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メディカルエッセイ


メディカルエッセイINDEX
2005年7月16日(土)
19.「年齢が理由で医学部不合格」は妥当か 

  群馬大学医学部を受験した東京都目黒区の主婦(55歳)が、「合格者平均以上を得点しながら年齢を理由に“門前払い”されたのは不当」と入学許可を求めて前橋地裁に提訴した、という事件が報道されました。

 簡単にこの事件を復習しておきましょう。
 
 2005年の群馬大学医学部を受験したこの主婦(佐藤さん)は、5月下旬に同大学から送られてきた封筒を開けて驚いたそうです。

 合格者の平均点は551.2点。佐藤さんの得点はそれを10.3点上回る561.5点だったそうです。「本当は合格だったのが、間違って不合格にされたのでは」、佐藤さんはそう考えてすかさず大学に電話を入れました。

 応対した担当者は「合格者の平均点を超えているのに、なぜ不合格なのか」という問いに、「センター試験、個別試験、小論文、面接、調査書のいずれかに著しく不良のものがある場合は不合格もありうる」と入試要項の一文をそのまま読み上げたといいます。

 「では私の場合、著しく不良だったのは面接だったのか」と佐藤さんが尋ねると、この担当者は「総合的に判断した」と言葉を濁したそうです。なかなか引き下がらない佐藤さんに、担当者は「個人的見解」と前置きした上でこう言ったそうです。

 「国立大学には長い年月と多額の費用をかけて社会に貢献できる医師を育てる使命がある。しかしあなたの場合、卒業時の年齢を考えたとき社会に貢献できるかという点で問題がある。」

 このときに、佐藤さんは自分の年齢が不合格の理由だったことを悟りました。
 「時間を費やし、入れ込んで勉強しただけに、年齢が理由で不合格にされるのは、やり切れない。「総合的な判断」で年齢が考慮されるなら、最初から入試要項に明記しておいてほしかった。何のために三年も頑張ってきたのか…」

 佐藤さんのこの思いは当然でしょう。ちなみに、2003年には熊本大学を卒業した六十六歳の男性が医師国家試験に合格しています。

 さて、この事件をめぐって、医師専用の掲示板やメーリングリストでは、多数の意見が飛び交いました。新聞などマスコミの取材に答えた医師もいます。

 例えば、2005年7月5日の東京新聞の記事によりますと、都内の外科医(41歳)は「多額の税金を使う国立大学医学部の場合、育てた医者の将来的な社会的貢献度を尺度にするのは間違っていない。この女性が一人前の医者になるのは60歳代半ばで、体力的に難しい。研究医ならまだしも、女性が希望する臨床医は難しいだろう」との見解を述べています。

 医師が意見を述べている掲示板やメーリングリストでもこのコメントに同調するような意見が多数ありました。

  「高齢者医学部入学反対者」の述べている理由をまとめてみると次にようになります。

@高齢者(何歳から高齢者かは分かりませんが)が医学部合格を果たして卒業したとしても、一人前 の医師として働ける期間は長くない。これは税金の無駄遣いである。

A医師は他の職業よりも体力と知力が要求される。体力が衰えて、記憶力の鈍った高齢者に適切な 医療はできない。

B高齢の研修医は、年下の指導医や看護師などのパラメディカルが指導をおこないにくく迷惑である。

C高齢者が医学部に入学することによって、若い受験生がひとり不合格になる。この若い受験生が 気の毒である。

 @が最も多い意見ですが、AやBやCの意見を述べる医師も少なくありません。

 では、ひとつひとつを検証していきましょう。

 まず、@ですが、「医師として働く期間が短いのは税金の無駄遣い」というのであれば、医学部合格者は全員が医師となり、長期間働かなくてはならなくなります。けれども、実際は、医学部に合格したものの途中でドロップアウトする者もいますし、医師になったけれども、結婚や出産を機に退職する女性医師は珍しくありません。数は多くありませんが、他の職業に転職する者もいます。

 たしかに、自治医大や防衛医大のように、卒業までの費用全額を行政が負担しているような大学では、卒業してから一定期間は、行政の人事命令どおりに働く必要があるでしょう。

 しかしながら、群馬大学も含めて普通の大学ではそのような規制はないはずです。そもそも憲法では「学問の自由」が保障されています。年齢を理由に、不合格とするのは明らかに憲法違反です。

 私は27歳で医学部に入学しました。27歳であればほとんどどこの大学でも年齢を理由に不合格になることはないでしょうが、私が面接でも答えた医学部の志望動機は、「臨床医になりたい」ではなく、「社会学的な観点から医学を学びたい」というものでした。結局、臨床医になったわけですが、当時の私は、「卒業までに税金が投入されるのは分かっているが、それは他の学部でも同じで(金額は違うでしょうが)、学問を学びたいという理由があり合格点を取れば、入学を拒む理由はどこにもない」という考えをもっており、それは今でも変わっていません。

 佐藤さんの件に話を戻すと、彼女が言うとおり、年齢を理由に不合格にするならば、大学は初めからそれを示すべきで、願書を受けつけるべきではありません。そんなこと、誰が考えても分かることで、わざわざ司法の判断を待つこともないように思えます。おそらく、大学側としては、裁判では、年齢以外の不合格の理由を立証しようとするのでしょう。

 次にAですが、それを言うなら、障害者の医学部入学も制限すべきという理論にならないでしょうか。現在の医師法では、全盲者であっても全聾者であっても医師国家試験を受験することができます。医学部生の間に、あるいは医師になってから、病気や事故で、体力のいる仕事ができなくなる医師だっているでしょう。Aの意見を述べる人は、そういう医師に対してどのように思っているのでしょうか。

 Bはおそらく社会というものが分かっていない人が発言しているに違いありません。どこの職場に行っても、上下関係というのは年齢ではなく、キャリアで決まります。私が企業で働いていたときは、年齢がずっと上の後輩がいました。また、19歳時にウエイターをしていたときは、17歳の先輩がいましたし、30歳の後輩がいました。もちろん17歳の先輩には絶対的な敬語を使いますし、私が仕事でミスをすれば容赦なく手や足が出ました。そして、30歳の後輩には容赦なく厳しい指導をしました。これは社会の常識で当然のことです。

 こんなこと、学生のアルバイトでも分かることですが、Bのような発言をする人は社会に出たことがないばかりか、学生のときも家庭教師や塾講師など、他人から「先生、先生」と呼ばれる仕事しかしていないに違いないと思います。

 Cは、明らかに不当な年齢差別で、「高齢者は長生きしないから選挙権を与えない」と言っているのと同じようなものです。

 私自身の臨床の経験で言えば、社会人を経験していて得したことは山ほどありますが、逆に損をしたことは一度もありません。社会人の経験があると言うだけで、いろんなプライベートな話をしてくれる患者さんは少なくありません。その逆に、「社会人の経験のあるような医師には診られたくない」という患者さんにはお目にかかったことがありません。

 私はまだ30代ですし、(当たり前ですが)主婦の経験もなければ、身内を介護した経験もほとんどありません。そういう意味では、佐藤さんの視点は私とはまったく異なるわけで、佐藤さんだからこそ心を開く患者さんもきっとおられることでしょう。

 誤解を恐れずに言うならば、年齢ではなく、「プライドを満たしたい」とか「裕福な暮らしがしたい」という理由で医学部を受験する輩を不合格にしてもらいたいものです。 

2005年7月6日(水)
18.6月20日は何の日か知ってますか? 

 「○○の日」というのをちょこちょこ目にします。例えば、6月4日は、ム(6)シ(4)だから「虫歯の日」、11月12日は、イイヒフだから「皮膚の日」、2月22日は、ニャンニャンニャンで「猫の日」なんていうものもあります。

 では、6月20日な何の日がご存知でしょうか。この日は、日本で決められた日ではないため、「虫歯の日」や「皮膚の日」のように数字の語呂合わせからできてはいません。

 正解は、「世界難民の日」です。「世界難民の日」は、2000年の12月に国連総会で制定され、2001年6月20日に第1回が実施、今年は第5回目ということになります。これを記念して、日本全国各地でも様々なイベントが開かれています。

 ところで、この「世界難民の日」をご存知の方はどれくらいおられるでしょうか。今年の6月20日は月曜日で、私はその日の新聞やテレビに注目していたのですが、私の知る限り、このことを取り上げたマスコミはゼロでした。「猫の日」や「虫歯の日」であれば、関連したイベントがマスコミに取り上げられるのに、です。

 「世界難民の日」がマスコミで報道されないのは、それだけ日本国民の難民に対する関心が低いからでしょう。誰も興味を示さないからマスコミも取り上げないということだと思います。私は、報道しないマスコミを批判しようとは思いません。けれども、年に一度でもいいから、日本では考えられないような劣悪な環境で生活せざるを得ない人々、特に子供たちがいることを、何らかのかたちで考える機会があってもいいのではないかと思います。

 私は以前別の場所で、「寄付をするならユニセフやUNHCRなどしっかりとした団体に寄付をしましょう」という旨を主張しました。街頭で募金活動をしている団体のなかには、相当うさんくさいものもあり、寄付金が正当に使われているかどうか、はなはだ疑わしいと思うからです。

 最近、残念なことに、私のこの考えを裏付けるような事件が報道されました。

 大阪の34歳の男性と60歳の男性が、職業安定法違反(虚偽広告)容疑で逮捕されたという事件です。

 新聞(産経新聞2005年5月31日)によりますと、容疑者は、NPOを名乗って大阪市内の繁華街でアルバイトを雇って街頭募金をする際、「ケーキ製造」などと虚偽の求人広告を出していたというものです。二人は昨年十月から十一月に発行された求人雑誌で計六回にわたって、大阪市内の喫茶店名義でアルバイトの求人広告を掲載し、実際は街頭募金のスタッフとして雇うつもりだったのに、ケーキの製造や試食、清掃業務など虚偽の名目で募集した疑いが持たれているとのことです。

 容疑者らは、当日、集合場所に来た十代後半から二十歳代前半の若者らに、「ケーキ製造などのアルバイトはすでに募集が終了した。募金活動だけが残っている」と嘘をつき、募金箱やそろいのジャンパーなどを貸して、そのまま街頭募金をさせていたといいます。

 募金場所は大阪のキタやミナミの繁華街で、一度に数十人を雇用し、「NPO緊急支援グループ」という団体名で難病の子供たちへの支援を呼びかけさせ、終了後、集まった募金と引き換えに時給千円のアルバイト代を支給していたとのことです。募金は多い日で一日に百万円近くあり、これまで数千万円以上を集めたそうです。
 彼らは、実際に50万円を、あるNPO法人に寄付し、あたかも慈善活動をしているように見せかけるという巧妙な手口を使い、残りの金額は使途不明になっているそうです。

 容疑者のひとりは、株式投資やソフトウエアの開発、昆虫育成などの事業失敗で多額の借金を抱えていたそうですが、日頃から贅沢な暮らしをしており、周囲からは不振がられていたという報道もあります。

 これほど許しがたい事件もないと思いますし、この団体に寄付をされた人達は抑えがたい憤りを感じられていることだと思います。

 さて、「よく分からない街頭募金に協力するのではなく、ユニセフやUNHCRなど世界規模のしっかりとした機関に寄付をすべき」、というのが私の考えですが、それで問題がまったくないかというと、残念ながらそういうわけでもありません。その理由を述べていきましょう。

 まず、その寄付金が、災害などで実際に困っている末端の人々のところにまで届いているかどうか疑問が残ります。例えば、スマトラ沖津波の被害者が多いインドネシアでは、津波から半年が経った最近になってようやく被災者にいくぶんかのお金が支給されたそうです。しかもとうてい生活できないようなわずかな金額だそうです。

 これを報道した「クローズアップ現代(2005年6月27日放送)」によると、ユニセフなどの機関が寄付したインドネシアの行政機関で、不正に横領された可能性が強いそうです。

 また、タイのピピ島では、タイ政府が多額の資金を投じて島を再建しようとしているのですが、それは次回津波が起こったときに被害を少なくするようなインフラの整備に重点が置かれ、海岸線に沿って建築物の構築がすすめられているそうです。ところが、海岸線には大勢の住民の住居や商店が存在し、政府の計画がすすめられると、立ち退かざるを得ません。そういった住民たちは、津波で家や店をつぶされ、必死の思いで建て直したのにもかかわらず、政府の勝手な方針によって再度撤退を余儀なくされるというわけなのです。これでは、結果的には我々の寄付金が、結果的に被災者を苦しめるという皮肉なことになってしまいます。

 大きな機関からの寄付金とはまったく正反対の観点からみてみましょう。

 タイのプーケットは、津波で大きな打撃を受けたのにもかかわらず、現在急速なピッチで復興が実現しています。これはひとつには、タクシン政権がピピ島よりも、プーケットの観光事業再建に力を入れ、巨額の資金を投入していることもありますが、実際には、外国人が、店を建て直したり、ビーチをきれいにしたりと、ボランティアとして活動していることが大きな理由のようです。彼らはもちろんボランティアとして無償で復興を手伝っているのです。

 何ヶ月もに渡り、プーケットに留まり、無償で復興を手伝っている彼ら彼女らのバイタリティはどこからくるのでしょうか。そういえば、私が昨年1ヶ月間、ボランティア医師として滞在した、タイのロッブリーのパバナプ寺でも、西洋人のボランティアは短くても半年、長ければ数年の単位でボランティアに来ていました。短ければ数日、長くても一ヶ月から二ヶ月間しか滞在しない日本人のボランティアとは大きな違いです。
 私のある知人が言っていたのは、「西洋人は文化として寄付やボランティアの習慣がある」、ということです。

 私は、これは日本人もそのまま見習うべきだと考えています。長期間ボランティアをしている西洋人は、必ずしも裕福な人たちばかりではありません。にもかかわらずボランティアに従事するのは、それが「文化としての習慣」になっているからでしょう。

 最近、「子供が小さいうちから家族で海外旅行をしたい」、と考える家庭が増えているそうです。子供の頃から、日本よりも発展途上の国に行き、現地の人々の生活を見学したり、あるいは、そういった地域にボランティアに来ている外国人と交わり、仕事を手伝ったりすることは素晴らしい体験になるのではないでしょうか。

 今から何年かがたったとき、6月20日は何の日かを知らない大人たちに、若い世代がそれを教えて、世代間で難民について考える、そんな時代がきてほしいものだと思います。

2005年6月16日(木)
17.なぜあの学生は退学にならないのか 
 2005年5月に、大阪大学でとんでもない事件が発覚しました。

 大阪大学医学部の学生が、「ネイチャー・メディシン」という医学誌に発表した論文のなかで、なんとデータの捏造があったと言うのです。

 少し詳しくみてみると、その学生が発表した論文に使われている画像データが複数個所で同じものが使われていることを、研究室の研究員が発見したそうです。直ちにその学生を問いただしたところ、学生は、一部で意図的に画像を改変したことを認めたそうです。また、この学生が国内に発表した論文にもデータが未熟なところがあり、論文の取り下げの申請がおこなわれたそうです。

 この学生は、「マウスの実験はきちんとやった」と言い、画像については「いいデータを早く出さなければと思った」と話したそうです。

 しかし、「実験はきちんとやった」などというこの学生の言葉をいったい誰が信じることができるでしょうか。

 この論文の内容は、肥満に関する遺伝子についての研究結果であり、将来的には肥満の予防あるいは治療に応用できると考えられていたものです。学生は、医学をばかにしているばかりか、他の研究者の信頼もなくしていると言わざるを得ません。

 捏造したデータを平気で発表する研究室の信頼も落ちるでしょうし、これでは大阪大学医学部から発表されるすべての論文、さらには他学部の論文、もっと言えば、日本人のすべての論文の信憑性が疑われることになるかもしれません。

 この学生のとった行動は、法的にどれくらい裁かれるべきなのか私には分かりませんが、断じて許せるものではありません。捏造したデータを使った論文を平気で発表できるこの学生は、いったい医学というものをどのように考えているのでしょうか。真実を解明することに情熱を燃やし、着実に研究を積み重ねている研究者に対し、この学生はどのように思っているのでしょうか。法的には無罪であったとしても、この行為は、科学に対する「冒とく」であり「侮辱」であり、二度と科学に携わることをさせてはいけない、と私は考えます。

 たしかに、人間は誰でも「失敗」することがあります。昨今マスコミで報道されている「医療過誤」にしても、「失敗」から患者さんの生命をなくしたものもあります。それに対して、「人間は誰でも失敗するものだから過失のある医師を許してほしい」というつもりはありません。けれども、過失をした医師とて、患者さんのためになると思うことをしているのです。例えば、患者さんを救おうと思って手術をおこない、結果的にそれが「失敗」となり、法的に過失が認められたというわけです。

 それに対し、データ捏造の学生は、明らかに「悪意」があります。この学生の行為で、命を亡くした人はいないでしょうが、「悪意」のある行為を断じて許してはいけない、と私は思います。

 それにしても、なぜこの学生は退学にならないのでしょうか。退学にならないどころか、報道では名前さえ公表されていません。この学生は現在医学部の6回生だということですから、来年の今頃は医師免許を所得して、研修医として患者さんの治療をおこなうことになるのでしょう。しかし、こんな医者を誰が信用することができるでしょうか。

 この医学生の起こした事件とほとんど同時期に、北海道のある医師が殺人容疑で書類送検されました。この医師は、入院中の患者さん(当時90歳)の人工呼吸器のスイッチを切り死亡させたというのです。この医師がスイッチを切る時点では、この患者さんはすでに意識不明であり、もしもスイッチを切らなかったとしても死亡した可能性が強いとのことです。

 報道によりますと、この医師と患者さんの関係は非常に良好で、患者さんの長男の妻は、「まるで親子のように仲が良かった。近所でも評判のいい先生だった。」と発言しているそうです。そして、殺人容疑での書類送検に対して、「こんなことになるなんて...。先生はまだ若いので、先のことが心配です」とつぶやいたとのことです。また、呼吸器のスイッチを切ることについては家族の同意があったと報道されています。

 現在の日本では、安楽死に関する法的整備がきちんとなされているとは言い難い状況であり、このようなケースに遭遇することは私にもしばしばあります。法的には、いったん作動させた人工呼吸器を止めることはむつかしいことが予想されますから、患者さんが高齢で、先が長くないと思われるときには、あらかじめ患者さんと家族に、呼吸状態が悪くなったときに人工呼吸器を使うかどうかを確認しておくことが多いと言えます、

 おそらく、この医師もそのようなことを考えていたと思います。これは、私の推測ですが、この患者さんは、まだ先が短いという状態ではなく、呼吸器の説明をするタイミングになかったのではないかと思われます。ところが、何らかの理由で、突然呼吸困難に陥り、緊急的に気管内挿管をおこない、人工呼吸器を接続する事態になったのではないかと思われます。高齢者は、例えば、誤嚥などによって突然呼吸不全に陥ることもあり、それはこの医師も予想していたのでしょうが、患者さんと「親子のように仲がよかった」こともあり、急変したときの対応について、本人や家族にそういった話をするタイミングが結果的には遅くなったのではないでしょうか。

 安楽死や尊厳死といった問題は、また改めて述べたいと思いますが、こういった問題は、単に法律を制定すれば解決するといった問題ではありません。「死」とは、法律で決められるものではなく、それぞれ個人が決めるべきものだと思うからです。

 この医師が殺人容疑で書類送検されたのに対して、データを捏造した医学生は名前の公表がなされないばかりか、1年後には医師として患者さんと接することになります。このふたりのうち、どちらが患者さんの立場にたった医師と言えるでしょうか。答えは自明でしょう。私が患者ならこの書類送検された医師を信頼します。
 
 法律というものは、本当の意味でものごとを正しく判断できない、というのが私の持論です。本当の意味での罪の重さと、法律で裁かれる罪の重さは必ずしも相関していないように感じることがよくあります。

 例えば、「殺人」という罪を考えたときに、自分の低次元な欲求を満たすために少女を誘拐し殺害した未成年者は数年間の刑期を終了すれば社会に復帰します。これに対し、ヤクザが自分の親分の仇をとるために、抗争相手のヤクザを殺害すれば、ヤクザという理由だけで一般人よりも長い刑期を命じられるのが普通です。これら2つの例では、本当の意味でどちらが重い罪を受けるべきでしょうか。

 もうひとつ例を挙げましょう。大阪市では、スーツの支給を始め様々な手当てを市役所の職員に供給していたことが発覚し、税金を不当に使用していることが明らかになりました。これは職業倫理上許されないことですが、誰も職を失っていません。

 数年前に、中部地方のある警察官が、裏ビデオ所持で逮捕された犯人の所有していたビデオを自宅に持ち帰り懲戒免職になったという事件がありました。

 市民の税金を不当に使っていた大阪市の職員と、ビデオを自宅に持ち帰った警察官のどちらが懲戒免職になるべきでしょうか。
 
 私個人の考え方ですが、法律に従って生活することが正しく生きることではないと思います。私の基準は、「法律」ではなく、「良心」や「情熱」「人情」といったものです。アウトロー的な言い方をすれば、「法律」ではなく「掟」に従うべきということです。

 「掟」に照らして考えれば、データ捏造は絶対に許せる行為ではありません。多くの医師や研究者、それに間接的には患者さんをも裏切る行為になるからです。これに対し、日頃から仲がよかった患者さんの人工呼吸器のスイッチを家族の同意を得た上で切る行為は「法律」には反しているとしても、「掟」の基準では許されるのです。
 
 私は『偏差値40からの医学部再受験』で、医学生のカンニングを激しく非難していますが、これも「掟」を踏みにじる行動だからです。

 どのような仕事についても、自分なりの「掟」をもっていれば道を踏み外すことがなくなるのではないでしょうか。仕事だけではありません。あらゆる行為、あらゆる人間関係に「掟」を適用すれば、変わらざる真理と価値観に従い、正しく生きていけるということを私は確信しています。
2005年6月1日(水
16.タトゥーの功罪 

 タトゥーを入れる人が増えてきているように感じます。一昔前までは、タトゥー(刺青)とは、そのスジの人が入れるものと考えられていたように思います。ところが、最近では、10代の女性や家庭の主婦が、何のためらいもなく、「普通に」入れているような印象を受けます。

 タトゥーを「普通に」入れる人が増える一方で、日本には依然として、タトゥーに対する偏見があるのも事実です。

 例えば、タトゥーを入れている人は入場できない銭湯がありますし、入会を断るフィットネスクラブも珍しくないようです。私は、こういう事実は許しがたい「差別」だと思うのですが、そういう規則を設けている銭湯やフィットネスクラブに苦情が寄せられたり、差別の撤回を求めた市民運動が起こったり、という話を聞くこともありませんから、社会全体でみたときには、タトゥーを入れる人たちは、まだ充分に社会的に認められていないマイノリティであるのかもしれません。

 先日、この「差別」を逆手にとって、許しがたい利益を享受している若い男性の話を聞きました。二十代前半のこの男性は、全身にタトゥーを入れているのですが、「タトゥーがあるせいで、社会的に差別を受けておりそのため就職ができない。だから生活保護を受けたい。」という主張で、実際に生活保護を受けているのです。この男性は、全身にタトゥーを入れていると言っても手足には入っておらず、普通に衣服を着ればタトゥーを入れていることなど分かりません。自分が働かずにお金を得たいがために、屁理屈をこねているだけなのです。

 医師をしていると日々感じるのですが、生活保護を受給している人たちのなかには、本当は働けるのじゃないのかと思われる人が少なくありません。一方で、病気があるのだから生活保護を申請すればいいのに、と思われる人で、「どうしても生活保護には頼りたくない」という信念を持っておられる方もおられます。
 
 さて、タトゥーですが、タイでは日本よりもはるかに普及しているようです。バンコクの繁華街やパタヤなどのリゾート地では、タトゥーショップが乱立しており、ファッション感覚でタトゥーを入れる人が多いのに驚きます。

 けれども、タイではタトゥーとは、もともとはファッション感覚で入れるようなものではなく、神聖で宗教的なものなのです。

  タイ人なら誰でも知っている伝説があります。

 それは、アユタヤ時代の中部バングラチャン村での出来事です。タトゥーを入れた11人の村人は、ビルマ兵に切られてもケガひとつ負わず、逆に侵略者を苦しめたそうです。そして現在でもタトゥーが、「特別な力をもたらす」と信じる人が多いのです。
 最近、イスラム過激派による襲撃が続くタイ南部に派遣されるタイ国軍兵士のあいだで、タトゥーを入れるのが流行しているそうです。テロ活動と戦う兵士たちは、タトゥーに仏の加護を求めているのです。また、タイでは、実際にタトゥーを入れてから、「仕事も家庭も好転した」という人が大勢いるそうです。

 神聖化しているタトゥーを入れる彫師のなかには、「カリスマ彫師」と呼ばれる人がいます。例えば、タイのパトゥムタニ県在住のヌー氏がそのひとりで、氏のもとには、政治家やビジネスマンに加えて、兵士や警官、さらには女優も訪れます。アンジェリーナ・ジョリーの背中の「虎」も、ヌー氏の手によるものだそうです。

 ヌー氏によると、タトゥーと仏教の間には密接な関係があるそうです。「タトゥーはタイを支える精神的な柱。道徳心がない者は受け付けない。」と氏は言います。実際、兵士でも、イスラム教徒に対する敵意をむき出しにするような者は追い返すそうです。

 神聖で宗教的な意味を持ち、人々の精神の土台となるタトゥーですが、私は、安易にタトゥーを入れることの危険性を医学的な観点から主張したいと考えています。

 私が、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアをおこなったことは、別のところで述べましたが、このエイズホスピスに入所されている大半の患者さんが、タトゥーを入れていました。なかには、両手両足も含めて全身に鮮やかなタトゥーを入れている患者さんもいました。北タイの施設でお会いしたエイズ患者さんも全身にタトゥーを入れていました。

 そして、タイの医師や看護師が口をそろえて言います。「タイでは、正確な統計はないけれども、かなりの人がタトゥーを入れることによってHIVに感染している」、と。

 カリスマ彫師のヌー氏は、寺のなかの神聖なスペースで、「彫り」の施術をおこなうそうですが、バンコクの繁華街やパタヤなどのリゾート地でファッション感覚でタトゥーを入れる人も少なくありません。

 そして、こういった場所での施術は、感染予防が充分におこなわれているとは到底思えないのです。寺でタトゥーを入れたとしても、感染予防対策が万全とは言えないと思いますが、繁華街やリゾート地での施術は、私の目には危険極まりないものにうつりました。

 こういった地域のタトゥーショップでは、街頭でタトゥーの写真を見せて客引きをおこないます。客がタトゥーを入れることに同意をすると、近くの小屋のようなところに行くことになります。そこで施術がおこなわれるのですが、そういった場所には、滅菌器が置いてあるとは到底思えませんし、どれだけ無菌の環境で施術されるのか、多いに疑問です。 

 日々の臨床上で遭遇する患者さんのなかで、C型肝炎ウイルスを保有している人は少なくありません。日本全体では、およそ300万人もの人がこのウイルスを持っているとも言われています。このウイルスが発見されたのは1989年で、それ以前に輸血を受けた人に感染者が多いという特徴があります。また、1960年代頃までは、予防接種の際の注射針を使い回ししていた地域があったそうで、それが原因で感染した人もいると言われています。

 昔の日本ではヒロポンが合法で、薬局にも売っており(世界中で覚醒剤が合法だったのはおそらく日本だけです)、この覚醒剤の静脈注射により感染したという人も少なくありません。

 そして、患者さんを問診すると、タトゥーを入れることによってC型肝炎ウイルスに感染したと思われる人も決して珍しくはないのです。
 
 おそらく、現在でもタトゥーを入れることによってC型肝炎ウイルスに感染する人もいるに違いありません。また、タイではHIVに感染したと思われる人が大勢いるのです。

 タトゥーショップによっては、かなり入念に対策を取っているところもあるようです。例えば、施術で使う針をすべて使い捨てにしているショップもあるそうです。

 しかしながら、完全な滅菌対策をおこなうというのであれば、少なくとも医療現場で実際におこなわれている外科手術の環境と同じようにする必要があります。医療現場では、術者は滅菌されたガウンを着て、滅菌された手袋を着用し、使用する器具もすべて滅菌されたものです。手術室によっては、室内を室外に比べて気圧を高くしてあり、ドアが開いたときに、室外の空気が室内に入らないような工夫もなされています。

 しかし、それでも感染するときは感染するのです。だから、術中、及び術後には抗生物質の投与が不可欠です。しかしながら、抗生物質は細菌を死滅させることはできても、C型肝炎ウイルスやHIVのようなウイルスにはまったく無効です。

 私はこれまでの人生でまだタトゥーを入れたいと思ったことはありませんが、興味がないこともありません。もしも私が入れることを決意したなら、病院や診療所に彫師を呼んで、完全な無菌状態でやってもらいたいと思います。それに医療機関で施術を受ければ、同時に痛みのコントロールをおこなうこともできます。ただ、医療機関でのタトゥーなどという話は聞いたことがありませんから、現実的にはそういうやり方はむつかしいのかもしれません。

 タトゥーというものは、たしかに医学的にはすすめられるものではありませんし、残念ながら社会的な偏見があるのも事実です。しかしながら一方では、神聖な、あるいは宗教的な意味を有するものですし、タトゥーを入れることによって士気が上がる兵士がいるのも事実なわけですから、一概にいいとか悪いとか言えるような問題ではありません。

 入れようと思っている人は、その利点とリスクを充分に考慮する必要があるものと、私は考えています。 

2005年5月22日(日)
15.私が怒らせてしまった患者さん 

 先日、外来を受診された患者さんを怒らせてしまいました。これまでも、院内で医療従事者に対して怒りをあらわにする患者さんを何度かみたことがありましたが、ひとりの患者さんが私ひとりに怒りをぶつけられたのは初めてでした。

 怒りの内容は、「どうしても点滴をしてほしい」という患者さんに対して、「点滴は必要ない」という旨を私が話したのですが、私の説明に納得されず、結局「点滴をしてくれないなら薬も要りません! 診察代だけ払って帰ります!」と言って帰られたというものです。

 もう少し詳しくお話しましょう。

 患者さんは、40代の女性で、数日前から喉が痛くて熱があるという理由で来院されました。診察すると、おそらく細菌性の急性扁桃炎であることが分かりました。発熱と喉の痛み、それに軽い咳以外は症状がなく、水分摂取も可能なため、抗生物質と解熱鎮痛剤を内服し数日間安静にしていれば充分に治癒が見込めるという状態でした。
 
 診察を終える前に、何か言いたそうにしている患者さんに私は尋ねました。

 「何かお聞きになりたいことはありますか。」

 「先生、熱が出てしんどいので、熱を下げる点滴をしてください。」

 「通常、熱を下げるために点滴をおこなうことはしません。薬が飲める人には内服薬を飲んでもらいます。飲めなければ坐薬を使うこともあります。坐薬も使えないような場合は、注射をすることもありますが、注射の場合、副作用もありますから、安易にはおこなわないことになっています。」

 この患者さんには、注射の解熱薬が使えない理由がありました。患者さんはピリン系の薬剤に対してアレルギーがあるのです。現在、日本で使用できる注射可能な解熱剤はピリン系のものしかありません。私はそれを説明しました。

 「点滴ではなく、普通は筋肉注射をしますが、解熱薬はあります。しかし、それはピリン系の薬剤で、あなたのようにピリン系の薬剤にアレルギーがある人には使えません。もし使うと、危険な状態になることも予想されるからです。」

 患者さんはあきらめません。

 「でも、先生。点滴をするとすぐに治るんです! とにかく熱を下げる点滴をしてください!」

 「細菌性の感染症に対して、抗生物質の点滴をすると、たしかに劇的に治癒することもあります。しかし、あなたはピリン系の薬剤にアレルギーがありますし、花粉症も軽いものではないようです(問診で花粉症のあることが分かっていました)。アレルギー体質の方に、抗生物質の点滴をおこなうと短時間で危険な状態になることもあるのです。そんな危険なことをするよりも、飲み薬で様子をみた方がいいと思いますよ。」

 「いえ、どうしても点滴をしてください!」

 「そこまで言われるなら、点滴をしましょうか。ただし、薬剤は入れないでおきましょう。水と電解質のみの点滴になりますが、それでもいいですか。」

 「水と電解質だけなら意味ないでしょ! せめてビタミン剤などの栄養剤を入れてください!」

 「あなたは、栄養剤が必要な状態ではありません。それにあなたのような状態の人に栄養剤を保険診療で供給することはできないのです。どうしてもと言われるなら、自費診療で点滴をすることは可能ですが、栄養剤の点滴が、高額なお金を払ってまでやるべきものではないと思いますよ。」

 「けど、先生。熱を下げるのに飲み薬では効果がないんです!」

 このままでは納得してもらえないと思って、私は薬の本を取り出して、注射の解熱剤のところを見せました。
 「ここに書いてある通り、現在日本で使われている注射の解熱薬はこれらだけで、これらはいずれもピリン系なのです。あなたには使うことができないのです。」

 「こんな本見せられても分かりません! どうしても点滴をしてくれないならもういいです! 帰ります! 飲み薬も要りません! 診察代だけ置いて帰ります!」

 と言って、バタンと大きな音を立ててドアを閉め、その患者さんは診察室を去っていきました。

 我々医療従事者は「点滴神話」と呼ぶこともありますが、患者さんのなかには、点滴をすれば、たちまち病気が治ると思っている人がいます。

 たしかに、点滴をすれば劇的に症状が改善する場合があります。この患者さんに私が述べたように、抗生物質が劇的に効く場合もありますし、嘔吐や下痢が数日間続いていて脱水の状態にあるときに、点滴をするとみるみるうちに元気になることもあります。この場合は特別な薬剤は必要でなく、水と電解質のみのもので充分です。水と電解質のみの点滴とは、要するにポカリスエットのようなものです。

 嘔吐が続いているときには、「吐き気止め」を点滴の中に入れると数時間でよくなりますし、喘息の場合もある薬剤を使うことで劇的に改善します。また、低血糖で意識を失っているときにブドウ糖の注射をすると、まるで何事もなかったかのように意識が戻ります。

 しかしながら、この患者さんのように、細菌性の急性扁桃炎が疑われたものの、その様態はさほど重症ではなく、飲み薬で充分と思われるようなケースには点滴は必要ありません。診察する医師によっては、飲み薬すら必要ないと言うかもしれません。

 私は、この「点滴神話」を持っている患者さんに対しては、点滴が必要でない理由を説明し納得してもらうようにしています。これまでも、「どうしても点滴をしてほしい」という患者さんに何度も遭遇してきましたが、必要ない理由を説明し納得してもらうか、あるいは同意を得た上で、水と電解質のみの点滴をするようにしていました。

 今回のように、水と電解質のみの点滴では納得されずにどうしても薬剤を入れてほしいという患者さんは初めてでした。しかも、「それができないなら飲み薬も要らない」と言って怒って帰られた、という体験も初めてです。

 この患者さんに最も必要なのは安静にすべきことだったのですが、このように怒りをあらわにして不快な気分を持てば治る病気も治りにくくなります。また、私からみても、患者さんに利益を与えられなかったわけですから気分のいいものではありません。結局、医師からみても患者さんからみても結果的にはマイナスになってしまったのです。

 では、この症例ではどちらが悪いのでしょうか。おそらく、医療従事者に話をすれば、「それは仕方ないよ。」とか「お前は悪くないよ。」という意見も出てくるでしょう。

 しかし、私としては、やはり自分に非があったのではないかと考えています。

 「ナラティブ・ベイスド・メディシン」という言葉をご存知でしょうか。「ナラティブ(narrative)」とは、「物語」という意味で、患者さんはそれぞれ自分の症状に対する自分だけの物語を持っていて、それを医療従事者が察知し、その物語を解決するようなアプローチをすべきであるという考え方です。

 例えば、頭痛がするといって診察室を訪れた患者さんに、「それは片頭痛だから薬で様子をみてください」と言っても、「片頭痛じゃなくてもっと怖い病気かもしれないから徹底的に検査をしてください」などと言われることがあります。なぜ、そんなに怖い病気を心配しているのかと思い、詳しく話しを聞いてみると、実は自分の父親が脳腫瘍で発見が遅れ命を落としたというエピソードを持っていた、などといったことがあります。

 この場合は、なぜ脳腫瘍を疑う必要がなく、片頭痛という診断がつけられるのかということをじっくりと説明する必要があります。ただ、むつかしいのは、患者さんが、この例の「父親が脳腫瘍」というようなエピソードをなかなか話してくれないことがあるからです。

 さて、話を戻しましょう。「ナラティブ・ベイスド・メディシン」の立場から、私が怒らせてしまった患者さんのことを考えたときに、やはりこの患者さんにも、どうしても点滴にこだわる理由があったのでしょう。それが科学的あるいは理性的でないこともありうるでしょうが、患者さんにとっては非常に重要なことであるために、数分間の私の説明では納得できなかったのかもしれません。

 「自分のことを理解してもらう前に相手のことを理解する」というのは、あらゆる人間関係の鉄則ですが、私にはその鉄則が守れていなかったのです。

 最後に偉人の名言をご紹介いたしましょう。

 「心には理性で分からない理屈がある」(パスカル)

2005年5月8日(日)
 14.習慣としての奉仕

  発生から四ヵ月以上がたち、インド洋(スマトラ島沖)大津波について語られることが少なくなってきたように思います。振り返ってみると、あの津波によって、死者・行方不明者の総数は30万人となりました。現在もPTSDに苦しんでいたり、身寄りをなくして生活に不自由している子供たちが大勢います。

 マスコミの報道だけをみていると、あの津波についてのニュースは、最近ほとんどありませんし、新たに大きな天災が起こってもいませんから、普通に生活をしている限りは、世界で困窮している人々のことを考える機会はほとんどないのではないでしょうか。

 しかしながら、現在も、水がない、食料がない、衣類がない、医薬品がない、安全な環境がない、などの理由で支援を必要としている人が大勢います。

 例えば、スーダンで20年以上続いた南北間の内戦は、2005年1月9日に包括的和平協定が結ばれたことにより、一応は終戦となりましたが、この内戦によって発生した難民はまだまだ大勢います。スーダンの西側にチャドという国がありますが、このチャドに内戦から逃れるために避難しているスーダン難民は約20万人もいます。単純に数字だけで比べられるものではありませんが、インド洋大津波の死者・行方不明者のおよそ3分の2にあたる人々が、スーダンの内戦から逃れるために隣国に避難しているのです。

 そして、この20万人の難民のうち、およそ8割が女性と子供です。このなかには、自分の夫や父親が内戦で死亡したという人達も大勢います。そして、家を襲撃されたり暴力を受けたりしてPTSDになっていると思われる人たちもいるわけです。

 スーダンだけではありません。アフガンの難民はまだ数百万人もいます。タリバン政権が崩壊した2002年以降、少しずつ故郷に戻ることのできる人が増えてきていますが、まだ数百万人の人たちが故郷に戻れずにいるのです。

 また、慢性的な水不足に苦しむ人々は、世界29ヶ国でおよそ4億5千万人もいると言われています。水は飲むだけでなく、手を洗ったり洗濯をしたり、清潔な衛生状態を保つために不可欠なものです。世界で20億人以上の人々は、清潔な衛生状態になく、水を原因とする病気は8秒に1人のペースで幼児の命を奪い、途上国の死因の80%を占めます。

 インド洋大津波のときは、その衝撃的な映像がメディアを通して流れましたから、被害の状況がわかりやすかったと思いますが、今お話したような、スーダンの状況や、アフガンの難民、不衛生な環境で苦しむ人々といったようなことは、なかなかマスコミでは報道されません。

 しかしながら、こういった支援を必要としている人々の情報というのは、誰もが常に意識している必要があると私は考えています。

 では、私はどのようにしてこのような情報を入手しているかというと、主にユニセフやUNHCR、日本赤十字のホームページからです。また、これらの機関から定期的に送られてくる冊子からも情報を得ることができます。これらの冊子は、定期的にこれらの機関に寄付をしていれば無料で送ってきてくれますから、興味のある人は寄付をしてみてはいかがでしょうか。

 以前、別のところでも述べましたが、テレビ局などが主催する基金に寄付をしても領収書の発行もしてくれませんし、こういった情報も入手することができません。そういった点からも、ユニセフやUNHCRなどの組織に寄付をする方がずっと有用だと私は考えています。

 奉仕、例えば寄付金なんていうものは、黙って匿名ですべきものと以前の私は考えていました。「○○円の寄付をした」などといったことを他人に言うのは、単なる偽善、あるいは有名人であれば売名行為であると思っていたのです。それに、最後まで誰にも言わず寄付を続けていくことが男の美学であるように感じていたのです。
 けれども、今の私は違います。例えば、「今日は久しぶりにパチンコに行って5千円負けてしもたわ〜」というようなことを隣に住む人に言う感覚で、「財布に5千円あったから、明日になったら給料も入ることやし、スーダン難民に寄付してきたわ〜」と気軽に言えるような社会がいいのではないか、と感じています。

 もちろん、5千円もの大金を気軽に寄付できる人というのはそう多くはないでしょう。これに対し、5千円が大金でないと感じる人もいるかもしれません。いくらくらいの額を寄付したりボランティアに使ったりするのが望ましいのかということを私はよく考えるのですが、ある人が興味深いことを言っていましたので紹介いたします。

 その人は、毎年年収の1%を奉仕に使うと言います。その人の年収がいくらかは知りませんが、例えば600万円だとしたら6万円を寄付などに使っているわけです。私はこの「年収の○%」という考えに、なるほど、と思いました。

 私は医師という立場もありますし、タイのエイズ施設に深く関わるようになりましたから、とりあえず、今年の奉仕に使う金額の目標を年収の10%に想定しています。例えば今年がんばって600万円の収入を得ることができたら、60万円を奉仕に使うつもりです。

 ちなみに、ユニセフやUNHCRなどの組織に寄付した場合、年収の4分の1マイナス1万円までは税控除の対象となります。例えば年収1千万円であれば、4分の1の250万円から1万円を引いた金額、すなわち249万円までは控除されるのです。ということは、日本政府としても、年収のおよそ4分の1を寄付に使うことを奨励しているのでしょうか。だとしても、今の私は年収の10%が限界で、なかなか4分の1まではおこなえません。まあ、将来的な目標ということにしておきたいと思います。

 ところで、寄付をおこなったり、あるいはボランティア活動をしたりといった意識が生じるのはもちろん「良心」からであります。なかには「満たされない日常を埋め合わせるために被災地に行ってボランティアに参加する」という人もいると思いますが、大半の人は「良心」から寄付やボランティアをおこなっているものと私は考えています。「良心」とは、本当はすべての人が持ち合わせている、古今東西変わることのないひとつの真理(原理、または原則)なわけです。

 よく、寄付をおこなうのは単なる自己満足だ、と言う人がいますが、たとえ自己満足であったとしても、それは寄付をおこなうという行動に満足しているのではなく、「良心」に従って行動しているということに対する満足なのです。

 寄付やボランティアにかかわらず、いつも「良心」に従って行動すると、揺ぎ無い不変の自己を意識することができますから、例えば周囲の環境がどのように変化しようと、何も動じることはないのです。

 私は、他人からみればいつも変わった行動をとっていると思われがちですし、また組織に所属していなくて不安じゃないの、と聞かれることもありますが、私はいつも「良心」に従って行動しているということを自負していますから、何も動じないのです。組織の理屈で動くよりも、自分の「良心」に従って行動した方が、ずっと自信に満ちたものになります。なぜなら、組織を構成するのがたかだか数十人から数千人なのに対し、「良心」を支持してくれる人は世界中に何十億人といるからです。

 最近、日本の先行きを不安に思わせるような新聞記事をみかけました(日経新聞4月30日)。その記事によりますと、新入社員の約4割が「自分の良心に反しても会社のためなら上司の指示通り仕事をする」と答えているというのです。
 これは問題です。他国での調査がないから分かりませんが、おそらくこのような調査結果が出るのは日本だけではないでしょうか。いつから日本人とはこのような民族になってしまったのでしょうか。いえ、あるいは昔からそうなのかもしれません。一連の銀行の不祥事や、最近では大阪市の公務員の事件などをみてみても、以前から日本人とはそのような国民であったのかなという気がしないでもありません。
 
 最後に、ある人が述べた私が大好きな言葉をご紹介したいと思います。

 「奉仕とはこの地球に住む特権を得るための家賃である」

2005年4月17日(日)
13.病苦から自ら命を絶った男 

 ここ数年間、日本では毎年3万人以上の人が自殺をしています。人口当たりの自殺者(いわゆる自殺率)を国際比較すると、日本は先進国のなかではトップです。全世界でみると第10位ですが、9位までは、先進国とは呼びにくい旧ソビエト連邦の国や東欧諸国ばかりですから、先進国のなかでは日本が第1位となるというわけです。

 マスコミなどでは、「リストラを苦に自殺」とか「生活苦からの死」などといった報道が多いようですが、実は自殺の原因でもっとも多いのが「病苦」です。日本では、病気を苦にして自殺する人が多い、というのが特徴なのです。

 救急医療の現場にいると、自殺未遂の患者さんがよく搬送されてきます。自殺の方法は、リストカットであったり、薬物の大量服用であったり、飛び降りであったり、と様々ですが、本当は死にたくなくて他人の気をひきたいだけ、というものもけっこうあります。

 しかしながら、本当に死を決意して自殺を図り、運よく(?)助けられたという症例もあります。また、そのときは救命できたけれども、再び自殺を図り、本当に亡くなられた方もおられます。今日はその亡くなられた患者さんのことをご紹介したいと思います。この患者さんは、若くして糖尿病を発症した患者さんです。糖尿病というと生活習慣病の代表で、生活の不摂生からおこると思われることが多いようですが、なかにはウイルス感染などをきっかけに、生活習慣とは関係なく発症するタイプのものもあります。(これを「T型糖尿病」と呼びます。生活習慣からくるタイプは「U型糖尿病」と呼びます。)

 医療従事者と話をしても、「不治の病、要するに、治療方法がない病気もあるのだから、T型糖尿病のようにインスリン自己注射という効果的な治療法がある病気はそれほど重病じゃない」と考えている人が多いように感じます。しかし、本当にそうでしょうか。U型糖尿病のように、自分の生活態度がもたらした病気であれば、ある意味で「自業自得」と言えるかもしれません。けれども、T型糖尿病というのは、本人の態度とはまったく関係なく発症するのです。そして、いったん発症すると、一生インスリンの注射を打たなければなりません。「注射だけ打っていればそれでいいならたいしたことないじゃないか」そのように思う人もいるかもしれません。

 しかしながら、患者さんと話をすれば分かりますが、実際はそんなに単純な話ではありません。注射といっても、一日一回いつでも好きな時間に打てばいい、というわけではないのです。インスリンは、毎日欠かさず、1日に2回もしくは3回も決まった量を打たなければなりません。さらに、それだけではありません。日に三度の食事も、ある程度決められた量を決められた時間に摂らなければならないのです。激しい運動も制限されます。そして、これらの制限に従わなかった場合、低血糖発作を起こし(血糖値は下がりすぎると非常に危険です)、意識を失い、救急搬送されることもよくあるのです。
 
 私がある救急病院で当直の仕事をしているとき、救急車で若い患者さんが搬送されてきました。その患者さんは28歳の男性で、18歳の頃からT型糖尿病を患っていたそうです。搬送の理由は、自殺目的でインスリンを大量に注射し、低血糖発作を起こし、意識をなくしているところを家族に発見されたというものです。

 低血糖発作の場合、ブドウ糖を静脈注射すればすぐに意識が戻ります。この患者さんの場合も、ブドウ糖を注射するとすぐに意識が戻りました。こういうことはよくあることですが、意識が戻ったとたんに、彼は我々医療従事者に暴言を吐きました。「なんで死なせてくれへんねん!」、その患者さんは何度も叫びました。

 しばらくすると落ち着いてきたようで、やがて私にまともに話をしてくれるようになりました。彼によると、18歳のときに糖尿病を発症し、その現実をしばらく受け入れることができなかったそうです。

 18歳と言えば、いろんなことをやりたい時期で、例えば遊びにいったり旅行に行ったりすれば、眠らずに夜通し起きていることも普通はあるわけです。ところが、彼は、規則正しい生活を送って、決まった時間に食事を摂らなければならないのです。もちろん暴飲暴食などできません。友達との遊びが盛り上がっていたとしても、例えば徹夜で遊ぶなどということはできないわけですし、夜中に食事をしようということになっても彼だけはできないわけです。そんなことを18歳の青年に強いるのはかなり酷なことです。案の定、徹夜で遊んでエネルギーを過剰に消費し、その結果低血糖発作を起こしたことも何度もあったそうです。

 やがてそんな彼にも彼女ができました。彼の病気のことを理解してくれて、お互いに心から愛し合っていたそうです。数年後には結婚の話もでました。

 ところが、です。彼女の親に挨拶に行くと、彼女の両親は、「結婚など絶対に反対だ」、と言って彼の話を聞いてくれなかったそうなのです。彼によると、彼女の両親から、「病気をもった障害者とうちの大切な娘を結婚させるわけにはいかない」と言われたというのです。結局、彼女の両親の反対でふたりは別れることになったそうです。

 自分は何も悪くないのに、糖尿病という病気になって、最愛の女性の両親から障害者と呼ばれ、別れなければならなくなったのです。これほど辛いことがあるでしょうか。この頃から彼の精神状態は再び悪化し、精神安定剤がなければ眠ることもできなくなったそうです。

 社会からほとんど交流を断つような生活を数年続けて、やがて彼は社会復帰しました。仕事もみつけ、まともな暮らしをするようになったそうです。そんなとき、新たに彼女ができました。

 ところが、この彼女は、以前の彼女と異なり、なかなか病気のことを理解してくれなかったそうなのです。以前の彼女が、彼の病気をそのまま受け止め悲しみも苦しみを分かち合ってくれたのに対して、新しい彼女は、「病気なんか気にしないで前向きに生きていけばいい」ということばかりを言っていたそうです。この彼女の言葉も分からないでもないのですが、やはり彼としては、悲しみを共に感じてくれる以前の彼女のような態度を求めていたのです。

 結局、その彼女の考え方についていけず、数年後には別れることになったそうです。救急車で運ばれてきたときの彼は、もう何もかも嫌になったと言いました。仕事を見つけても、病気のことで何かと差別的な扱いを受けることが多かったと言います。

 「先生、朝がくるのがどれだけ辛いことか分かりますか。」

 この言葉が、私にとって最も印象的でした。毎晩眠れない夜を迎え、酒と大量の睡眠剤を使って、なんとか寝るようにはするのですが、朝起きたときに痛烈な苦痛がやってくるそうなのです。「朝がくるのが辛い・・・」。言葉の意味は分かりますが、私には真の意味で共感することができるとは言えません。私が経験したことのない苦しみなのです。

 幸い、この日は救急外来を受診する患者さんがそれほど多くなく、私は時間がとれれば彼の病室に行き、話を聞くようにしました。けれども、なんとか生きる希望を与えたいのですが、どんな言葉をかけていいかが分かりません。ひたすら黙って話しを聞くしか私にはできませんでした。

 やがて、彼は言いました。「今まで多くの精神科の先生にみてもらって、ひとりだけよくしてくれた先生がいた。明日その先生のところに行ってみる。」私はこの言葉を聞いたとき、心底ほっとしました。もう一度、生に向かってすすんでくれるんだ、私はそれを実感しました。

 私は少しだけ嬉しくなって、彼の病室を後にしました。私がその病院を出る朝7時頃にもう一度病室を覗いてみたのですが、彼はぐっすりと眠っていました。「あとはその精神科の先生に任せよう」、そう思って病院を出ました。

 ところが悲劇はその直後に起こりました。後から聞いたのですが、彼は私が病院を出たおよそ30分後に、病室のカーテンを首に巻いて、自殺を図ったのです。そして、今度の試みの結果は・・・・、最悪のかたちでした。

 私は自己嫌悪に陥りました。彼が「精神科の先生のところに行く」と言ったのは、単に私を安心させるためだったのです。私が彼を死に追いやったのではないのか・・・・。今でもその思いは拭えません。

 この事件以来、私はT型糖尿病の患者さんを診ると、必ず彼のことが頭に浮かびます。私にとって、特別の思い入れのある病気が、T型糖尿病なのです。

2005年4月2日(土)
12.医師免許更新はなぜ実施されない?
 政府の規制改革・民間開放推進会議が、小泉首相に提出する答申に盛り込む方針だった「医師免許の更新制導入の是非について05年度中に結論を出す」との項目が削除されることになりました。推進会議は、厚生労働省と折衝したうえで同意を得ていましたが、自民党の医療関係議員が強く反対し、削除に追い込まれたとのことです。 

 医師免許の更新制は、ミスを続発する医師を排除するなどして医療の質を向上させるのが目的で、こうした医師の処分と再教育制度の確立も提言しようとしていました。 

 読売新聞によりますと、医師会や医療関係議員らは、「これは医師イジメだ」と強く反発したとのことです。また、推進会議側には「医師の既得権益を守るためだ」と不満がくすぶっているそうです。

 ところで、欧米やオセアニア諸国では、一定の年数が経れば、すべての医師は免許を更新するために試験を受けなければなりません。おそらく先進国のなかでは、日本だけが免許更新制度がないのではないでしょうか。

免許更新制度がないということは、一度医師国家試験に合格してしまえば、よほどのことがない限り免許を剥奪されることはないということを意味します。

 更新制度の是非を議論する前に、この日本の特殊な制度をもう少しご紹介しましょう。刑事事件などを犯して、業務停止の処分を受けた医師が毎年発表されています。

 最近では2005年2月4日に、刑事事件などで有罪が確定した医師ら合計38人の処分が厚生労働省から発表されました。今回最も重かったのが、東京女子医大病院事件で証拠隠滅罪に問われ、懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を受けた男性医師で、医業停止1年6か月を命じられています。この医師は刑事事件で有罪が確定していながらも、1年6ヶ月が経過すれば、医師として仕事に復帰することができます。もちろん復帰するための試験などもありません。

 実際の罪の重さと、事件の重大さは、必ずしも相関するとは限らず、また人によってもとらえ方が異なります。私は、個人的には、覚醒剤取締法や強制猥褻罪で刑事罰を受けたような医師が現場に復帰することに嫌悪感を抱いていますが、これらの法律で刑事罰を受けた医師でも1年以内の医業停止にとどまることがほとんどです。

 それでは、富士見産婦人科事件(不必要な手術で患者の子宮摘出などをした)や、あるいは殺人などのように、免許停止の処分を受けた医師はどうなるのでしょうか。

 実は、医師免許停止の処分を受けた医師も、一生医師の仕事に戻れないかというとそうではないのです。

 医師免許停止の処分を受けた医師であっても、一定期間おとなしくした後に、申請手続きをすれば再び医師として仕事をおこなうことができるのです。これは、医師免許停止の処分を受けても、医師国家試験に合格したという事実は消えない、という理由によるものです。そして医師国家試験というのは毎年合格率が90パーセント前後という非常に合格しやすい試験なのです。

 つまるところ、日本という国においては、いったん医師国家試験に合格してしまえば、あるいは少し乱暴な言い方をすれば、いったん医学部の入試に合格してしまえば、よほどのことがない限り、いえ、よほどのことがあっても、医師として医業に従事できなくなるということはないのです。

 医療のレベルが低い医者が、医業停止や医師免許停止の処分を受けるというわけでは必ずしもないと思いますが、今回、政府の規制改革・民間開放推進会議が、医師免許更新について言及したことは、そういった既存体質に風穴をあける、いい機会だと私は考えていました。

 ところが、現実は、日本医師会や医療関係の議員による反対で、医師免許更新についての議論は見送られることになりました。その理由が、「医師に対するイジメ」というのは少し幼稚すぎる反論ではないでしょうか。なぜ免許の更新が医師へのイジメになるのでしょう。

 日本医師会の偉い方々や、議員の先生方のように、それほど患者さんと接する機会のない方が反対しているわけですが、これは、実際に日々患者さんと接している医師の意見をどれほど反映しているのでしょう。

 いえ、日々臨床をしている医師よりも、患者さんの意見を尊重することが最も大切なことではないのでしょうか。

 私は臨床医ですが、一患者の立場に立てば、自分を診察してくれるのは、常日頃から知識と技術の習得に努め、新しい見解にも熟知しているような医師であってほしいと思います。医師会の偉い方々や議員の先生方は、そのあたりについてどのように考えておられるのでしょうか。

 なるほど、こういった偉い方々は、病院や医療従事者とのコネを持っています。したがって、自分や自分の身内が何か病気になったときも、そのコネを駆使して、適切な医療機関を受診したり、腕のいい医師を見つけることはたやすことでしょう。

 しかしながら、一般の市民はそういったネットワークを普通は持っていませんし、マスコミなどが発表している「いい病院のリスト」などというのは、はっきり言ってあまり当てになりません。(この理由については機会があれば別のところで述べたいと思います。)

 おそらく、国民の大多数は医師の免許更新に賛成なのではないでしょうか。政府の規制改革・民間開放推進会議が言うように、免許更新により、医療ミスを犯す医師が減少するかどうかは分かりませんが、少なくともすべての医師が、免許更新に向けて勉強することになるでしょうから、国民というか患者さんの立場からみればこれは歓迎されるべきことなのではないかと思います。

 では、我々一般の臨床医がどのように考えているかお話しましょう。この、医師免許更新については以前からよく言われていることであり、我々医師どうしの話でもよく話題になります。

 結論から言えば、私の知る限り、ほぼすべての医師が免許更新制度を望んでいます。たしかに、自分が更新の試験で合格点を取れなければ、少なくとも次の試験までは失業してしまうわけで、そういうリスクを抱えなければいけなくなるわけですが、それでも私の知り合いのすべての医師は賛成の立場にあります。

 もちろん私も直ちに免許更新制度を導入すべきだと考えています。

 自分が不合格になるかもしれないというリスクを抱えなければなりませんし、常日頃の勉強でも大変なのに、免許更新のための勉強もしなければならない、となると時間的にもかなりしんどくなることが予想されます。にもかかわらず、免許更新に賛成するのは、もちろんそれが患者さんのためになると考えているからです。医師というのは、日々自分の専門領域にかたよった勉強をしていますから、免許更新の試験があれば、自分の知識を見直すいい機会になるのではないでしょうか。

 最後に、他の政府の政策との比較をしてみたいと思います。今よく話題になる、「郵政民営化」と、「アメリカの牛肉輸入」について、ここでは考えてみましょう。どちらの問題も、国民にアンケートをとれば、賛成と反対に分かれるようです。賛成が圧倒的大多数とか、逆に国民のほとんどが反対しているとか、そういうことはないようです。

 ところが、この医師免許更新については、実際に調査したわけではありませんが、おそらく国民の大多数が賛成するのではないでしょうか。にもかかわらず、案が見送られたというのは、国民の意見をまったく無視していると言わざるをえません。そこのところを考えていただきたいものです。
2005年3月15日(火)
11.経験多い医師ほどダメ医者?! 

 先日、Annals of Internal Medicineという有名な医学雑誌に、The Relationship between Clinical Experience and Quality of Health Careというタイトルで、非常にショッキングな論文が掲載されました。なんと、「経験年数の多い医師ほど医療ケアの質は低い」ということが、これまでにきちんと認められている59の論文をメタ分析して明らかになったというのです。メタ分析というのは、簡単に言えば、しっかりとした論文を複数集め、それらを総合的に評価して分析するという方法です。このAnnals of Internal Medicineという雑誌は、世界中で最も有名な医学雑誌のひとつで、しっかりと科学的に分析・考察された論文だけが掲載されます。
 この論文によると、経験年数の多い医師は、標準的治療を行わずに、知識レベルも低下している、とのことです。本当にこんなことがあるのでしょうか。しかもこれは米国の医師の話です。私はこの論文のタイトルをみたときに、日本の医師を批判する論文なのではないかと思いました。というのは、日本の制度では、一度医師国家試験に合格してしまえば、その後必ず受けなければならない試験というものはないからです。このため、なかには卒業と同時にほとんど勉強しない医師もおり(私の周囲にはいませんが)、一定期間を経るごとに試験に合格しなければ、医師免許を剥奪される欧米やオーストラリアとは勉強に対する姿勢が違うのではないかと思ったからです。

 しかし、この論文では米国の医師を対象としています。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。この論文によると、経験年数を経れば経るほど、標準的な治療をおこなわなくなり、知識そのものも低下するとのことです。今の私にはなぜこのようなことが生じるのかよく分からないのですが、私なりに推測してみたいと思います。

 まず、経験を積めば積むほど、教科書に書いてある知識よりも自分の経験に頼ることが多くなる傾向にあるということが予想されます。例えば、経験のある医師であればあるほど、患者さんを一目見ただけで診断をつけることができたり、わざわざ全身を診察して、教科書的には必要とされている検査をしなくても治療を開始できたりということがあることが想像できます。そして、これが思わぬ落とし穴になることがあるのかもしれません。

 また、知識そのものが低下するという点においては、研修医あるいは、10年目以内くらいの医師であれば、日々勉強に勤しみますが、それ以上になると、毎日勉強するという習慣がなくなるのかもしれません。もちろん、こういうことはその医師によります。私が現在、臨床を習っている何人かのベテランの先生方は、常に新しい治療法や検査法の勉強をされています。一方、まだ研修医のくせにろくに勉強せずに、患者さんを積極的に診ようとしない医師もいます。だから、この論文が示しているように、経験年数の多い医師ほど知識不足というのは、全体から統計的にみた結果であって、すべての医師に言えるわけではないものと私は考えます。

 だから、もしかかりつけ医を探そうとしている人がおられたら、単に「経験の多い医師を信頼する」とか、その逆に「アメリカの有名な論文で発表されたんだから、あまり経験の多い医師はやめておこう」とか、そういうことを考えるのではなくて、そういう先入観を持たずに、自分の目で、その医師が名医かそうでない医師かを判断するしかないと思います。

 もしも気軽に雑談できる医師がかかりつけ医なら、この話をしてみるのもいいかもしれません。勉強熱心な医師なら、この論文の存在を知っているかもしれませんから、意見を聞いてみてはいかがでしょうか。

 もうひとつ、最近発表された論文で気になるものがあったので紹介したいと思います。それは、日本看護協会が発表した「新卒看護職員の早期離職等実態調査」という速報です。これによると、就職後1年以内で離職する新卒看護職員が増加してきている、とのことです。

 またこの速報には、新卒看護職員に対する悩みに関するアンケート調査も報告されており、悩みの第1位は「配属部署の専門知識・技術の不足(76.9%)」で、2位が「医療事故への不安(69.4%)」、3位が「基本的な看護技術が身についていない(67.1%)」とのことです。これをみたときに私は看護師の大変さを痛感しました。2位の「医療事故への不安」は当然だとしても(これは研修医にも言えることです)、1位の「専門知識・技術の不足」や、3位の「基本的な看護技術が身についていない」などというものは、新人看護師なら当然のことだからです。

 看護師になりたての新人が、いきなり専門知識・技術を持っていたり、高度な看護技術を持っているはずがありません。こんなこと誰が考えても分かります。もちろん看護学校のときに、病院内での実習はありますが、それだけでベテラン看護師と対等の、知識や技術が身につくはずがありません。

 にもかかわらず、このような回答が多いということは、新人なのにもかかわらず、実際の現場ではそれ相応のものが求められているということなのでしょう。これでは、就職後1年以内に離職する看護師が増加するのも無理はありません。せっかくやる気があっても、就職と同時に高度な専門知識や技術が要求され、それに応えられないと離職に追いやられる・・・、あきらかに異常です。

 実際、新人看護師が辞めようと思った理由の第1位は「自分は看護職に向いていないのかと思う」だそうです。いきなり高度な知識や技術が求められてそれに応えられないと、そう思うのも仕方ありません。

 2つの論文の趣旨だけをつなげてみると、医師は経験の多いほど能力が低く、やる気のある新人看護師はどんどん離職する・・・・、ということになってしまいます。これを端的に考えると、ある患者さんが手術をしてもらうために入院したときに、経験の少ない若い医師に手術をされて、術後のケアは年老いた看護師にしてもらう・・・ということになってしまいます。経験の少ない医師に手術されることほど不安なことはないでしょうし、また年老いた看護師だけにケアされるのもまた不安なものです(一般に若い看護師の方がすぐにベッドに駆けつけますし、患者さんからすると若い看護師には言えてもベテラン看護師には言えないこともあるのです。実際患者さんと話しをしていると人気のあるのは若い看護師の方が多いものです。もちろんその看護師によりますが・・・)

 さて、冗談はさておき、この2つの論文の大事な共通点を述べることにします。それは、医師も看護師も、さらには薬剤師や検査技師など他の医療スタッフも、常に高度な知識や技術を要求されているということです。

 今から医師を目指す人、また他の医療スタッフを目指す人もこれは覚えておいてください。医療に従事する以上は、生涯勉強を強いられます。医学部受験や看護大学の入試よりも、また医師国家試験や看護師国家試験よりも、仕事を始めてからの方が、はるかに多くの勉強をしなければなりません。こんなこと好きでないとできません。医療に興味がなくて、なんとなく資格がほしい、とか、収入がよさそうだからといった理由で、医療従事者を目指すととんでもないことになります。短い人生を無駄にしないように、進路選択は慎重に!!

2005年3月2日(水)
10.過去問やってますか?

 『偏差値40からの医学部再受験』で、過去問が有用な理由をさんざん述べましたが、これを読まれている受験生の方は、どれくらい過去問に取り組まれたでしょうか。
 先日、過去問の有用性を証明するような記事が新聞に掲載されましたので、今日はそれを紹介いたします。

 2005年2月9日の日経新聞朝刊に、「35問中33問昨年と同じ」という記事が掲載されました。記事によりますと、静岡県の県立高校の国語の試験問題で、35問のうち33問が昨年と同じ問題を出題するミスがあったとのことです。もちろん、こんなことが発覚すれば静岡県教育委員会も放っておくわけにはいきません。国語のみの再試験をおこなうことになるそうです。

 「過去問を中心に勉強した人は、高得点を取れただろうが、結局再試験になるんだから何も得をしてないじゃないか」、そう思われる人もいるでしょう。しかし、私が言いたいのは別のところにあります。

 この高校は今回の出題ミスについて説明をしていますのでそれを紹介しましょう。同校によると、「複数作成した原案の中に前年度の設問が紛れ込んでおり、これらの中から一番完成度が高いものを選んだところ、ミスが起きてしまった」ということです。さらに、試験後に採点した教員が同校のホームページで前年度の出題を確認するまで、ミスに気付かなかったというのです。また、試験問題は同校の教員が作成し、校長らが点検したとのことです。

 つまり、同校のコメントを別の観点からみてみると、「質の高い問題を出題しようと思えば必然的に同じような問題に集中してしまう」ということになります。

 相変わらず、私のところに届く受験生の方々からの質問は、「谷口先生はもともと頭がよかったから、偏差値40でも医学部にいけたんですよ」とか、「暗記だけで医学部に合格できるはずがありません」といった内容のものが多くあります。けれども、そんなこと言う前に、たとえ確信が持てないとしても、一度は赤本の暗記というものをやってみればどうでしょうか。やってみると、それほどたいしたことはないのです。これも何度も言ってますが、過去問の暗記なんて、社会に出てから経験する苦労に比べれば何でもありません。

 それに、私はもともと頭がいいわけでは決してありません。たしかに、ほとんど勉強しなくてもテストだけはいい成績という人がたまにいます。こういう人は、いったん気合いを入れて勉強すると、短期間で難関な大学に合格する人もいるようです。だいたいこの手の人は理科系に多く、英語が苦手で数学が異常によくできるというタイプです。しかし私の場合は、普段からまったく勉強していなかったというわけではなく、実際、勉強すればそれなりに点の取れる英語が最も得意科目(といっても偏差値50から55程度)で、数学や物理はそれなりに勉強しても高くても偏差値40台でした。また、一般的にもともと頭の良い生徒というのは現代国語(古文や漢文は除く)はできるものですが、これも私の場合は、なにしろ現役時のセンター試験の国語が200点満点中68点でしたから、話になりませんでした。特に長文(論説文)は、与えられた文章が、何が書いてあるのかさっぱり分からなかったのです。

 数学にしても、物理にしても(私は医学部受験時は生物に変えましたが)、暗記中心の勉強で医学部程度なら合格できるのです。たしかに国語の場合は多少の時間がかかりますが、さまざまな文章を読むことにより、ある程度は自然に成績が上がっていきます。

 さて、話を少しグローバルな方向に向けてみましょう。先日OECDが、世界各国の15歳の学力の国際比較を発表しました。2000年の成績に比べて、日本は、読解力が世界8位から14位へ、数学的リテラシーは1位から6位へ落ちたということで、マスコミ各社が一斉に、日本人の学力低下が深刻であるといった報道をしました。(ちなみに科学的リテラシーは2000年と同様2位、今回から調査の始まった問題解決能力は4位です。)

 また、日本だけの調査においても、10年前に比べて、各科目とも成績が落ちているそうです。

 しかしながら、マスコミががなりたてるほど、この学力低下というのは本当に嘆かわしい問題なのでしょうか。それに、確かに数字だけを見れば国際比較で落ちているようですが、別の見方をすれば、落ちたといっても読解力で世界14位です。これがサッカーの国際比較で14位なら、多くの人が大喜びするはずです。

 私の意見としては、読解力が世界14位でOK、というものです。人間の能力や国際力というものは読解力だけで決まるものではありません。勉強の好きな人間は勉強すればいいし、スポーツで生計を立てたいなら、勉強はできなくてもかまわないと思います。そもそもこの統計に私が納得できないのは、全15歳児を対象にしているからです。勉強の好きな15歳だけを集めてこの比較をやり直すと、全然違った結果になるかもしれないではないですか。

 10年前に比べて学生の学力が落ちているという意見にしても、私の意見としては、10年前に比べていろんな方向で勝負する若い人達が増えたことは喜ばしいことと考えます。例えば、高校大学で好成績を残す学生が、生涯にわたってやりたい仕事をしているわけでも、高収入を得ているわけでもないことに気づいた人が増えてきています。そういう人達は、早い時期から手に職をつけることに専念したり、大学に行かずに海外へ渡り語学をマスターしたりしています。

 これは私の知人の知人の話ですが、その男性は、中学卒業と同時にオーストラリアに渡り、英語をマスターしました。その後はタイに行って、今度はタイ語を覚えました。今では英語にもタイ語にも不自由しなくなり、タイの日系企業からひっぱりだこです。あまりにもタイ語ができるので、例えば日本の外国語大学でタイ語を勉強した人よりも高収入の仕事をしているのです。おそらくこの人が、学力調査の試験を受ければそれほど高い得点が取れずに、「学力の低い嘆かわしい若者」となるでしょう。しかし彼にしてみればそんなこと、大きなお世話以外のなにものでもないわけです。

 さて、このあたりで今日の話をまとめてみましょう。まず、「勉強したくない人はしなければいい」ということを確認したいと思います。嫌いなことをイヤイヤやって、いいことがあるはずがありません。本人も周囲も不幸になるだけです。だから、これを読まれている人のなかにも、なんとなく医学部に行きたいけど本当は勉強が嫌いという人は、今すぐ医学部受験を中止して、ほかのことを見つけましょう。

 「何がやりたいか分からない」という意見もよく聞きますが、実はそういうときこそがチャンスなのです。あまり興味がなくても、いろんな仕事やアルバイトや、場合によってはボランティアなんかも試してみてはどうでしょうか。いろんなことをしていると価値観が変わったり、視野が広がったりして、思いもしなかったことに興味を持てるようになることも多々ありますから。

 次に勉強が好きな人、特に医学や医療に興味のある方は、現在の成績に関係なく、医学部を目指しましょう。私のように高校時代に偏差値40でも、国語の点数が200点満点の68点でも、過去問の暗記中心の勉強法で充分に合格できるわけですから。

 ただし、くどいようですが、本当に興味があるのかどうかは確認しておきましょう。よく、「医学には興味があるけど勉強は嫌い」という人がいますが、これはダメです。この人が医学に興味があると言っているのは「嘘」です。こういう人は、医者というイメージに憧れているだけであって、医学に本当に興味を持っているわけではありません。一応言っておくと、医者というのは、医学部受験時よりも医学部に入ってからの勉強の方がずっと大変ですし、医学部在学中の勉強よりも医者になってからしなければならない勉強量の方がずっと多いわけですから。

 けれども、本当に医学や医療に興味のある人が医者になれば、これほど幸せなこともありません。日々好きな勉強ができて、勉強したことが直接仕事に役立つわけですから。

2005年2月11日(金)
9.コエンザイムQ10の弊害

 最近やたらと「コエンザイムQ10」の名前を聞きます。私は、この物質は医学部の2回生の生化学の講義で「ユビキノン」という名前で教わりました。体中のすべての細胞に含まれる補酵素で、加齢とともに減少していくそうです。現在どこの健康食品メーカーも躍起になって販売しており、その謳い文句をみると、「老化を防げる!」「心臓が元気になる!」「絶大な抗酸化作用がある!」「ダイエットにも効果あり!」「美肌にかかせない!」など、少し言いすぎだなと思われる表現も見られます。

 こういう物質はまだまだ解明されていない部分が多いですが、いくつかの調査で有用性が確認されていますから、積極的に摂取したいと考える人は多いでしょう。しかし、最近病院を受診する人のなかで、このコエンザイムQ10を摂取したことが原因の人が少しずつ増えているような印象を受けます。

 それは、コエンザイムQ10を摂取したことが原因で生じる薬剤性肝炎です。特に自覚症状はないのだけれど、健康診断の血液検査で肝臓の数値が高いと言われた、という人を調べてみると、このサプリメントが原因で肝臓を悪くしたという症例があるのです。サプリメントも含めて、どのような薬品を摂取してもアレルギーや、湿疹、そして肝炎などが生じる可能性があります。市場に出回っているサプリメントは数多くありますが、最近特に目立つのがこのコエンザイムQ10です。

 私は、コエンザイムQ10を摂取すべきでない、と言っているわけではありません。ただ、肝炎などのリスクがあるということを充分に理解してから摂取する必要があると言いたいのです。それから販売する側も、販売する際にはこのようなリスクがあるということを必ず伝えてもらいたいのです。

 患者さんに話を聞いていると、特にひどいと思われるのが、一般の薬局に置いてない海外メーカーのものを取り扱っている販売員です。とにかく体にいいからと、積極的(あるいは強引に)購入をすすめている販売員もいるようです。我々医師は患者さんに薬を処方する際、頻度の高い副作用についてはきちんと説明する義務がありますが、サプリメントの販売員はそのようなことを考えないのでしょうか。薬剤ではないといえども、サプリメントは体に有用な作用をもたらす反面、副作用にも注意しなければならないのです。

 あるとき、健康食品の販売をしている人と話をしていたときに、「医学部では栄養学を勉強しないから、医者は栄養学を分かっていない。サプリメントのことなら医者よりも自分達の方がよく知っている」と言われたことがあります。

 これほど大きな誤解もないでしょう。そもそも「医学部では栄養学を勉強しない」などということをどこで聞いたのでしょう。もちろん医学部でも栄養学を勉強します。たしかに「栄養学」という講座はありませんが、生化学や公衆衛生学のなかでしっかりと勉強してテストにも出題されます。コエンザイムQ10にしても「ユビキノン」という名称で習っています。「それだけでは不充分ではないのか」と言われるかもしれませんが、それを言うなら、内科にしても整形外科にしても皮膚科にしても医学部で学ぶ範囲だけでは不充分すぎて、とても実際に患者さんを診察することはできません。

 大学では基本的なことだけを学び、その後は自分で勉強するものなのです。勉強というのは教科書を読むのはもちろんですが、論文を読んだり、学会や研究会に出席したりということもあります。それに医者どうしの会話のなかから新しい知識を得ることも毎日のようにあります。

 私は「医者は健康食品の販売員よりも偉い」と言っているわけではありません。私が知らない最新のデータを健康食品の販売員が知っていることもあるでしょう。しかし、あたかも医者を敵対視するような考えは改めてもらいたいのです。我々医師は、常に健康に関する情報を求めています。ですから、健康食品の販売員の方からも学べることは学びたいですし、逆に学びたいことがあると言われれば喜んで知識をお伝えいたします。

 摂取する側にも問題があります。自分が摂取するサプリメントの基本的な知識はしっかりと持っていなければなりません。「自分にはむつかしすぎる・・・」と思うならば、自分の主治医に相談すべきです。患者さんと話をしていると、正しい知識をもって正確に摂取していると思われる人もいますが、何の知識もなく他人にすすめられたから、という理由でやみくもに摂取している人が少なくありません。これは危険です。
問題だなと思うのは、どうやら患者さんの中には「サプリメントを飲んでいることを医者に言うと怒られる」と考えている人がいるらしく、そういう人はサプリメントを服用していることを医者に隠す傾向にあります。実際、私が診察した、コエンザイムQ10により薬剤性肝炎を発症した患者さんも、そう考えていたらしくてなかなか話してくれませんでした。

 これは非常に危険なことです。この薬剤性肝炎のケースもそうですが、薬とサプリメントを併用することによって生じる危険性も問題です。例えば、セント・ジョーンズ・ワートというサプリメントがあります。これは別名オトギリソウと呼ばれている植物で、抗うつ作用があることから注目されています。実際ドイツでは抗うつ薬として医者が処方しているそうです。

 ところが、この薬草は同時に服用してはならない薬品がいくつかあります。心臓の薬や喘息の薬、それに偏頭痛の薬などで医者が頻繁に処方している薬剤と併用すると、重篤な副作用が出現することがあるのです。このセント・ジョーンズ・ワートというサプリメントは特に海外の健康食品の会社から発売されているものが日本でも出回っているようです。

 先日、ビタミンEに関する有害性が発表されて話題になりました。ビタミンEをたくさん摂取している人は、そうでない人に比べて死亡率が10%も増えることが分かったのです。日本ではビタミンEの1日の上限を1000mgとしていますが、この研究によると、1日に267mg以上摂取している人が危険だと言うのです。一般の薬剤もそうですが、サプリメントなどはまだまだ研究段階で、いったん有用とされたものが後に危険だと分かったということが多々あります。サプリメントを摂取する人も販売する人も常にこういう情報に敏感であらねばなりませんし、摂取によるリスクを背負わなければならないのです。

 サプリメント(健康食品)の摂取を考えている人は、できるだけ医師に相談する必要があると私は考えています。販売員が医者を信用していなかったり、摂取する人が医者に内緒にしたりするのは、医療不信が背景にあるからかもしれません。しかし摂取する人の健康を考えた場合、医師、販売員、患者の三者が協力していく必要があるのは間違いないでしょう。

2005年2月3日(木)
8.専門医とプライマリーケア医
 私が2年前にタイのエイズホスピスに行ったときのこと。そこで2年以上ボランティアとして働いているベルギー人医師に「何科のドクターですか?」と聞くと、「GP(general physician)」という答えが返ってきました。去年の夏、再び同じエイズホスピスに行ったとき、同じようにボランティアで働いているアメリカ人に同じ質問をしてみました。すると返ってきた答えはまたもや「GP」でした。

 日本の医者に同じ質問をすればどうなるでしょう。「GP」と答える医者はほとんどいないでしょう。この「GP」という言葉は日本では一般的ではないかもしれません。同じような意味で「プライマリーケア医」「総合診療科医」「家庭医」などといった言い方があります。けれどもこういう答え方をする医者もあまりいないでしょう。

 実は欧米では、循環器内科医、整形外科医、などと同系列に「GP」という立場があるのです。一例としてUKのシステムを紹介しましょう。UKでは医学部を卒業と同時に、「GP」になるか専門医になるかを決めなければなりません。GPを選択すれば、各科のcommon diseaseを一通り勉強することになります。専門医を選択すれば、ひとつの科を特化して勉強することになります。専門医として認められるようになるにはかなりの修行をつまなければならないのですが、これをクリアすれば、「心臓外科医」とか「脳外科医」などといった称号を与えられることになります。どの専門医を目指すかによって、研修というか修行する期間、要するに専門試験を受けるまでの期間が決められており、例えば脳外科専門医を目指すのであれば、10年間以上も研修期間が必要となります。

 一方日本では、医学部卒業と同時にひとつの医局に入局するのが一般的です。医局というのは「整形外科」とか「血液内科」とかひとつの専門分野に特化した診療科のことです。2004年から卒後研修が必須化され、卒後2年間はすべての医師は、プライマリーケアを主体とした研修を受けなければならないということになりましたが、結局2年たてばほとんどの医師はどこかの医局に入局することになると言われています。それに研修期間の2年間も、1年近くは自分の決めた専門の科だけの研修を受ける研修医が多く、充分にプライマリーケアを履修できるわけではありません。

 つまり、日本のシステムでは、プライマリーケアを主体とした2年間の研修が必須化されたとはいえ、ほとんどの医師は専門医になるというわけです。このため大病院の勤務医はもちろん、多くの開業医でさえ、自分の専門の領域しか診ることができないという事態にあるわけです。

 日本ではプライマリーケア医(GP)がまったくいないのかというとそういうわけではありません。例えばアメリカでプライマリーケアの実習を受けた後、日本で開業している医師や、日本で積極的にプライマリーケアを勉強して地域のかかりつけ医になっている医師も確かにいます。しかし数はそれほど多くはないでしょう。

 患者さんの意識の点からみてみても、プライマリーケア医という言葉がまだまだ一般的には普及していないことからも分かるように、多くの人は何か病気になれば専門医を受診しようとします。なかには単なる風邪でも大病院の専門医を受診しようとする人もいます。とりあえず近くの開業医の内科を受診しようとする人もいて、地域の開業医の医師がプライマリーケア医の立場にあることもありますが、すべての開業内科医が、自分の専門分野以外の領域も診ようとしているわけではありません。

 したがって、風邪をひいたことをきっかけに近くの内科開業医を受診したときに、ついでに以前から気になっている、例えば、腰痛、水虫、ニキビ、残尿感、めまい、抑うつなどを相談しようと思っても、他科を受診するように言われることも多いのです。
 これでは患者さんは、自分の体のことで多くの科の主治医をもたなければならないことになります。今の例で言えば、この患者さんは、内科の他に、整形外科、皮膚科、神経内科、泌尿器科、精神科の主治医をもたなければならないことになります。

 大病院にいけば、すべての科があるから、大病院を自分のかかりつけの病院にしようと考える人もいるでしょう。しかし最近では、大病院を受診する際には、開業医で紹介状をもらってくるように注意されますし、紹介状なしで受診を希望すると、1500円から10000円程度のお金が余計にかかります。それに大病院でこれだけの科を受診しようとしても1日では不可能です。ひとつの科を受診するための待ち時間も相当長くなります。 

 ではどうすればいいかと言うと、それは「プライマリーケア医のかかりつけ医をもつこと」です。そしてそのかかりつけ医に健康や病気のことを何でも相談してみることです。プライマリーケア医は、特定の疾患の専門医ではありませんから、もしも気になっている症状が専門的な治療を要するものであれば、そのプライマリーケア医では充分に治療することができません。しかし、その場合プライマリーケア医は適切な大病院や専門医に紹介状を書くことになります。紹介状があれば、大病院の受診もスムーズになるわけです。

 実際にプライマリーケア医のみることのできる疾患はどれくらいあるのか疑問に思われる方もおられるでしょう。とりあえずプライマリーケア医を受診したけど、紹介状を書いてもらうだけで、ほとんど治療してもらえず、結局二度手間になってばかりでは意味がないからです。

 実は、全疾患のおよそ9割程度はプライマリーケアの範疇だと言われています。例えば、めまいを例に考えてみましょう。めまいというのは原因が様々で、人によって受診しようとする科はまちまちです。(目が舞うから)眼科、耳鼻科、脳外科、内科、神経内科など同じめまいでも人によって考えている専門家が違います。もちろん立っていられないようなめまいであれば、直ちに救急車を呼んで適切な病院へ搬送してもらうべきですが、それほど重症でもない場合は、まずはプライマリーケア医を受診するのが賢明です。実はめまいを訴える人の大半はプライマリーケアの範疇なのです。

 最も賢く医者を受診するためには、プライマリーケアを自分のかかりつけ医にすることが最善の方法だと私は考えています。

 もちろん、日本中のすべての医師がプライマリーケア医になっては困ります。専門的治療のできる医師が不在では治る病気も治らなくなってしまからです。プライマリーケア医も専門医も両方が必要とされているのです。

 例えが悪いかもしれませんが、コンビニを考えてみましょう。コンビニでは日常生活で必要なものの多くを買うことができます。だから必要なものがあれば、とりあえずコンビニに行ってみようとなるわけです。しかし、コンビニでは新鮮な魚介類を買うことはできませんし、パソコンも売っていません。書籍もごくわずかしか置いていません。したがって、高級で鮮度の高い魚を買うためには、魚屋に行く必要がありますし、同様にパソコンならパソコンショップ、書籍なら本屋に行くでしょう。これらを同時に求めようと思えば百貨店に行けばいいわけです。

 つまり、この例では、コンビニがプライマリーケア医、魚屋・パソコンショップ・本屋が専門医、百貨店が大病院ということになります。コンビニだけですべてまかなえるかというとそうではないように、プライマリーケア医だけでは不充分で、プライマリーケア医と専門医が協力しあうことによって最も効果的な治療がおこなえるわけです。最初にプライマリーケア医を受診して、大病院あるいは専門医に紹介されそこで手術を含めた専門的な治療を受け、症状がよくなったので再びプライマリーケア医が経過をみる、という流れが最も効果的なのです。

 そして最近では、専門医はさらなる専門領域に特化していく傾向にあり、これは歓迎されるべきことだと思います。例えば、従来の消化器外科医が取り扱う範疇は、胃、肝臓、胆嚢、膵臓、大腸などの手術ですが、これをもっと特化したような病院もあります。

 例えば、大阪市立総合診療センターの消化器外科は、胃癌の治療成績が日本一です(日経新聞2005年1月9日朝刊)。この病院では、ほとんどの胃癌手術を一人の外科医に任せ、専門性を高めているそうです。その医師によると、「総合病院では様々ながんを担当するのが普通だが、一つのがんに集中できれば自然と技術力が上がり一人ひとりの病状にも柔軟に対応できる」のだそうです。

 治療する領域を特化した専門医と、プライマリーケア医(GP)。同じ医師といっても全く異なる診察・治療をおこなっており、そのことを患者さんにも理解してもらえれば、患者さんにとっても、また行政の立場からみても最も効率のいい医療が実践できるのではないでしょうか。
2005年2月3日(木)
7.義援金のナゾと正しい救援活動

 2004年12月26日の早朝、マグニチュード9.0の大規模な地震が北スマトラの西海岸を襲いました。地震によって発生した高さ10mにも及ぶ津波は一時間でインド洋沿岸500kmにわたって波及し、インド、インドネシア、スリランカ、タイ、モルディブ、ミャンマー、セーシェル、ソマリアの沿岸地域を破壊したそうです。これまでに、約13万9,000人が命を落とし、そして1万8,000人がいまだ行方不明となっているそうです(2005年1月8日現在)。今後不衛生な環境から、コレラやマラリアなどの感染症が蔓延し、さらに多数の被害者が出ると予想されています。
 
 津波の被害者に対する義援金の募集が、多くの団体でおこなわれています。私はこのような被災が生じたときにいつも疑問に思うことがあります。なぜ、多くの団体がそれぞれの基金を立ち上げる必要があるのでしょうか。例えば、ほとんどのテレビ局では、独自に新たに口座を開設し、その口座に義援金を振り込むように視聴者に語りかけています。そして一定の期間を経たところで、ユニセフ、日本赤十字、国境なき医師団などに寄付するというのです。

 それならば、はじめからこれら機関のホームページのアドレスや、口座番号をテレビで知らせればいいのではないでしょうか。私はテレビ局のエゴを感じずにはいられないのです。テレビ局は、一定の期間がたったところで、「全部で○○円集まりました。皆様ありがとうございました。」と言います。テレビ局としては、義援金の金額が、どこどこの局に勝ったとか、負けたとか、そういうことを気にしているように思えてならないのです。 

 テレビ局などの大きな組織では、確実に然るべき機関に義援金が寄付されるものと思われますが、これが聞いたことのないような組織であれば、本当に被災者に使われているのかどうかも疑問です。本当に被災者のことを考えるのであれば、そもそも新しく基金を始める必要などはないはずです。「ユニセフや日赤に義援金を送りましょう!」と宣伝すればいいわけですから。

 もしもこれを読んでくれている人のなかで、スマトラ沖地震による津波の被災者に義援金を送りたいと考えている方がおられるなら、私は、直接ユニセフや日赤に募金することをすすめます。その理由をいくつかご紹介しましょう。

 まず、自分の寄付した義援金が確実に被災者のために使われていることが実感できます。例えば、街角で募金を呼びかけているような、聞いたこともない組織に寄付しても本当に被災者の元に届いているのかどうか分かりません。随分前の話ですが、街角で募金箱を持って募金活動をしている若い男が、その募金箱から1000円札を取り出し、ファストフード店に入っていったのを見たことがあります。もちろん、すべての街角の募金活動をしている人がそんなことをしていると言っているわけではありませんが、ユニセフや日赤などに寄付をすれば、「自分のお金が本当に被災者の元に届いているのだろうか」などといった心配をしなくてもいいわけです。

 次に、これらの機関に一度募金をして名前、住所などを登録しておくと、定期的に世界中で困窮している人たちの情報や、募金の情報などを知らせてくれるという利点があります。こういった情報を定期的に入手することによって、世界の状態がわかり、ときに新聞では報道されていないようなことも知ることができます。そして、自分が困窮している人たちのために何ができるのかといったことを考える機会を得ることができます。衛生状態がよくてモノにあふれた現代日本からは考えられないようなことが、スマトラ沖地震以外でも今も世界の各地で起こっています。

 そういったことを常日頃から意識することによって、世界観が変わることもあります。実際に私の知人に、以前はブランド物を買ったり高級クラブに通ったりすることを楽しみにしていたけど、カンボジア難民に寄付したことをきっかけに、奉仕の必要性・重要性を認識し、以降は収入の一定の割合を寄付に使うようになったという人もいます。

 もうひとつは、ユニセフや日赤などの組織に寄付したお金は、寄付金控除の対象となって、確定申告をすればいくらか減税されるということです。だから、インターネット上で寄付する場合は、必ず領収書をもらうようにしましょう。例えばユニセフでは募金後数ヶ月以内に領収書を自宅に送ってもらうことができます。もしもテレビ局などに寄付金を送り、それがユニセフに送られたとしてもユニセフの領収書は発行してもらえず、テレビ局に対する寄付では、所得税控除の対象にならないのです。

 「テレビ局経由でも直接ユニセフでも結果は同じじゃないか」と言う人もありますが、ひとつには、この寄付金控除の問題があるわけです。それに、ユニセフ側としても、一定の期間を経てからテレビ局経由でまとまった寄付金が送られてくるよりも、その都度個人から直接送られてくる方が、寄付金が早い段階で集まるので利用しやすいのではないでしょうか。

 被災者への義援金という話になると、必ず「カネも大事だけどヒトを派遣することが大切」という議論がでてきます。今回も津波の被害者を救うために、世界各国から救援部隊が現地に駆けつけています。日本も自衛隊の派遣が迅速におこなわれましたし、政府から派遣された、医師を含む医療従事者で構成される国際緊急援助隊も現地で活躍しているそうです。医療ボランティアをおこなっているNPO法人のAMDAもすぐに医療従事者を派遣しました。

 自衛隊や医療従事者でない一般の人のなかにも、現地に行ってできることがあるなら何でもしたいと考える人も多いでしょう。実際、私のもとにも「お前は行かへんのかい」とか「ボランティアに行きたいねんけどどうしたらええんやろ」という声が寄せられています。

 私個人としては、医療ボランティアをおこないに現地に行きたいのですが、現在身内が入院中のこともあって大阪を離れられない状況のため、現時点では寄付金での協力のみとさせていただいています。

 「ボランティアに行きたい」という人には、私はとりあえず現地に行くことをすすめています。やみくもに行っても混乱するだけだから組織に属していないなら行かない方がいい、という人もいますが、私はそうは思いません。実際には、行ってみると被災者の役に立つことはいくらでもあります。それに、行ってみないことには本当の状況が分かりません。マスコミの報道をみていても実際のところはよく分かりません。水が足りないのか、感染症が問題なのか、治安の悪化が問題なのかといった問題は、日々変わりますし、実際に自分の目で確かめるのが一番確実なのです。

 とりあえず現地に赴き、何が問題になっていて、自分には何ができるのかということを考えて整理し、その上で、現地で中心的な立場で救援活動をおこなっている人に、自分のできることを伝えて指示やアドバイスを求めればいいのです。

 ただし、最低限のマナーは必要です。まず最低でも英語ができること。現地の言葉ができるとなおいいです。それに健康であることも絶対必要です。健康を害していれば自分が足手まといになることもあるからです。それから、被災における救援活動の基礎知識は持っていなければなりません。こういった最低限のマナーを無視して「やる気だけはありますので!」といったところで、なかなか使いものにはなりません。

 しかしながら、英語については、とりあえずは日本の中学程度のものができればなんとかコミュニケーションは取れるでしょうし、救援の基礎知識は本を一冊読めばある程度の知識が身につきます(例えば『災害初動期における活動マニュアル』へるす出版)。やる気のある人はとりあえず行ってみてはどうでしょうか。

 ただし、ボランティアには相当のリスクが伴うことも覚えておいてください。インドネシアでの大量の子供の誘拐(人身売買)は大きく報道されているようですが、他にも、火事場泥棒や強盗が各地で起こっているようです。タイでは被災地の簡易トイレを盗撮していた男が捕まったそうです。阪神大震災のときも、被災者に対する強盗やレイプがいくつもおこりました。こういった被害は被災者だけでなく、善意のボランティアにもふりかかることがあります。そういったリスクもあることを忘れてはいけません。

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