マンスリーレポート

2011年5月号 被災者支援よりも重要なこと

東日本大震災が発生して2ヶ月近くがたちました。発生直後から急速に全国的、あるいは全世界的に広がった「被災者を皆で助けよう!」という熱狂的ともいえる盛り上がりはいくぶん落ち着いたようにもみえますが、それでも依然「被災者のために!」というムードは続いています。

 マスコミの世論調査をみてみても「寄附をおこなった」と答える人は(母集団にもよりますが)過半数を超えていますし、その金額も決して小さくありません。私の周りをみてみても、数万円単位で寄附をしている人もいて、なかには、無職で仕事がない、と日頃は嘆いているのに高額を寄附している人もいますから驚かされます。

 もちろん被災者のために各自ができることをするという考えは間違っておらず、私自身も異論はありません。しかしながら、「被災者に対して何もしていないことがまるで犯罪であるかのような雰囲気」が生じてくるとすればこれは問題です。

 今回は問題となる2つの点について考えてみたいと思います。

 まずひとつめの問題は、被災者を支援する程度(一番分かりやすいのは寄附金の額)が大きければ大きいほど偉いんだ、という空気が広がってしまうことです。すでに、有名人の寄附金のランキングのようなものがインターネット上に出回っているようですが、こんなものには何の意味もありません。匿名で寄附をしている有名人もいるでしょうし、例えばたった一度1千万円を寄附した人と、毎月100万円を今後10年間寄附していく人のどちらが被災者のためになるか、という議論もあります。年収1億円の人と300万円の人では当然支援できる額が変わってきます。改めて言うまでもないことですが、寄附を含めた支援活動というのは「各自のできる範囲」でおこなうべきです。

 被災者支援が盛り上がりすぎることで生じる可能性のあるもうひとつの問題は、「支援が必要なのは被災者だけではないことが忘れられていないか」ということです。

 今の日本には他者からの支援を必要としている困窮者が少なくありません。きっとあなたの周りにも、失業者、ひきこもり、あるいはホームレスとなってしまった人やその予備軍の人もいるのではないでしょうか。また、身体的にハンディキャップを背負っている人、うつや適応障害を含めた精神障害で社会参加ができていない人、あるいはHIV感染が原因で社会から不当な偏見を持たれ疎外されているような人もいるわけです。

 私は、被災者支援が熱狂的になりすぎることで、こういった人たちへの社会からの眼差しがおざなりになってしまうことを危惧しています。例えば、あなたが郵便局に義援金を振り込みに入ったその帰り道に、仕事が見つからず所持金も底をつきアパートを追い出されその日のねぐらとなるインターネットカフェを探している人とすれ違っているかもしれないわけです。

 以前別のところで述べたことがありますが、私は今の日本が世間でよく言われるような「格差社会」だとは考えていません。希望すればほとんどの人が少なくとも高校には進学でき、読み書きができるわけですから内容にこだわらなければ仕事はないわけではありません。生活保護などの公的扶助もこれほど充実している国もそうはありません。インフラが整備されているおかげで、例えば公園の水道水を飲むこともできます。無料で水が飲める国というのはほとんどないのです。また、トイレも、駅や公園、あるいは図書館などで、無料で使用することができます。しかもトイレの紙を便器に流すことができるのです。(我々は当たり前のように感じていますが、お尻を拭いたトイレットペーパーを便器に流していい国は少数で、アジアではほとんどの国がトイレの横に置かれているゴミ箱に大便が付着した紙を捨てます。また、そもそも紙を使わない国や地域もあります)

 もう少し具体的な話をしたいと思います。最近はかなりましになってきたとは言え、タイでは高校どころか中学も、さらに小学校さえも卒業できない子供が大勢います。その子供たちはまだ小学校低学年のときに学校をやめて、農作業や内職を手伝います。ひどい場合には夜中に観光客に花を売ったり、信号待ちしている車に駆け寄り窓を拭いて乗客から小銭を乞うたりしています。子供たちはボロボロの衣服を身にまとい例外なく裸足です。(このような"ビジネス"には元締めがいてボロボロの衣服はパフォーマンスのひとつだ、と言う人もいますが10歳未満の子供たちが深夜に働かされているのは事実です)

 もっと言えば、世界には国籍を持たない人が1,200万人以上もいることが指摘されています。(下記参考文献参照) そのような人たちは仕事ができなければアパートを借りることもできません。もちろん電話を持つことなど不可能です。(実は日本にも無国籍の人が2万人程度いるのではないかと言われているのですが、この問題は今回は取り上げないでおきます)

 さて、話を戻しましょう。世界に目を向けたとき、「日本社会は格差社会などではなく、これほど恵まれた国もない」、というのが私の基本的な考えです。しかし、現実には失業者やひきこもりが少なくなく、若い世代にもホームレスが増えているという報告もあります。(下記参考文献参照) それに、そもそも街に活気がないというか、閉塞感を醸し出している人たち、それも若い人たちが非常に多いように感じます。これは日本よりはるかに格差社会のタイの陽気な雰囲気とは対照的です。

 なぜ、日本は恵まれたインフラが整備されており格差は大きくないのにもかかわらず、これだけ<困窮している人たち>が大勢いるのでしょうか。

 いろいろと理由はあるでしょうが、私は日本社会の最大の問題は「身近にいる困っている人に対する無関心」だと考えています。なぜ、タイではあれほどの格差があり、生活保護などの公的扶助もほとんどないのにもかかわらず、日本社会のような閉塞感がないのか・・・。タイ文化に少し溶け込めば分かりますが、彼(女)らは他人に対する親切を当たり前のことと考えています。隣人が困っていれば食事を分け与えますし、寝床がなければ泊めてくれることも珍しくありません。タイ旅行中にトラブルが起こり現地の人々に親切にしてもらった経験のある日本人も少なくないのではないでしょうか。さらに、最下層(という言い方は失礼ですが)のまったくお金がない人たちも、犬や猫に残ったご飯やパン屑をあげています。

 つまり、タイでは(タイだけではありませんが)自分より困っている人(や動物)を助けるという慣習が不文律として存在しているのです。このため、タイ人と食事に行くと、ほとんどの日本人は(たとえタイ人が何人いたとしても)飲食代金を払わされます。しかも、お礼のひとつもないのが普通です。これは彼(女)らからみれば「お金をよりたくさん持っている人(日本人)が支払うのが当然」だからです。

 ワリカンがいいか悪いかは別にして、身近に困っている人がいれば助けるのが当たり前、という慣習を日本社会も見習うことはできないでしょうか。いえ、「見習う」のではなく「思い出す」が正しいかもしれません。というのは、かつての日本にも相互扶助の精神は存在していたからです。「結(ゆい)」という言葉が有名ですが、これは農作業や住居建築などを皆で力を合わせておこなう相互扶助共同体のことです。今でも沖縄には「ユイマール」と呼ばれる結が残っています。(最近はほとんど消滅しかかっているとも言われますが・・)

 日本人が東日本大震災の被災者にみせた慈悲の精神をもっと身近なところで発揮できれば今よりも遥かに住みやすい社会になるに違いありません。最後に、私の好きな言葉を紹介しておきます。

「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」 ダグ・ハマーショールド(元国連事務総長)

参考文献:
『ルポ 若者ホームレス』 飯島 裕子、ビッグイシュー基金 (ちくま新書)
『ビッグイシュー日本版』第166号(2011.5.1)「特集 無国籍」