マンスリーレポート

2019年6月 競争しない、という生き方~その2~

 このことは生涯誰にも話さず棺桶まで持っていこう......。そう思ったのは1991年3月、翌月に就職する会社のオリエンテーションのときです。そのときの情景が私にはとてもショッキングであり、「これは誰にも言ってはいけない」と言い聞かせてきました。それから30年近くたちますが、今もときどきそのシーンが蘇ります。その時は(その人の名誉のために)「棺桶まで持っていく」と誓ったのですが、これだけ時間が経てば個人を特定できないでしょうからそろそろ他言してもいいのではないか、と最近になって考えるようになりました。今回はその話をします。

 そのオリエンテーションは一泊二日で会社の保養所でおこなわれました。同期の者どうし酒を飲み議論を交わし深夜まで楽しく過ごしたことを覚えています。ようやくみんなが就寝する頃、私は眠れずにその保養所のキッチンにひとりでタバコを吸いにいくことにしました(当時の私は喫煙者でした)。

 ポケットにタバコがあることを確認しながら廊下を歩いていると、ある部屋からシクシクと泣き声が聞こえてきます。「なにやら聞いてはいけないものを聞いてしまったようだ。そうっと引き返そう......」、と今なら思うかもしれませんが、当時22歳のバカな私は「これは面白い!」と不謹慎なことを考え、ドアの隙間から部屋の中の様子を伺うことにしました。

 泣き声の主は同期の者ではなくその会社の男性社員でした。しかも30代半ばの中堅社員で、このような場で涙を見せるような人ではありません。もうひとりその部屋にいたのがその上司で、どうやら中堅社員が上司に泣きながら何かを訴えているようなのです。そして、その社員が次の言葉を放ったとき、私の身体は凍り付きました。その言葉とは、「なんで僕は出世できないんですか」というものだったのです......。

 過去のコラム「競争しない、という生き方」で、私の初任給が他の同期の者より2千円少なかったことで、私の上司が怒り出したことを紹介しました。実はこのコラムを書いたときも、この中堅社員が泣き出した話も書くことを考えたのですが、そのときは"封印"しておくべきだという結論になりました。しかし、「競争しないこと」をいろんな人に勧めている立場の私としては、この「競争をしらけさせるエピソード」をやはり伝えておくべきだ(もう個人の特定はされないだろう)、と考えるようになりました。

 過去のコラム「己の身体で勝負するということ」で述べたように、私は大学名や家柄といった「肩書」には何の意味もないことを大学生時代に当時の先輩たちから学びました。この頃は「出世」というものを深く考えていませんでしたが、出世とは昇進して課長とか部長といった肩書がつくことですから、先輩たちから真実を学んでいた私からすれば、この中堅社員が涙を流して訴えるシーンがただただ馬鹿馬鹿しく、とても愚かなものに見えたのです。

 果たして人は、上司に涙を流しながら訴えるようなことまでして出世しなければならないのでしょうか。出世すれば給料が上がるのでしょうが、出世しなかったときと比べてそんなに大きな差がつくのでしょうか。むしろ出世して管理職になって残業代がつかずに給与が下がった、という話もよく効きます。出世すれば尊敬されるのでしょうか。そうかもしれませんが、出世に価値を見出さない者は私だけではないでしょうし、私も出世を蔑むようなことまではしませんが、いい歳をした大人が涙を流して訴えるシーンを見てしまうと、私のような性格の者は「そんな出世ならいらない」と考えてしまいます。

 そもそも出世というのは、その会社のなかだけのものであり、取引先の人からはそれなりに評価されることもあるかもしれませんが、その会社に縁もゆかりもない人からは何の興味ももたれません。私が就職したような小さな会社ではなく、大企業の課長さんなどであれば「すごいですね~」と言われるのかもしれませんが、私のように大企業がすごいと思わない者も一定数はいるはずです。

 出世する人は人間的に魅力のある人なのでしょうか。これは私の「課題」として長い間考えてきましたが、今年51歳になる現在の私がたどり着いた結論は「そんなものは関係がない」です。

 学歴や職歴を"無視"して「己の身体で勝負する」を金科玉条としている私は、あえて「出世」や「肩書」を拒否してきました。それでこれまで困ったことは一度もありませんし、冒頭で述べた中堅社員のエピソードを思い出すと、出世を目指すことがつまらないことにしか思えません。

 そして、私のこの考えにさらに拍車がかかったのが、NPO法人GINAの関連で、タイでいろんな人にインタビューをしていたときの経験です。2004~2006年頃、繰り返しタイに渡航していた私は、現地で長期間滞在(多くはいわゆる"沈没組")している日本人の声を集めていました。買春や違法薬物に手を染めている人たちにインタビューすることが主目的でしたが、結果として"健全な"日本人とも知り合いました。

 興味深いことに、そのような人たちのいくらかは高学歴で大企業勤務の経験があります。なかには官公庁に務めていた人や、進学校の元教師という人もいました。そして、こういった人たちにもいろんなタイプがいて、「ああ、この人のコミュニケーションの取り方は誤解を招くだろうな...」と感じる人もいれば、「この人は話もおもしろくて器が大きい生徒会長タイプなのにどうして...」と思う人もいました。

 何人かにインタビューをして私が感じたことは、(買春や違法薬物はNGですが)一年に一度日本に帰国してアルバイトでそれなりのお金を稼ぎ、タイにやってきてのんびりと過ごしたり、難解な書物を読み解くことに一日を費やしたりしている人は少なくとも"不幸せ"には見えない、ということです。

 タイに滞在しているときは、出世など初めから求めず楽しそうにしているタイ人が気になります。過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」で紹介した「タイの農民と日本のビジネスマン」の逸話からもわかるように、彼らの多くはあまり働きません。

 私自身の場合も、出世を求めたことは一度もなく、医師になり研修医を終えてから、しばらく日本でHIVについて学び、その後タイに渡航しエイズ施設でボランティアをおこないました。そこで知り合った欧米の総合診療医達に感化された私は帰国後、母校の大阪市立大学総合診療部の門を叩きました。しかし常勤ではなく他の医療機関にも学びに行くことを選択しました。つまり好きなことをさせてもらっていたのです。出世など頭の片隅にさえない私は周りからみれば気楽な人生を送っているように見えるでしょうが、これはその通りで、「出生しない」「他人と競争しない」と割り切ってライバルをつくらなければ不要なストレスを避けることができ、嫉妬心に悩まされることもありません。

 私自身の人生が他人から羨ましがられることはないでしょうが、出世や肩書を捨ててタイで楽しく過ごしている日本人や、あまり働かないタイ人と比べ、「出世」に躍起している人たちは幸せなのでしょうか。そこに幸せがあると考えるから涙を見せてまで上司に訴えるのでしょうか。

 ちなみに、若い頃の私に「己の身体で勝負せよ」と教えてくれた魅力的な先輩たちも、大企業で役職をもつような「出世」はされずに(一部大企業の幹部になっている人もいますが)、魅力的な仕事を持ち幸せな生活をされています。冒頭で紹介した涙で出世を訴えていた中堅社員の行方は知りません。