです。モデル生命が絶たれただけでなく、女性であるが故に傷痕に対し差別的な扱いを数知れず受けてきたに違いありません。その傷痕に対して、よりによってフェミニストの大御所である女性からこんなにもひどい言葉を吐かれ、傷痕を指でなぞられたのです。この出来事を山崎氏は、「忘れようにも忘れられず、消そうといくら努めても消えない記憶」と表現されています。
 
 山崎氏は、その後『サンダカン八番娼館』という本を上梓され、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞され、この本は映画化もされました。しかし、氏はこのベストセラーで有名になりましたが、テレビ出演などはほとんど断っていたそうです。(この理由はここでは述べませんが顔面の傷痕とは関係ありません)

 自伝にはフィクションにはないドラマがあります。感動があります。自分はなんて些細なことで悩んでいるんだ・・・、とか、こんなことでくじけてはいけない・・・、とかそういった気分にもなり勇気付けられます。

 これを書きながらも、私は明日の「私の履歴書」を楽しみにしています。今月(2010年11月)連載されている三菱重工業の西岡喬氏の自伝が日を重ねるに連れておもしろくなってきているからです。