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谷口恭のメディカルエッセイ


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39. わいせつ医師を排除せよ!A 

 少し古い話になりますが、1994年に大阪のある開業医が売春禁止法で逮捕されました。この開業医は結婚していながら韓国人の女性を愛人として囲っていました。そして、その愛人と共同で大阪ミナミに売春施設を経営していたのです。売春婦として働かせていた女性は日本人ではなくタイ人でした。

 それだけではありません。この開業医は、同僚や後輩の医師、さらに自分の患者さんに対しても売春婦を斡旋していたといいますから驚きます。

 「売春」という問題は非常に複雑で、「よくないことだからやめましょう」などと言うだけでは何の解決にもなりません。おそらく日本にまで来て身体を売っているタイの女性は、貧困地域の出身であり、売春で稼いだお金で一家を養っているのでしょう。タイは母系社会であり、女性が両親を支えるという伝統があります。

 私にはそんな女性たちを非難することはできません。キレイ事の好きな人は、「貧しくても普通の仕事で頑張っている人もいるんだから売春はよくない」、などと言いますが、人にはそれぞれ事情があるのです。学歴のない地方出身のタイ女性は、バンコクなどの都会にでてきてもせいぜい日当が150バーツから180バーツ程度で、これは日本円にすると500円程度です。

 タイの地方の女性は結婚が早いですから、10代ですでに二人の子供がいるということも珍しくありません。(ちなみにタイの中流から上流階級の女性は日本人よりも初婚が遅いようです。ある中流階級の女性は、バンコクだけでみると、たぶん平均初婚年齢は30歳くらいだと言っていました。)さらにタイでは、自分の夫が他に女を見つけて家を出て行くということが当たり前のようにあり、日本のように慰謝料を払うような男性はほとんどいません。(私がタイのエイズ施設でお会いした女性患者さんの大半がこのパターンです。)

 タイにいても身体を売るしか生活する方法がないところに、日本人からうまい話をもちかけられて、というよりほとんど騙されて日本に不法滞在しているのが彼女らなのです。医師であれば、そんな彼女たちを救う立場にあるはずです。この開業医は、そんな彼女たちに売春をさせて自らは暴利をむさぼっていたというのですから、怒りを通り越してなんと言えばいいのかわかりません。

 ついでにもうひとつ述べておくと、日本に不法滞在しているタイ女性でHIV陽性の人は、タイではなく日本で感染しているという事実があります。これはタイで取材したときに分かったのですが、タイ女性を日本に斡旋しているブローカーは出国前に必ずHIVの検査をしています。検査でもれている女性もなかにはいるかもしれませんが、それでも大半は日本で感染しているのです。実際に私は、日本でHIVに感染し、現在はタイの施設に入居している患者さんを知っています。

 私はこの開業医に直接会ったことはありませんが、この開業医をよく知る医師を何人か知っています。ところが、誰もこの開業医を悪いように言わないのです。この理由は私には皆目見当がつきません。違法行為を行い、良心や道徳的観念のない人間がどうして他の医者から非難されないのでしょう?世間から見れば医師独特の考えがあるのでしょうか?今後、この問題についても追って行きたいと思います。ちなみにこの開業医は今も開業医として仕事を続けています。

 最近雑誌でみたケースをご紹介いたしましょう。これは医師が逮捕された事件ではなくて、東京に住む20代のある女性がある雑誌に投稿を寄せたものです。

 その女性は、女性誌の広告をみて都内のある美容外科クリニックを受診しました。院長の話によると、今ならキャンペーン中で、美容外科手術を安く受けられることに加え、そのクリニックが経営している美容学校にも入学することができて卒業後は美容の仕事が与えられるそうです。しかしその価格は合計で370万円。彼女には到底支払うことのできない金額でした。値段を聞いてしぶっている彼女に院長はすかさず言ったそうです。「じゃあ、特別に150万円にしてあげよう。」

 彼女は少しあやしいと思いながらも、これだけの値引きをくれるなら申し込まなければ損と考え、その場でカードローンにサインをしたそうです。

 翌日の夕方、院長の携帯電話に電話をするように言われていた彼女は、約束どおりに電話を入れました。院長は今から講義をするから指定の場所に来るように、と言ったそうです。院長の指示した場所に行くと、そこは学校とは到底思えない単なるワンルームマンションだったそうです。そして、そこで彼女はこの医師に強姦されました。

 ここでは雑誌の記事を簡単にまとめましたから、作り話のように聞こえますが、その記事ではここにまでいたる経緯が詳細に記載されており、私には作り話には思えませんでした。これが本当なら、この女性が被害届を出せば、この医師(本当に医師かどうかは疑わしいですが)には、強制わいせつ罪ではなく、強姦罪が適応されるはずです。

 わいせつ医師だけでなくわいせつ医大生というのもいます。

 1999年に報道された「慶応大学医学部集団レイプ事件」をご存知でしょうか。これは慶応大学医学部の学生4人が、そのうちのひとりが所有しているマンションに女性をつれこみ集団で強姦した事件です。しかもその様子をビデオカメラにおさめていたというのですから悪質極まりない事件です。

 当然、これら学生は全員退学となりましたが、このうちのひとりは数年後に、ある国立大学の医学部に入学したそうです。ということは、今頃はどこかの病院で医師として働いていることが予想されるわけです。

 私がわいせつ医師に対して最も問題だと思うのは、逮捕された医師に対する制裁が、せいぜい数ヶ月から数年の医業停止となるだけで、医師免許を剥奪されることがないという事実です。そして、これはあまり知られていないことですが、仮に医師免許を剥奪されたとしても、数年後には医師として復活することが現状のシステムでは可能なのです。これは医師免許を剥奪されたとしても、医師国家試験に合格したという事実は消えることがないという理由によるものです。

 実際、前回そして今回ご紹介した医師たちは、一定の謹慎期間を経た後、何事もなかったように医師として働いているのです。慶応大学を退学になってから国立大学に入学しなおした医大生には、何事もなかったかのように医師免許が与えられている可能性が強いのです。

 医事事故を起こす医師が社会的に制裁を受けるのは、事例によってはやむをえないと思いますが、それ以前に、まったく同情の余地のない「わいせつ医師」に対して、もっと厳しい処罰が与えられるべきではないでしょうか。

 ところで、ときどき一般の方から、「医者は女性の裸が見れるからいいですね〜」と言われることがあります。

 これはとんでもない誤解で、実際に医療現場を少し経験すれば分かりますが、そんなものはよくもなんともありません。

 例えば、女性の胸を診察するときは、乳房のために、心音や呼吸音が聞きにくくなりますから、短時間で正確に診察をするためには、卑猥な気持ちで乳房を観察している暇などありません。性感染症の診察のときなどは、ほんの少しの皮膚の変化やおりものの正常、あるいは臭いなども確認しなければなりません。診察でみる女性器というのは例えばポルノ映画で見る女性器とはまったく違うものなのです。また、私は経験がありませんが、乳癌の専門医であれば乳房を触って診察をおこないます。これとてほんの少しの異常も見逃すことができませんから、男性として女性を見ることなどできないのです。

 「キレイな女性を診察するときはうれしいですか」と質問されることもありますが、これも答えは「NO」です。診察室では患者さんが入ってこられるときから診察が始まっています。患者さんの歩き方、表情、仕草などにも我々は注目しています。診察室のなかでは、街で女性を見るようには見られないのです。

 それにもうひとつ重要な問題があります。若い女性患者さんは、医師に対して容易に恋愛感情を持ってしまうことがあります。これを「転移」と言い、特に精神疾患を患っている患者さんに多いという特徴があります。私は学生時代に、「どうして精神科の先生は女性患者さんに冷たい態度をとるのだろう」と疑問に思っていたのですが、これは「転移」を予防するためだったのです。ベテランの精神科医は、恋愛感情を抱かせることなく巧みに患者さんの心を開かせることができます。この「転移」を防ぐためにも、我々は女性を女性と見てはいけないという暗黙のルールがあるのです。
 
 そろそろまとめに入りましょう。我々医師は『全員』、と言いたいところですが、ご紹介したようにとんでもないわいせつ医師がいるのも事実ですので、『ほとんどの医師』は女性患者さんに対して、わいせつな意識を持っていませんから安心して医師にかかってください。

 けどやっぱり、『ほとんどの医師』では説得力がないですね・・・。
 
2006/05/15

38. わいせつ医師を排除せよ!@ 

 帝王切開で29歳の患者さんが死亡したことで議論を呼んでいる福島県の産婦人科医の話や、人工呼吸器を外したことで注目を集めている富山県の外科医の話が、マスコミでよく語られていますが、これらの事件は医師を非難する論調がある一方で、医師を擁護する意見も少なくありません。特に後者の事件では、患者さんや医療従事者でない一般の方々からも医師を弁護するような意見が相次いで出されているようです。

 こういった問題は、一般論で片付けられるような単純なものではなく、症例ごとにじっくりと検証しなければなりません。

 これに対して、こういった問題とはまったく別の次元で問題提起しなければならない医師の行動があります。例えば、覚醒剤中毒の医師やわいせつ事件を起こす医師です。シャブ中ドクターの話は拙書『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』でも述べていますが、私自身としては、覚醒剤に手を出さざるを得なかった医師の気持ちをも理解する必要があるという意見を持っています。「覚醒剤は危険だからやめましょう」というキレイ事だけでは真実が見えて来ずに何の解決にもならないからです。

 しかしながら、わいせつ医師についてはまったく同情の余地がありません。患者さんに対してわいせつ行為を働く医師など、もちろん私の周囲にはいませんし、想像もできないのですが、ときおりマスコミの報道でとんでもない事件を聞くことがあります。

 今回はわいせつ行為で報道された医師の実態をみていきたいと思います。

 まずは、東京のある病院の外科部長がおこなった「全裸撮影事件」を振り返ってみましょう。52歳のこの心臓外科医は、2000年から2004年までの5年間、心臓の超音波検査を施行する際に、患者さんに「全裸にならなければ検査できない」と言い、看護師を退席させた上で、患者さんの全裸をデジタルカメラで撮影していたそうです。

 心臓外科医がおこなう超音波検査で、全裸になる必要があるはずがない、ということは我々医療従事者であれば常識ですが、患者さんのなかには「大病院の心臓外科部長が言うんだから・・・」のような気持ちが働いて、疑いながらも同意せざるを得なかったのかもしれません。

 普通の感覚をしていれば、患者さんを全裸にするということなど考えもしないのですが、例えそのようなことを考えついたとしても、「患者さんのなかには全裸の撮影を疑う人もいて自分は写真という証拠を残しているんだから見つかれば逃れられない」、という単純なことがなぜこの外科医には理解できなかったのでしょうか。

 まあ、それが分かるくらいの常識を持ち合わせていれば、初めから患者さんを撮影しようなどとは思わないでしょうが・・・。

 もっと悪質なものもあります。

 2002年に強制わいせつ罪で逮捕された福岡県のある病院の理事長(当時73歳)は、自らが覚醒剤をキメた上で、27歳の女性に強制わいせつ行為をはたらいたのです。しかも、この医師は覚醒剤などの薬物中毒を専門としていたといいますから驚きます。

 わいせつ医師の被害者は患者さんだけではありません。

 昨年(2005年)、東京のある大病院の47歳の脳神経外科医が、病院の部長室で製薬会社の26歳の担当女性社員の体を無理やり押さえ付け、約15分間にわたって下半身を触るなど、わいせつ行為をおこない、「強制わいせつ罪」で逮捕されました。

 自分の職場で強制わいせつをおこなっても逮捕されることがない、と、この外科医は考えていたのでしょうか。もちろん、「逮捕されたくないから強制わいせつをしない」というのはおかしな理屈で、まともな人ならそんなことを考えなくてもこのような犯罪行為を思いつくことはありません。

 このような犯罪行為を犯す人間は精神的な異常をきたしているとしか考えられず、よく47歳まで外科医をつとめてこられたな、と感心してしまいます。

 次に、昨年「準強制わいせつ罪」で逮捕された岩手県の42歳の精神科医についてみてみましょう。報道によりますと、この精神科医は勤務先の病院から睡眠薬を持ち出し、それを知人である飲食店勤務の18歳の女性に、「ビタミン剤だから・・・」と嘘をついて無理やり服用させ、身体を触るなどの行為をおこなったそうです。

 こういう事件はたしかによくあって、そのため裏市場では睡眠薬がそこそこの値段で取引されています。患者さんのなかにも、強力な睡眠作用に加え幻覚作用のあるような薬を名指しで欲しがる人がいて、私は「怪しい」と思えば、そういった薬剤はできるだけ処方しないようにしています。しかし患者さんのなかには、簡単に薬剤を処方してくれるクリニックを複数箇所受診している人もいるようです。
 睡眠薬はもちろん有用な薬剤ですから市場から無くすわけにはいきません。したがって、不正な使用をなくすためには、我々医師が処方に厳重な注意を払わなければならないのです。その医師、しかも睡眠薬のプロフェッショナルである精神科医が、自らの低次元な欲望を満たすために睡眠薬を使用したというのですから、呆れると言うほかはありません。

 もうひとつ、強制わいせつで逮捕された事件をみていきましょう。

 国立のある研究所に勤めていた51歳の医学博士が2005年6月に逮捕されました。この事件は、先にみてきた事件に比べると少々手が込んでいます。(この事件の詳細は『裏モノJAPAN』という雑誌の2005年9月号でレポートされています。)
 まず、この医学博士は「安藤健二」という偽名を使って、《医師限定》出会い系サイトに登録をしました。この男は妻とふたりの子供と共に千葉県のマイホームに住んでいますが、出会い系サイトに登録した際には「独身」としていたそうです。
 そして40代の女性とメール交換を繰り返して1ヶ月が経過した頃、ようやくアポイントメントに成功し都内で会うことになりました。仙台出身のこの女性がその晩都内に泊まることを知った<安藤>は、口八丁手八丁で女性の部屋に入りこみました。ふたりが会うのはこの日が初めてということもあり、この女性は執拗に言い寄る<安藤>をかわしていましたが、ついに<安藤>は「実力行使」に出たそうです。
 次の瞬間、悲鳴とともに払いのけられた<安藤>は、一応謝罪をし、そのまま部屋を飛び出したそうです。

 普通ならここで終わりそうなものなのですが、なぜか<安藤>はその後もこの女性にメールを続けます。謝罪のメールを何度も送り、そのうちにこの女性の方からも反応の悪くない返事が来るようになり、二度目のデートの話もまとまりかけていたそうです。

 このあたりの<安藤>の心理が私には理解できないのですが、エリート街道をひたすら歩んできた<安藤>にとっては他人からの「拒絶」を受け入れることができず、謝罪してでもこの女性をモノにしなければプライドを満たすことができなかったのでしょうか。それともこの女性に「恋」をしてしまったのでしょうか。

 再デートも時間の問題と思われた頃、<安藤>が致命的なミスを犯します。他人に送るはずのメールを誤ってこの女性に送信してしまい、その内容から<安藤>が妻帯者であることがバレてしまったのです。

 騙されていたことを知ったこの女性は<安藤>を許すことができませんでした。警察に被害届けを出したのです。2005年6月4日の早朝、<安藤>の自宅に刑事が訪問し、強制わいせつ罪で逮捕となりました。

 《医師限定》出会い系サイトなどというものを私はこの事件が報道されるまで知りませんでしたが、そもそも登録の際、医師であることをどうやって確認するのでしょう。もしも医師免許証の提出などで、医師であることの証明をするなら偽名は使うことができないでしょうから、おそらくこのサイトでは、誰でも簡単に医師になりすまし登録をすることができたのではないかと予想されます。

 おそらく本当の医師であれば、こういうサイトには登録しないと思われます。普段から我々の元には、やれマンションを買えだの、高利回りの投資信託を始めろだの、いかがわしい電話やメールが頻繁に届きます。いったいどのようにして個人情報を入手しているのか分かりませんが、こういった迷惑なセールスが我々医師の悩みのひとつです。そんな悩みを持つ医師が、わざわざ《医師限定》の出会い系サイトなどに登録するでしょうか。そんなサイトへの登録は、デート商法や絵画商法の女性詐欺師に対して、ネギをしょって歩くカモになるようなものです。そういうリスクを冒してまでこういうサイトを利用するのは初めから「下心」がある<安藤>のような男だけではないでしょうか。
 
 次回はさらに悪質な「わいせつ医師」をみていきたいと思います。

つづく
 
2006/05/01

37. 人工呼吸器の是非

 最近、医師が人工呼吸器を止め、延命を中止したことに対する報道が注目を集めているようです。

 2006年3月25日のasahi.comの報道によりますと、富山のある病院の外科医が、2000年から2005年にかけてかかわった末期の入院患者7人の人工呼吸器を外し、全員が死亡していたことが分かったそうです。この病院はこの医師の「延命治療の中止措置」について、倫理上問題があると判断し、院内調査委員会を設置するとともに、県警に届け出たとのことです。

 この病院の院長によると、亡くなったのは同県内に住む50〜90代の患者7人(男性4人、女性3人)で、いずれも意識がなく回復の見込みがない状態だったそうです。

 そして、この外科医は病院側の調査に対し、人工呼吸器の取り外しについて「いずれも家族の同意を得ているが、うち1人は家族から本人の意思も確認できた」と説明し、病院によると、いずれも本人の同意書はないが、カルテには「家族の同意」を示す記述があるそうです。

 こういう事件が報道されると、必ず「お前はどう思う?」と知人から聞かれます。「どう思う?」と聞かれて困るのは、症例というのはひとつひとつ異なるものであり、必ずしも一般論で論じることができないからです。

 もう少し詳しくお話しましょう。

 まず、個々の症例において、人工呼吸器をどのような状態で装着したかというのが重要になってきます。通常、末期の状態であれば、いずれ呼吸状態が悪化することが考えられ、その場合、気管内挿管をおこない人工呼吸器を用いた治療をおこなうかどうかというのを、あらかじめ本人もしくは家族と話をしておきます。

 今回報道された事件では、末期の患者さんとされていますが、あらかじめそのような話をされていたのかどうかが明らかではありません。もしも、本人もしくは家族が「どんなことをしてでも少しでも延命してください」という希望を持たれていたのであれば、この外科医のとった行動は許されるべきではないということになります。

 しかし、報道ではカルテに「家族の同意」があるとされています。とすると、人工呼吸器の話をするまでに、つまり予想よりも早く呼吸状態が悪化したのか、あるいは、その患者さんの病気による呼吸状態の悪化ではなく、例えば何らかの理由で窒息や薬物の副作用で呼吸が停止し、緊急処置として人工呼吸器を装着した可能性も考えなくてはなりません。さらに、その患者さんが本当に末期といえる状態であったのかどうかという点については報道からは皆目見当がつきません。こうなると推測の域を出ずに、私が医師としてコメントするのは不適切ということになります。

 今回の事件のように、余命いくばくもないと思われる患者さんに装着されている人工呼吸器を停止させるのは、いわゆる「安楽死」ということになります。実は、この「安楽死」については明確な定義がありません。

 便宜上よく引き合いに出されるのが、いわゆる「東海大安楽死事件」に対して、1995年に横浜地裁が述べた「安楽死の3要件」です。それらは、(1)回復の見込みがなく、死が避けられない末期状態にある、(2)治療行為の中止を求める患者の意思表示か家族による患者の意思の推定がある、(3)「自然の死」を迎えさせる目的に沿った決定である、の3つです。
 
 人工呼吸器を装着すべきか否か、というのは可能であれば、できるだけ早い時期に本人もしくは家族に考えておいてもらうのがいい、というのが私の考えです。そのため、私はまだ患者さんの元気な早い時期に本人及び家族にこの話をしておくようにしています。「先生、そんなに早く結論ださないといけないんですか」、と聞かれることもありますが、いったん装着した人工呼吸器のスイッチを切るというのは、今回報道された事件のように合法かどうかという点がはっきりしませんし、正直に言って私自身に「スイッチを切る」という行為は抵抗があるのです。(念のために言っておくと、私は今回の外科医を非難しているわけではありません。私自身の臨床医としての、あるいはひとりの人間としての未熟性から、今の私には人工呼吸器を外すことに抵抗があるのです。)
 
 人工呼吸器というのは、単なる延命医療の道具と考えている人もいるようですが、人工呼吸器がなければ助かる命が助からなくなることもあります。例えば健康な人が窒息や薬物中毒など急激に呼吸困難に陥ったような場合、迅速に気道を確保し、人工呼吸器を接続し、一時的に器械の力を借りて呼吸をおこなうことがあります。この場合、治療がうまく進めば、何事もなかったかのように復帰することができます。

 また、全身麻酔の手術のときは人工呼吸器を接続し呼吸管理をおこなうことが必要です。人工呼吸器を用いた呼吸管理がおこなえるからこそ長時間の手術も安心しておこなうことができるのです。

 つまるところ、「人工呼吸器の良し悪し」というのは単純な理屈で語られるべきものではなく、個々の症例でしっかりと検討されるべきものということになります。

 末期の状態であれば、最近は人工呼吸器を用いた延命治療を望まない人が増えているというようなことが言われますが、そもそも生命についての決定権は本人(もしくは家族)にあるわけで、医療従事者が決めるべきものではありません。 

 したがって、例えば、脳死になったときに臓器を提供すべきかどうか、といった問題と同様、患者さんの意識がしっかりとしている早い段階で決めておくべきものだと私は思うのです。
 
 最近経験した、末期癌の患者さんのことをお話したいと思います。

 その患者さんは80代の男性で、病気は、ある消化器系の癌で、もはや手術ができないほど進行している状態でした。数ヶ月ももたないと思われたため、あらかじめ本人と家族に、呼吸状態が悪化したときに呼吸器をつけるかどうかを相談していました。本人及び家族の返事はNO! つまり、人工呼吸器をつけたところで寿命がそれほど変わるものでもなく、癌自体は治らないのだから、ここまでくれば自然なかたちにまかせたい、とのことでした。「この患者さんは死というものを完全に受け入れている」、それが私の印象でした。

 よく晴れたある日曜日の午後、いつものように昼食を終えた患者さんの様態が少しずつ変化しだしました。血圧や呼吸数は正常なのですが、意識がぼーっとしてきています。「これは家族を呼んだ方がいい」、私はそう判断しました。

 意識状態を正確に把握するために、痛みの刺激を与えてどのような反応をとるかをみることがあります。私は、患者さんを少したたいたりつねったりして刺激を与えてみましたが、表情はまったく変わりません。これは意識状態がかなり悪いことを示しているのですが、しかしながらその表情が非常に穏やかなのです。この患者さんは、癌の末期なのにもかかわらず日頃から痛みをほとんど訴えず、強力な鎮痛剤も使っていませんでした。そのうちに血圧が下がりだし、呼吸の回数が少なくなりだしました。

 そして、ちょうど家族の方々が到着したのと同時に、静かに息をひきとりました。

 私はこの患者さんの表情が今も忘れられません。癌の患者さんによくある苦悶の表情を見せることなく、まるで、「生命をまっとうしました」、と宣言しているような印象を私は持ちました。この患者さんは末期癌であったことは間違いありませんが、病気が直接の死因というよりも、むしろ自然なかたちで生命に終止符を打たれたのかもしれません。

 もしも、この患者さんに人工呼吸器を装着していれば、このような表情は見られなかったに違いありません。人工呼吸器をつなぐということは、プラスチックの管を口(あるいは鼻)から気管に挿入します。そしてその管を固定するために、口の周りをテープで何重にもとめることになります。そして呼吸器の「シュー」という乾いた無機質な音が規則的に病室に響き渡ります。患者さんの心臓が弱ろうが呼吸器は同じリズムで空気を送ってきますから、末期の患者さんに接続した呼吸器はその患者さんをいじめているように見えることもあります。

 私は、この患者さんは人工呼吸器を使わなくてよかったんじゃないかな、と思いました。

 家族の前で死亡宣告を終えた後、この方の奥様が話されました。

 「先生、主人の死に顔がこんなにも穏やかだとは思いませんでした。こんなに幸せそうな表情をしているなんて・・・・」

 口にはしませんでしたが、私も同じことを感じていました。 
 
2006/04/15

36. 医師の努力がむくわれないとき
 年々、患者さんが医療従事者を訴える、いわゆる医事紛争が増加していますが、同様に、刑事的に医師が逮捕や書類送検されるという事件が目立つようになってきました。

 最近、福島県のある病院の産婦人科医が、業務上過失致死と医師法違反で逮捕されるという事件が世間の注目を集めています。

 この事件を振り返ってみましょう。

 2004年12月、この医師が帝王切開した女性(当時29歳)が死亡し、24時間以内に届けなかったとして、福島県警がこの医師を逮捕しました。報道によりますと、この医師は、帝王切開の手術を執刀した際、胎盤の癒着で大量出血する可能性があり、生命の危険を未然に回避する必要があったにもかかわらず、癒着した胎盤を漫然とはがし大量出血で女性を死亡させたとのことです。また女性の死体検案を24時間以内に警察署に届けなかったことが医師法違反に該当するとのことです。

 この逮捕に対し、日本産科婦人科学会、日本医師会などが次々と反対の意思を表明しています。例えば、ある学会は、「術前診断が難しく、治療の難度が最も高い事例で対応が極めて困難。産婦人科医不足という現在の医療体制の問題点に根差しており、医師個人の責任を追及するにはそぐわない部分がある」と声明を発表しました。

 すると今度は、「産婦人科医不足や現在の医療体制の問題を理由にするのは、患者さんの立場に立った理由ではない」といった旨をマスコミに発表する医師も登場し、事態の混乱が続いています。

 話は少々ややこしくなっていますので、ここで整理をしておきましょう。

 まず、検察が逮捕に踏み切った理由は、業務上過失致死と医師法違反です。

 業務上過失致死というのは、例えばトラックの運転手などが路上で人をはねて死亡させたときなどに適応される法律用語です。この場合、運転手に殺人の意図がなくても法律(この場合は「道路交通法」)は適応されます。

 医師が全力を尽くしたのにもかかわらず、術中、あるいは術後に患者さんが亡くなった場合はどうなるのでしょうか。もちろん、すべての死亡が業務上過失致死にはなりません。業務上過失致死と認められるのは、文字通り「過失」がある場合のみです。

 では、今回の福島県の事件では「過失」があったのでしょうか。検察は、あらかじめ大量出血が予見できて生命の危険を未然に回避できた、と主張していますが、これを実証するのは簡単ではありません。癒着した胎盤というのを私は教科書でしか知りませんから、私自身はコメントする立場にありません。ただ、産婦人科の各団体が、一斉に逮捕に抗議をしていることを考慮すると、明らかな「過失」があったとは到底考えられないように思われます。

 次に、医師法違反についてですが、同法には、「医師は,死体又は妊娠4月以上の死産児を死体検案して異状があると認めたときは,24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。」との記載があります。ところが、この「異状」の定義がはっきりしておらず、以前より問題視されていました。

 今回のケースでは、胎盤の癒着から大量出血が起こったということ事態が「異状」に該当するのかどうかという点が争点になるのかもしれませんが、定義のあいまいさが以前より指摘されている法律をこのような症例に適応するというのは問題があるように私には思えます。それに、大量出血を「異状」とするなら、あらかじめ「大量出血を予見できた」と主張する検察のコメントが「過失」ではないことを示していないでしょうか。

 今回のこの事件が大きな意味をもつひとつの理由は、同業者である他の医師や病院、あるいは医学生、さらには医学部受験を考えている受験生にも少なくない影響を与えているということです。すでに、癒着した胎盤の帝王切開はやりたくない、と考える産科医が現れているそうです。少しでも危険のある帝王切開は他院にまかせようとする病院もでてくるに違いありません。産科をやめたいと考えている医師もいるという噂もあります。さらに、将来産科医になることを考えている研修医、医大生、受験生も進路の変更をおこなうかもしれません。すでに、医事紛争の増加で減少の一途をたどる出産施設が今後加速度的に増加することが予想されるわけです。
 
 さて、今回の一連の報道で私が疑問に感じるのは、患者さんのご遺族のコメントがまったく報道されていないという点です。私は医師として、患者さんとこの産科医がどのような話をされていて、この事件に対して遺族はどのような感想を持たれているのかを知りたいのですが、私の知る限りそういったことは報道されていません。医療の主役は患者さんであるということが忘れられているような気がしてさみしく思います。

 もちろん、「業務上過失致死」や「異状死体届出義務違反」というのは、患者さんやご家族がどのような感想を持たれるかに関係なく適応されなければならないものです。また、検察官や警察官は、個人的にどのような意見があろうとも法律に基づいて任務を遂行しなければなりません。

 しかしながら、私はひとりの医師として、患者さんがどのような思いで手術を受けられ、またご遺族はどのように思われているのかが知りたいのです。というのも、極端に言えば、嫌がる患者さんを無理やり説得してその病院での帝王切開に踏み切ったのと、あらかじめある程度の危険性を認識された上で、その医師による帝王切開を強く希望されていたのとでは天と地ほどの差があると思うからです。これは法律とは別の次元の話です。

 私の率直な感想を言えば、これから自分がおこなう医療のなかでこの産科医と同じような経験をしないという確信は持てません。私はいつも患者さんにとって最善と思われる治療を選択しているつもりです。さらにその治療法を患者さんに説明し同意が得られたときにのみ実施するようにしています。また、その治療法が、例えば難易度が高く私にはできないような手術などのときには、他の医師を紹介するようにしています。おそらくほとんどの医師がこのようにしているに違いありません。

 しかしその結果が不幸を招いたとき、あるいは努力がむくわれなかったときというのも、今後起こりえない保証はありません。おそら今後の医師人生のなかで一度くらいは予期せぬ結果というものが起こりえるのではないかと思います。

 そんなときにどうすべきかというと、法を犯したのであれば法に従い、最後まで患者さんやその家族の立場にたった態度を貫き通すということです。これ以外にはありません。

 法律や医事紛争を恐れて治療をおこなっていれば、患者さんにとってのいい治療ができなくなってしまいます。例えば、後に医事紛争になったときに自分に有利になるように、といった観点からのみカルテを書けばどのようになるでしょうか。カルテはあくまで患者さんにとって最善になるような観点から書かれるべきものです。それに、医事紛争のことばかりを気にしていると、少しでも診断がつきにくかったり、少しでも未知数があったりする症例をすべて他の病院に搬送することばかりを考えるようになるかもしれません。これでは常に、自分の身を守ることだけを考えて、患者さんにとっての最善の医療ができなくなってしまいます。

 医師にとって必要なことはたくさんあります。絶え間ない知識や技術の習得、高い人格、協調性、など、あげればいくらでもありますが、私がもっとも重要視しているのは「良心」です。常に自分の「良心」に従って診療をおこなう限り、少なくとも後に後悔することはなくなるはずです。いつも「良心」に従っていれば、結果的に法律を犯したことになったとしても、それほど恥じることもないのです。たとえ患者さんにとってみれば不幸な結末になったとしても、最後まで「良心」に従い、最後まで患者さんの立場にたった態度を取り続ける限り、それが謝罪や慰謝料というかたちになったとしても、少なくとも自分の「良心」は傷つけることはないわけですから。また、「良心」は常に鍛えていくということも必要です。そのためには、日頃からどんな行動をとるときにも「良心」に従うことが大切です。

 これから医師を目指されている方がこれを読まれているとすれば、どうかこの点をよく考えていただきたいと思います。医療とは、自分の身を守るものではなく、患者さんのためにおこなうものなのです。

 私が診させている患者さんがこれを読まれているなら、私が良心に従っていない治療をおこなっているのでは、と感じられるようなことがあればすぐにご指摘いただければ幸いです。
  
2006/04/01
35. 理想の父親

 先日、ある病院で夕方に外来をしていたときのことです。最後の患者さんの診察を終え、片付けを始めようとしたところ、突然救急車でひとりの患者さんが搬送されてきました。

 患者さんは14歳の女性、搬送の理由は喘息発作です。これまでも度々同様の発作を起こしている患者さんだそうです。私は患者さんを診察台に寝かせ、聴診器を使って診察をおこないました。幸い症状はそれほどひどくなく、吸入と点滴で改善しそうな状態です。予想通り、点滴を開始してしばらくすると、苦しそうにしていた呼吸状態が落ち着いてきました。

 救急隊からの情報によると、この患者さんは自分で救急車を要請したそうです。14歳の女の子がひとりで救急車を呼ぶとはなかなかしっかりしています。しかし、この子の外見が私にはひっかかりました。体格は14歳相応なのですが、服装や髪型、それに外見から醸し出している雰囲気がとても14歳には見えず、幼い感じがするのです。

 この幼くみえる子がひとりで救急車を・・・。

 もちろん、人を外見で判断するのはよくないことなのですが、医師という職業上、患者さんの外見というのはいつも気になります。若い女の子で言えば、極端に化粧が濃かったり、あるいは逆にあまりにも不潔な格好をしていたりすれば、社会背景に何か問題があり、そのために身体上の障害が出現しているということが珍しくないのです。

 この子の場合、化粧はまったくしていませんし、不潔にしているわけでもありませんでしたが、全体の雰囲気が普通ではないように見受けられます。

 あらためてよく観察してみると、髪は決して不潔というわけではないのですが、あまりまとまっておらず染めてもいません。髪は染めているのがいいというわけではもちろんありませんが、最近は中学生でもヘアダイやヘアブリーチをしていることがごく普通なので、逆に何もしておらず、あまり手入れをしていない黒い髪に違和感を覚えてしまうのです。

 服装は、上は色あせたトレーナーで、下は体育の授業で使うようなトレパンです。トレーナーはおそらくもともとは濃い赤色なのですが、何度も洗濯したせいでその赤色がまだらのようになっており、はげかけて薄いピンク色になっている部分もあります。両肘の部分は布地が相当磨り減っています。現代の日本でここまで同じ服を繰り返し着る人も少ないのではないかと思わずにはいれません。はいているトレパンも、いくら動きやすいからといっても、おしゃれに敏感な14歳の女の子が体育の時間以外にはいているというのも普通ではありません。

 この子が幼く見えるのは、あまりにも貧しい衣服を身にまとい、おしゃれとは疎遠であることが原因のようです。

 しかし、話してみると、その幼さとは裏腹に、言葉遣いも丁寧で大人びた側面も持ち合わせています。

 「苦しくなったらいつも救急車を自分で呼ぶの?」

 私の質問に彼女は答えました。

 「はい。父がいるときは父に呼んでもらいますが、父と二人暮らしなのでこの時間だと私が自分で救急車を呼ぶんです。」

 私は自分が14歳のとき、自分の父のことを人に話すとき、「父」とは呼んでいなかったことを思い出しました。彼女のように正しい敬語を使うこともできていませんでした。

 ボロボロの衣服を身にまとった言葉遣いがしっかりした14歳の女の子・・・。

 こうなると次に気になるのが、この子のお父さんです。医師をしていると、ついつい家族関係を追求したくなることがよくあります。実際、家族関係が良好かそうでないかによって診断や治療に影響がでてくることがあるからです。虐待や近親相姦はその最たる例です。

 服装や髪型から想像を膨らませ、家族関係まで詮索してしまう・・・、私は医師になってから随分イヤなやつになってしまったのかもしれません。

 そんなことを考えているとき、この子の父親が診察室に飛び込んできました。

 「娘は?! 娘は大丈夫ですか!」

 血相を変え、息を切らせて必死に娘の安否を気遣うこの父親に、私が「大丈夫ですよ。今は息苦しさもほとんどないはずです。」と答えると、診察台で寝ている娘の両肩を抱きかかえ、「大丈夫か、ほんまに大丈夫か!」と何度も自分の娘に返事を促しています。

 私や看護師の目の前で、父親が大きなリアクションで安否を気遣うものですから、娘は少し恥ずかしそうにしています。

 「お父さん、大丈夫やで。いつもよりましやわ。そんなに心配せんといて〜な。うち、はずかしいわ。」

 微笑ましい親子愛といった感じです。

 それにしてもこの父親の格好、娘のそれと同じように、いえ、娘よりも私には奇異にうつりました。

 髪はボサボサで手入れはまったくしておらず、無精ひげは決して清潔とはいえない状態で、服装は上下とも作業服で相当汚れています。作業服だから汚れていても不思議ではないのですが、この父親の作業服はところどころ破れていて、そのすりきれた布地からかなり使い古されたものであることが伺えます。それに靴も穴が開いています。失礼な言い方ですが、21世紀の日本人の服装とはとうてい思われないような格好なのです。

 「娘さんと二人で暮らされているのですか。」

 私は父親に質問しました。

 「はい。そうなんです。この子の母親は今から7年前に病気で亡くなって、それからは私ひとりで育てているんです。」

 この父親は、以前はある大企業に勤めていたのですが、妻を病気で亡くしてから、娘を育てるためにその会社をやめ、定時で終われる現在の仕事に転職したそうです。給料は半減したそうですが、それよりも娘と一緒にいる時間を大切にしたいと言います。毎朝5時半に起床し、朝食と娘の弁当をつくり、夕食も必ず自分でつくるそうです。娘にはできるだけ家事を手伝わさせずに掃除も洗濯もこの父親がほとんどおこなっているそうです。

 娘は言いました。

 「父の料理はとってもおいしいんです。お弁当が毎日すごく楽しみなんです。」

 このときの娘の瞳の美しさに私は小さな感動を覚えました。

 喘息発作で度々救急搬送されるということは、現状の喘息の治療が適切でない可能性があります。問診してみると、最近かかりつけの診療所に通っておらず、自己判断で治療を中断しており、発作がおこったときに救急車を呼ぶということを繰り返していることが分かりました。

 私はそれが非常に危険であることを話し、明日にでもかかりつけ医を受診するよう指示しました。点滴が終了する頃にはすっかり元気になっており、ふたりは何度も礼を言って仲良く帰っていきました。

 大企業を退職し、貧しいなかでたったひとりで娘を育てる・・・。おそらく私には想像もつかないような苦労をなさっていることでしょう。この父親は40代半ばくらいですから、その大企業にそのまま勤めていれば、それなりの収入とそれなりの暮らしがあったに違いありません。それらを捨てて娘ひとりに愛情を注いでいるのです。

 片親に育てられて非行に走る子もなかにはいますが、この子は非行どころか、家が貧乏であることを恥じることなく、そしてきっと父親を誇りに思っていることでしょう。

 すばらしい親子関係が構築できているのは、この父親が世間体や自分のプライドのために、ひとりで娘を育てているのではなく、心から無条件の愛情を示しているからに違いありません。

 私自身は結婚の経験も、子育ての経験もありませんが、いずれ結婚して子供をもつときがくれば、無条件の愛情を示すこの父親のようになりたいと思いました。

 また、私はこれからも、多くの患者さんや、国内外のエイズの患者さんをみていくことになりますが、ひとりひとりに医師としての精一杯の愛情を注いでいきたいと、この父親をみて思うようになりました。大勢の患者さんの役に立つ医師というよりもむしろ、目の前の患者さんに精一杯の愛情を注げる医師、それが私の理想です。

 最後に、私の好きな言葉をご紹介いたします。

「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」                                                     ダグ・ハマーショールド(元国連事務総長)  
 
2006/03/15

34. 語学はこんなにおもしろい! 第2回(全2回) 

  私は一度、タイ語の先生に、「C」の二つの音(無気音と有気音)を続けて発音してもらったところ、違いがまったく分からなかったために、「一緒やん」という言葉が思わず出てしまったことがあるのですが、彼女はすかさず「イッチョじゃないよ!」と言ったので、おかしくなって笑ってしまいました。2つの「C」を、無気音と有気音として、厳密に区別しているタイ人が、タイ語より格段に音の少ない日本語の「し(SHI)」を発音できないのです。

 英語を母国語とする外国人はどうでしょうか。私は、ある西洋人に、このタイ人の先生とのエピソードを話した上で、「英語を母国語とする人にとって、むつかしく感じる日本語の音があるか」という質問をしたことがあります。彼女の答えは「まったくない」というものでした。

 けれども、よくよく思い出してみると、アメリカ人であろうがオーストラリア人であろうが、日本語の文章をきれいに発音している西洋人を私は見たことがありません。どれだけ日本に長く暮らしている人であっても、声だけを聞いて、「この人、日本人かな」と感じたことは一度もありません。

 それに対して、日本語のよくできるタイ人は、「SHI」や「Z」などがあまり出てこない文章であれば、ほとんど日本人と同じように発音します。例えば「お元気ですか」という文を、英語を母国語とする人に発音してもらうと、イントネーションや発音の微妙な違いから、すぐに日本人でないことが分かりますが、これをタイ人が発音すると、場合によっては「この人、日本人かな」と思うほどきれいです。

 どうやら、スピーキングという語学の領域は、単に母音や子音を正しく聞き取れて発音できるかどうか、という問題だけではなさそうです。

 もうひとつアジアの例を挙げましょう。

 中国という国は、多民族から成立している国家ですが、統一支配をする上で、語学の問題にもっとも難渋した(している)そうです。北京語が一応の共通語ということになっていますが、北京語は数多い中国語のなかでも音の数の多い、少なくともリスニングとスピーキングにおいてはもっとも難易度の高い言語です。

 そんな言語を共通語にしようとしたものですから当然無理がでてきます。いくら言葉を強制されても、もともと発音できない音が多数含まれているのですから、地方の民族の人には正しく使えるはずがありません。例えば、台湾の言語は北京語よりも音が少なく、そのため台湾人には上手く発音できない音が北京語には多数あり、北京語を話す中国人が台湾人の中国語を聞けば、洗練されていない、どこか野暮ったい言葉に聞こえることがあるそうです。

 日本人が外国語を学ぶときに、発音のハンディキャップを背負っているのは確かに事実ですが、西洋人が日本語を流暢に話すかと言えば、必ずしもそうではありませんし、タイ人は母国語に多くの音を持っていながら、正しく発音できない日本語がありますし、中国にいたっては、同じひとつの国でありながら、地方によっては標準語が正しく発音できないのです。

 こう考えれば、日本人だからといって一方的に悲観的になる必要はありません。また、考え方を変えて、日本語と同様に音の少ない言語を勉強するというのもひとつの方法かもしれません。(センター試験で英語以外の科目を選択するというのはかなりリスキーかもしれませんが・・・)

 ちなみに、日本人が発音に比較的コンプレックスを持つことなく勉強できるメジャーな外国語は、韓国語とスペイン語だと言われています。私の知る範囲でも、韓国語はある程度までマスターする人が多いような印象があります。スペイン語については、発音には抵抗なく入れたけれど、単語の語尾変化の多さに疲れてしまって挫折するというケースが多いようです。

 ところで、語学が苦手という人は男性に圧倒的に多いような印象があります。これは昔からよく言われていることですし、脳生理学的な説明が試みられることもあります(例えば右脳と左脳の使い方の差異や脳梁(のうりょう)の太さの違いなど)。また、私自身の経験から言っても、英語をきれいに話す韓国人は圧倒的に女性に多いという印象がありますし、タイ人にいたっては、例えばタイ国内の銀行に入ると、女性はほとんどがある程度きれいな英語を話しますが、男性職員はかなりのベテランと思わしき人でも、さっぱりしゃべれないということがよくあります。

 実際、「語学は女の方が有利なんだから試験にハンディをつけてほしい」、とまで言う男性もいます。語学にコンプレックスを持っている男性のなかには、「女性はもともと語学のセンスがあるのに加えて、日本人の女であれば、容姿にかかわらず(?)、たいていどこの外国人からもモテるから、恋人をつくることによって語学が飛躍的に上達する。それに対して日本人の男は、特に西洋の女性からはまったく相手にされないからハンディを背負っているんだ」、と言う人までいます。

 う〜ん、たしかに一理あるような気もします。例えば、オーストラリアには、de facto partner visaと呼ばれるものがあります。これは通称「恋人ビザ」と言われているもので、オーストラリアでは、結婚していなくても、ある程度長期間の付き合いがあれば、恋人とみなされて居住権を獲得できるという制度です。この制度を利用したことのある日本人女性(要するにオーストラリアの男性ときちんと付き合っている(いた)女性)の話は、たまに聞くことがありますが、男性でこのビザを取得したことがあるという話は私の知る限りありません。

 けれども、男性も決して悲観することはありません。私の知る限りでは、リスニングとスピーキングで女性に劣ることが多いとしても、リーディングやライティングではそれほどひけをとっていないのではないかと思われます。

 実際、英文がほとんど書けずに初歩的な文法のミスをしている日本人女性が、ビックリするくらいきれいな英語を話すことがよくあるのと同様、ほとんど英会話ができない男性が、難解な英文をスラスラ読んでいる光景も珍しくありません。

 私は現在、月に2〜3度、タイ語を習っていますが、その先生によると、「(私のような)男性は文字や文法をすぐに覚えるけれど発音はもうひとつ」、だそうです。それに対して、「女性は文字や文法をイヤがるけれど発音はきれい」、だそうです。男の私からすれば、文字や文法をイヤがる、というこの女性心理が理解できません。タイ文字はとても「かわいい」ですし、そもそも文字を覚えなければ辞書すら使えないのです。辞書も使えない状態で、語学力を向上させるなんてことは私には不可能です。しかし、女性たちは、辞書なしで会話力をどんどんアップさせていくのです。興味深いと思いませんか。

 特に語彙力に関しては、男性も自信を持っていいのではないか、と私は思っています。もちろん、語彙力アップには絶え間ない努力が必要ですが、トータルでみれば、語学で女性に劣っているというわけでは決してないと思うのです。リスニングが採用されたといっても、まだまだ大学入試の英語は筆記試験が中心ですし、また、ビジネスの現場でも、いくら流暢に英語を話そうが、英字新聞をろくに読めないような日本人は信用されません。

 それに、語彙力を増やし、正しい文法を見につけることによって、リスニング力も上達するのです。これは、多数の単語や文章に慣れることによって、その単語の発音が正確にできなくても、文脈から意味をとれるようになるからです。特に長い単語というのは少々発音に自信がなくても、馴染みがあれば簡単に理解できるものです。

  「Y」の発音に苦手意識があり、「year」が正確に聴き取れず発音できなくても、例えば、同じ「Y」から始まる、「yellow-dog-contract」(労働組合に加入しないことを条件とする雇用契約のこと)という単語が会話のなかで出てきたときに、この単語を知っていればすぐに理解できるでしょう。そして、この単語を知っていれば、西洋人から(おそらく)一目おかれるでしょう。

 受験生の方には時間的な余裕がないかもしれませんが、実際に英語を母国語とする外国人と話す機会をつくれば、単に自宅で英語を聞くよりもはるかに効果があります。これは、先に述べたように、よく使うフレーズを何度も聞くことによって文脈から単語を類推する能力がアップするからですが、他にも理由はあります。

  英語教育番組にはないすぐれたところは、その外国人がどういうところでつまるか、あるいはどのような「間」を置くかが、セリフを話すだけの教育番組よりも手に取るように分かるからです。そして、こういうことが分かるようになると、英語独特のリズムのようなものが身につくようになります。また、もう一度聞き返すことによって、例えば、今の発音は「that」なのか「the」なのかといったことを確認することもできます。

 それに、会話の内容を興味深いテーマにすることによって、楽しんで英語と接することができます。お互いの国の文化の違いや、考え方の相違点を知るのは本当に楽しいものですし、書物からは分からないことも多々あって、語学がますます好きになります。

 私は昨年の秋から月に2〜3度、英語のプライベートレッスンを受けていますが(と言うよりは、ほとんど雑談ですが)、次回のテーマは、「母国ではさっぱりモテない西洋の男が日本に来ればアイドル並みの扱いを受けている実情、なかには寄ってくる日本人女性をひどく扱っている男もいるという現実」、というものです。こういう話は、実際に被害(?)にあった日本人女性から聞くことはありますが、このテーマで、西洋人とディスカッションするということがおもしろいわけです。
 こんな会話をしながら実力がアップするなんて・・・。語学っておもしろいと思いませんか。 

2006/02/28

33. 語学はこんなにおもしろい! 第1回(全2回)
 受験シーズンになって、私にメールをくださる受験生の割合が増えてきました。内容は、「二次試験対策をがんばって合格目指します!」というものもあれば、「センター試験に失敗したので来年に照準を合わせます」というものまで様々です。

 最近目立つ質問に、「医学部二次試験の理科が3科目のところは不利ですか」、というものと、「英語のリスニングの効果的な勉強法ってありますか」、というものがあります。

 「理科3科目」については、近日出版予定の『偏差値40からの医学部再受験テクニック編(仮)』にも書きましたので、ここでは詳しく触れませんが、私としては、不利になることはなく、むしろ有利になるものと思っています。

 今日は、英語のリスニングについてお話したいと思います。

 英語のリスニングに苦手意識を持っている人は非常に多いように思います。実は私も、リスニングは決して得意ではなく、英語の4つの分野、すなわち、リスニング、スピーキング、リーディング、ライティングのなかでは、リスニングがもっとも、そしてダントツで苦手です。
 日本人の多くが英語のリスニングが苦手なのに対して、英語を母国語とする人たちは日本語を勉強するときに、リスニングがもっとも簡単だ、と言います。そしてこれは、英語を母国語とする人だけでなく、他の言語を母国語とする人にとっても同じようです。外国人が受験する日本語検定というのは4級から1級までありますが、日本に数ヶ月もいれば、たとえ日本語検定1級の試験でも、リスニングに関してはそれほどむつかしくないという外国人も珍しくありません。

 この最大の原因は、日本語は母音も子音もその数が多言語に比べて圧倒的に少ないということです。母音を考えてみると、日本語の母音は「あ・い・う・え・お」の5つしかありません。一方、多言語では、英語で12、ベトナム語で15、タイ語で32、中国語は36もあると言われています。(尚、母音の数については、本によって書いてあることが違うので、これらの数字はあくまでも参考程度です。)

 子音については、日本語は、「K、S(SH)、T(TH)、N、H、M、Y、R(L)、W、G、Z、D、B、P(PH)、J」の15個しかありませんが、英語では20個、タイ語では22個、中国語は30以上もあるといわれています。さらに、これらだけではありません。中国語とベトナム語には4つの声調が、タイ語には5つの声調があります。

 文法や作文については、努力すればかなり実力を伸ばすことが可能ですが、リスニングについてはそう簡単には上達しません。よく、「音感のある人は上達が早い」と言われますが、(私も含めて)音感がそれほどなくてもやらなければならない人も大勢いるわけですから、「自分は音感がないから・・・」と言って逃げるわけにはいきません。

 では、どうすればいいかと言うと、繰り返し繰り返し聞く練習をするのです。「なんだ、当たり前のことじゃないか・・・」と思われるかもしれませんが、これは、単に「何度も繰り返し聞けば聞き取れるようになる」という意味ではありません。むしろ、「正確に聞き取れなくても意味が理解できるようになる」ということが重要なのです。そして、そのためには、文法をしっかりとしたものにして、語彙力を増やすことが必要です。

 例を挙げましょう。

 英語を母国語とする人は、「ear」と「year」を正確に区別しますが、日本人でこれらを正確に聴きわけて、そして区別して発音している人はどれくらいいるでしょうか。少なくとも私にはほとんど絶望的です。先ほど日本語の子音に「Y」を含めましたが、実は日本人の多くはこの「Y」が正確に発音できません。「や・ゆ・よ」はそれぞれ「YA,YU,YO」と発音しているのですが、「YI」「YE」については、「I」「E」になってしまう人がほとんどです。五十音の表にも「や・い・ゆ・え・よ」と書かれていることからも、それは明らかでしょう。

 外国人が日本に来て驚くことのひとつに、「日本人は自国の通貨の発音もできないのか・・・」というものがあります。つまり、日本の通貨は「YEN」(円)なのに、これを「EN」と発音するからです。「Y」の発音は、「I」と「J」の中間のような音ですが、これを日本人が正確に発音するのは至難の業です。(しかし、よく考えてみると、なぜ「円」の英語は「EN」ではなく「YEN」なのでしょうか・・・)

 私は、「Y」の発音は難しくないのか、ということをオーストラリア人に質問したことがあります。彼女の答えは、「日本人が難しく感じるのは分からないでもないが、英語を母国語とする人からみればまったく難しくない」というものでした。

  同様の質問をタイ人にしたこともありますが、彼女の答えも「簡単です」の一言でした。ちなみに、タイ語では日本のことを「???????」(これを無理やりアルファベットで表記するとyiipunもしくはyiibpunとなると思います)と言いますが、これを正しく発音できる日本人はほとんどいないそうです。彼女によれば、日本人は「YA」や「YU」は発音できるのに、「YI」ができないことが大変不思議で興味深いそうです。
 
 では、日本人は、母国語のハンディキャップから、リスニング習得を諦めなくてはならないのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。受験にも英語のリスニングは必須化されるようになってきているわけですから、かなりのハンディがあろうとも克服しなければなりません。

 私は、先ほど「繰り返し繰り返し聞く」ことが大切だと述べましたが、これは「その単語の発音に慣れる」という意味ではなく、「その単語を含めた文章に慣れる」ということです。

 「ear」と「year」は確かに単独で発音されれば聴き取るのは至難の業ですが、文脈と合わせて考えるとそれほどむつかしくはありません。実際、私はこれら2つの単語が聴き取れずに苦労した経験はありません。そのスピーカーが「耳」のことを言っているのか、「年」のことを言っているのかで迷うなんてことは、普通はありえないからです。

 これは「L」と「R」でも同じことです。「glass」と「grass」、「collect」と「correct」などは、それだけで聞くと判別しにくいことがありますが、文脈から察すればそれほどむつかしくはありません。(ただし、TOEICのリスニングの問題でこれらの区別を問うている問題はあります。)

  ただ、「L」と「R」については、発音するときには充分に注意しなければなりません。これを曖昧にして発音すると、文章の意味が伝わらないことがよくあります。私はそんな経験をこれまでに何百回としてきています。
 
 英語を母国語としない外国人のこともみておきましょう。

 「L」と「R」の区別は、韓国人も苦手なようです。そのため韓国では幼少児に舌の手術をおこなうこともあるそうです。舌を手術して「L」と「R」の発音が正しくできるのかどうか、私には甚だ疑問なのですが、世界一の受験大国と呼ばれている韓国の教育の狂信的な力の入れように驚きます。ちなみに、韓国人の多くは日本語の「ず」が正しく発音できないようです。私は一度「ミジュをください」と言われて、それが「水」だと分かるまでに随分長い時間がかかったという経験があります。

 タイ語では「L」と「R」は区別されているのですが、欧米人に言わせると、タイ人の「R」は、はっきりと「R」と発音するときと、「L」に極めて近い音を出すときがあるそうです。

 また、タイ語には、日本語はもちろん、英語よりも多数の母音と子音、さらに5つの声調がありますが、発音できない日本語があって興味深いと言えます。タイ人のほとんどは、日本語の「し(SHI)」が発音できません。だから「新幹線」は「チンカンセン」と発音しますし、「ショッピング」は「チョッピング」と言います。また、「Z」の音もタイ語にはなく、そのため「象さん」は「ソウさん」になります。

 その一方で、日本人にはかなりのむつかしさを感じさせる発音がタイ語には多数あります。先に述べた「Y」もそうですし、「C」「P」「T」「K」はそれぞれ2種類(無気音と有気音)あって、これらを厳格に区別しなければなりません。例えば、日本人には(少なくとも私には)、同じように聞こえる「C」を発音するときに、息を出すか出さないかで、まったく別の音として扱うのです。欧米人も、この点についてはタイ語を難しいと感じているようです。

 これらを発音するときに区別しようとすると、例えば「C」については、有気音の「C」は日本語の「ち(CHI)」と同じ音で、無気音の「C」は「じ(JI)」と同じ音で発音すると、問題なく通じることも多いのですが、逆にタイ語を聞くと、どう聞いても「C」の無気音は「じ(JI)」とは聞こえなくて不思議です。これは、タイ語には英語や日本語の「J」の音がないことが原因なのですが、語学のおもしろさはこういうところにもあります。

つづく・・・・

2006/02/15
32. 医者は「勝ち組」か「負け組」か

 2006年1月23日、ライブドアの堀江社長が証券取引法違反で逮捕されたという事件は、翌日の各新聞のトップを飾り、大きな議論を呼んでいるようです。この事件を報道しているのは日本のマスコミだけでなく、ReuterやBBCといった海外の一流メディアまでもが、大きく取り上げました。

 そして、海外のメディアも、堀江容疑者の人物像について、不正行為の容疑についてばかりでなく、放送局やプロ野球チームを買収しようとしたことや、衆院選に立候補したことなどにも触れています。

 数年前から「勝ち組・負け組」という言葉が流行していますが、堀江氏は典型的な「勝ち組の象徴」として語られることが多かったように思います。

 人間を単純に二極化してしまうような、この「勝ち組・負け組」という言葉には、私は当初から抵抗感があったのですが、あまりにもこの言葉が世間に浸透してしまったために、様々な弊害が生じているように思えてなりません。

 例えば、私のホームページからメールを送ってくる医学部受験を考えているという人のなかにも、「医師になって勝ち組になりたい」というような表現を使っている人がいます。

 私がこの「勝ち組・負け組」という言葉が社会に浸透することに対する危惧を感じる最大の理由は、世の中の価値を単に「お金」を尺度としてみてしまうということです。文脈にもよるでしょうが、結局のところ「お金」のある人間は「勝ち組」で、「お金」のない人を「負け組」と捉えることが多いように思います。実際、堀江氏の発言のなかで「人の心はお金で買える」とか「お金があればオンナをものにできる」というものもあったそうです。

 「人間の幸せはお金で決まるものではない」と言ってしまえば、中身のない綺麗事に聞こえますが、世の中にはお金を優先事項にしていない人も大勢います。今回は私の知るそういう人たちをご紹介したいと思いますが、その前に世間で言われているような「負け組」とは何なのかを考えてみたいと思います。

 森永卓郎氏の『年収300万円時代を生き抜く経済学』という本が大ベストセラーになったこともあり、年収300万円程度の人を「負け組」と呼ぶような風潮があるように感じます。ところが、あるデータによると、年収300万円程度の人の9割以上がインターネットの使える環境のパソコンを所有しており、また、半数以上の人が車を所有しているそうです。また、現在の日本ではよほどのことがない限り、衣・食・住に困ることはありません。

 はたして、自宅で悠長にインターネットをしている人を「負け組」と呼んでいいのでしょうか。たしかに、年収何億もある人と単純に収入だけで比較すれば「負け組」ということになるのかもしれません。けれども、それを言うならパソコンどころか、その日に食べるものがない環境にいる人が世界にどれだけいるかを少し想像してみればどうでしょうか。

 見方を変えれば、日本国籍を有していること自体がすでに「勝ち組」なわけです。

 しかし、こういう見方は「屁理屈、あるいは単なる綺麗事だ」と言う人もいるかもしれません。そういう人に私が問いたいには、「それでは、衣・食・住に困らずに車やパソコンを有していてそれ以上に必要なものは何なのですか」ということです。

 実際に年収300万円くらいの男性にこの質問をすると、よく返ってくる言葉が「それでは恋愛や結婚ができない」というものです。

 けれども、本当にそうなのでしょうか。たしかに、恋愛や結婚に関するデータをみてみると、女性が男性に重視することのひとつに「高収入」というのがあるようです。しかしながら、アンケートで「お金があるのとないのではどちらがいいですか」と聞かれれば、よほどの変人でもない限り「お金はある方がいい」と答えるでしょう。

 統計学的な根拠があるわけではありませんが、私には世間の女性が「年収300万円程度の男とは恋愛ができない」と考えているようには到底思えないのです。私の周りの女性に話を聞くと、「お金はそれほど重要じゃない」と言いますし、年収300万円くらいの男性と付き合っている女性は何も珍しくありません。

 誤解を恐れずに言うならば、恋人のいない男性は、その理由を年収のせいにして、恋人のできない本当の理由を見ようとしていないだけではないでしょうか。また、恋人のいない女性は「周りには年収の低い男しかいないからひとりでいるんだ」という言い訳を用意して、恋人のできない本当の理由を見ないようにしているだけではないでしょうか。

 恋愛や結婚のことはさておき、衣・食・住は満たされているけれども「心の平安」がないという人に私がおすすめしたいのは、「感動」を探すということです。そもそも、衣・食・住、さらに車やパソコンの次に必要なものが「お金」だ、という考えばかりが注目されるから、人間の価値を「お金」だけで評価するような「勝ち組」という概念ができあがってしまっているわけで、「お金」以外の「感動」を求めてもかまわないわけです。

 もちろん、世の中にはお金が好きで好きでたまらないという人がいますし、私はそれはそれでかまわないと思います。実際、そういう人もいなければ資本主義がうまく回転しないのかもしれません。

 けれども、「お金」以外の選択枝を見つめなおすのは悪いことではないでしょう。
 
 例をあげましょう。

 私が、タイのエイズホスピスにいたときにヨーロッパのボランティアが何人かいました。彼ら彼女らは医師であったり、看護師や介護師であったり、普通の主婦であったりするわけですが、お金持ちはひとりもいませんでした。年収は300万円もありません。ヨーロッパでは一部の貴族的な身分の人を除けば、大半は年収300万円以下の人たちです。物価が安いかというとそうではなく、日本の方がよほど物が安く買えるように思います。

 そんな状況のなかで、彼ら彼女らは短くても数ヶ月、長ければ数年という単位でボランティアに来ていました。もちろん彼ら彼女らは義務感でボランティアをしているわけではなく、楽しくて「感動」があるからしているわけです。これはやってみないと分からないかもしれませんが、患者さんと触れ合って得ることのできる「感動」というのは、お金では買えない、いわば「priceless」なものです。

 もうひとつ例をあげましょう。

 タイでは貧富の差が激しいという話を別のところでもしましたが、例えば、地方からバンコクに出稼ぎにきてホテルのルームメイキングをしているような女性は、月収で1万円程度です。私が彼女らと話して感動するのは、表情に悲壮感がまったくなく、その仕事を楽しんでいるということです。お金はないけれども、外国人と話すのはおもしろいし、仕事が暇なときは同僚とおしゃべりするのが楽しいと言います。なかにはもう20年も同じ仕事をしている女性もいます。彼女らは月収1万円で楽しく生活しているのです。

 日本に目を向けてみましょう。

 『医学部六年間の真実』でも述べましたが、日本の医師というのは儲けようと思えばかなり儲けることができます。2005年12月に発覚したニセ医者の年収が2000万円というのがいい例でしょう。しかし一方では、年収数百万円程度で自分の好きな臨床や研究に没頭している医師も少なくありません。

 私はこの春にクリニックの新規開業を考えていますが、私の試算ではこれまでに比べて年収が半分以下になります。それでも開業にこだわるのは、総合診療ができて(これまでは皮膚科の外来をしているときは風邪すらもみることができず、内科の外来をしているときは湿疹すら診れませんでした。なぜならそれらの診察をすれば他科に対する「越権行為」になるからです)、継続して患者さんを診ることができるからです。つまり、患者さんとの距離がぐっと近くなるわけで、それだけ「感動」も増えると考えているのです。

 お金のみに価値を置いていたら、いつも強盗や詐欺師から身を守ることを考えなければいけませんし、近づいてくる人間はお金目当てかもしれない、と要らぬ疑いを持つことになるかもしれません。お金で買えない「priceless」な「感動」というものを考えてみるのは決して悪くないことだと思います。

 私個人としては「勝ち組・負け組」という言葉は好きではありませんが、あえて使うならば、「お金」ではなく、どれだけ自分の人生で「感動」を体験できたかによって、「勝ち組・負け組」が決まる、とは言えないでしょうか。
  
2006/02/01

31. 正しい医師への謝礼の仕方、教えます! 

 先日、ある患者さんと話していたときのことです。

 「先生、あたし3年前に手術受けたときに10万円も医者に渡してんで〜。ほんま腹立つわ〜。」

 医師への金銭の授与・・・。誰が考えてもおかしいのは明らかですが、いまだにこの悪しき慣習は根強いようです。

 「そんなに腹立つんやったらあげへんかったらよかったのに・・・」

 私がそう言うと、その患者さんは続けました。

 「そやかて、そこの病院では手術を受けるときにはお金を渡すのが暗黙のルールやって聞いてんもん・・・」

 そんなルール、本当にあるのでしょうか。

 この患者さんのように10万円という大金は極端だとしても、今でも実際に、我々医師にお金を渡そうとする患者さんは少なくありません。特に手術の後に渡そうとする患者さんが多いような印象があります。

 もちろん、こんなことは誰が考えてもおかしいわけで、医師もできるならば受け取りたくありません。お金を失うことになるわけですから患者さんの負担にもなりますし、受け取る医師としても気持ちのいいものではありませんから、合理的に考えれば、このようなおかしな慣習は直ちに撤廃してしまえばいいのですが、現実はそう簡単ではないようです。

 私自身も含めて医師側からみれば、お金を渡そうとしてくる患者さんと接するのは、かなりしんどくて疲れます。もちろんできることなら受け取りたくないわけですから、最初はなんとかして断ろうとします。しかしそのうちに、患者さんが「先生が受け取るまで帰りません!」などと言って一歩も譲らなくなると、その場の空気から逃げ出したいがために受けとってしまうこともあります。

 しかし、その気まずい空気からは抜け出したとしても、その後に「患者さんから受け取ってしまった・・・」という罪悪感に苦しめられることになります。

 また、私の「受け取りません」という言葉にいったんは納得した患者さんでも、後で(どうやって住所を調べたのか)自宅に送ってくる人もいます。

 私は、できるだけ早いうちに、いただいたお金をそのまま(商品券の場合は換金してから)、各団体に寄付するようにしていますが、寄付したからといって罪悪感が完全に消えるとは限りません。

 私の尊敬するある医療従事者の人は、「患者さんからお金や物を受け取らない」ことを徹底しています。その人は、患者さんから非常に人気があるということもあり、お金や物を渡したいという患者さんが後を絶ちません。院内では何があっても絶対に受け取らないことが分かると、一部の患者さんはその人の自宅にお金を送ります。お金が送り返されてくると、今度は米や酒、果物といった物を送るようになります。しかし、その人の態度は徹底していますから、きちんと手紙が添えられて送り返されてくるというわけです。
 
 医師への金銭の授与、この悪しき慣習は、なぜなかなかなくならないのでしょうか。

 その最大の理由は、「お金を渡さないと治療で手を抜かれるんじゃないのか・・・」と患者さんが考えるからではないでしょうか。

 けれども、そんなことは絶対にありえません。いくら大金を渡そうが、その逆にわがままばかり言って医療従事者をてこずらせようが、医療従事者が手を抜くということは絶対にありません。これは決して綺麗事や単なる理想論ではなく、医師が患者さんによって治療に差をつけるということはありえないのです。

 その理由は、少し考えるとすぐに分かります。例えば手術を例にあげて考えてみましょう。医師というのは、できるだけ手術の成績をあげたいと考えています。つまり、自分のおこなった手術で患者さんがよくならなければ、自信を失うことになりますし、その医師や病院の評判が落ちてしまうことにもなりかねません。医師はどんな患者さんに対しても全力で手術をおこなっているのです。そして、これは他の治療でも同じです。治る病気が治らなければ、その医師や病院の評判が下がってしまいますから、治療で手抜きなどをおこなうと、結果としてその医師や病院が困ることになるのです。

 ですから、「お金を渡さないと治療で手を抜かれるんじゃないのか・・・」という心配は理論上でもまったく不要なのです。

 「純粋な感謝の気持ちからお金を渡したい・・・」、そのように考えられる患者さんもおられるかもしれません。自分にとっていいことをしてもらえば、何かのかたちで感謝の気持ちを現したい、と思うのは人間にとって自然なことかもしれません。

 けれども、その患者さんに対しておこなった治療行為というのは、我々医療従事者は「仕事」としておこなっているのです。もちろんその「仕事」に対する報酬は病院からきちんと支払われています。与えられた「仕事」をして、その分の報酬を得ているわけですから、それ以上の収入を得ることはおかしいのです。それに、そもそも病院から支払われている報酬は、元をただせば国民の税金と保険料から捻出されているのです。
 
 「でも、本当にあの先生にはよくしてもらったし、なにかのかたちでどうしても感謝の意を示したい・・・」、そのように考えられる方もおられるでしょう。

 では、その問題にお答えしましょう。

 お金を渡すからいろいろと問題が生じるわけですから、どうしても感謝の意を示したいなら、お金以外のものを渡せばいいのです。「お金以外のもの」といっても、商品券の類のものは金銭と同じですからダメです。また明らかにお金がかかっていると思われるモノもダメです。

 患者さんによっては、お菓子や花を持ってこられる方がおられます。小さな箱に入ったチョコレートを退院した後で持って来られた方がおられました。退院の日に一輪の花を「みなさんのおかげで元気になれました」という言葉とともに渡してくれた患者さんもおられました。お金や商品券ならイヤな気持ちになりますが、こういうときは私は純粋に嬉しく感じます。

 しかしながら、小額であっても、やはりお金のかかるプレゼントを患者さんが医療従事者に渡すという行為は、問題がないわけではありません。

 ならば手作りのものならいいのか、そう考えられる方もおられるでしょう。確かに手作りのアクセサリーなどをいただくと大変嬉しく思います。私も患者さんにいただいた手作りのブローチや、子供が書いてくれた絵などは宝物にしています。

 しかしながら、感謝の意を示すには、もっと簡単でもっと適したものがあります。
 それは、「手紙」です。

 患者さんからの手紙ほど嬉しいものはありません。医療従事者にとって、患者さんからの手紙というのはお金に代えることのできない価値のあるものです。私も患者さんからいただいた手紙は宝物にしています。小さな子供が覚えたての文字を使って色鉛筆で一生懸命に書いてくれた手紙など、何度読み直してもすがすがしい気分にさせてくれます。最近は、インターネットで私の名前を検索してメールをくれる方も増えてくるようになりました。

 患者さんの手紙からは学べることもあります。例えば、「先生は最初は怖い人かと思っていましたが・・・」とか「あの検査があれほどしんどいとは思いませんでした」などと書かれていると、「ああ、もっと第一印象を大切にして丁寧に患者さんに接するようにしよう」とか「検査の苦痛についても勉強する必要があるな」とか、そういうフィードバックができるわけです。

 それに、手紙というのは出した方も気持ちのいいものではないでしょうか。手紙なら、冒頭で紹介した患者さんのように後からグチを言いたくなることもなくなるはずです。

 私は私生活で、人に親切にしてもらったり、助けてもらったりすると、できるだけ手紙や電子メールで感謝の意を伝えるようにしています。手紙や電子メールは、直接会って話したり電話で話したりするのとは違った表現ができるために、特に感謝の意を示したいときには最適ではないかと私は考えています。

 手紙(や電子メール)がきっかけで、人間どうしの絆が太くなったり、お互いに理解し合えたりすることはよくあります。これはあらゆる人間関係で言えることだと思います。

 そして、それは患者さんと医師の関係でも同じなのです。 
 
2006/01/13

30. ニセ医者とシャブ中東大医大生 

  2005年12月6日の新聞記事は我々医療従事者を大変驚かせました。

 33歳の男性が、なんと医師免許を持っていないのにもかかわらず8年半もの間、医師として勤務していたことが発覚したというのです。偽造医師免許証のコピーを提出し、医師になりすまし、複数の病院で勤務し、年収はなんと2千万円もあったというのですから、我々医療従事者だけでなく、一般の方も大変驚かれたと思います。

 この事件はいくつかの問題点がマスコミなどで指摘されていますので、それらをみていきましょう。

 ひとつめに、なぜ偽造医師免許証がバレなかったのか、という点です。私も現在複数の医療機関で仕事をしていますが、雇用契約を結ぶ前には、医師免許証の原本と保険医登録票(こちらはコピーでいいことが多い)を提出します。おそらく被告の男性(以下、「ニセ医者」とします)の勤務先の病院では医師免許証の原本は求めていなかったのでしょう。

 けれども、このニセ医者が偽造に関する高度な技術を持っていて、原本を偽造していたらいったいどうなっていたのでしょうか・・・。

 ふたつめの問題点は、なぜ2千万円もの年収があったのかということです。2004年度の人事院調査のデータによりますと、全国の勤務医の平均給与は28〜32歳で月収約73万7000円だそうです。この数字とニセ医者が取得していた年収2千万円には大きな格差があります。

 私が、『医学部六年間の真実』で述べたように、医師の当直アルバイトというのは破格で、なかには一晩で20万円ももらえるところもあるようです。けれども、そのような高額アルバイトは重症の患者さんがひっきりなしに入ってくるような救急医療の現場であって、ニセ医者に務まるとは到底思えません。だとしたら、ごく軽症の患者さんしか来られない病院で働いていたことが予想されるわけで、当然そういう病院は給与はそれほど高くないですから(ただし一般の仕事に比べればそれでも破格です)、どう計算しても2000万円という数字は不可解なのです。

 12月18日に政府が発表した、「診療報酬マイナス3・16%の改正」というのは大きな議論を呼び、医師会を初めとする医療団体は一斉に反対の表明をしています。「これでは医師に充分な報酬が支払われず医療の質が低下する」というのがその理由だそうです。

 しかしながら、ニセ医者が2千万円も稼いでいるんだから、やっぱり医師はもらい過ぎているんじゃないのか、と言われても仕方がないのではないでしょうか。
 
 もうひとつ指摘されている問題点は、(これはマスコミからというよりは我々医師の間で議論になることですが)、なぜ8年半もの間ニセ医者であることを隠し通せたか、ということです。それもニセ医者であることが発覚したのは、医療行為が不十分であったとか、患者さんからクレームが来て、とかではなく免許証の原本の提示を求められて発覚したわけです。ということは原本の提示が求められなければいつまでも続けていた可能性があるわけです。しかもこの二セ医者は、患者さんから評判がよかったというから驚きです。

 医学部での六年間は、医学部受験とは比較にならないほどの勉強をおこなわなければなりません。後半の二年間は臨床実習で実際に患者さんを診察することによっても勉強をおこないます。卒業後は二年間の研修医期間が義務付けられています。しかし、これでもまだまだ不十分で、それからもしばらくは実質研修期間のようなものです。私の場合も、二年間の研修ではまだまだ未熟であることを自覚し、その後の二年間さらに研修医のような生活を続けました。

 ところがこのニセ医者は、定時制の高校を中退した後、都立の病院で一年間見習いをおこなっていたそうですが、そんなことだけで医療行為がおこなえるようになるとは到底思えないのです。(この「見習い」というのもよく分かりません。いったい誰を対象とした何のための「見習い」なのでしょう・・・)

 もしかすると、我々が(私が)思っているほど、現在の医療レベルというのは高いものではなく、たしかに六年間の勉強とその後の研修は大変ではあるけれど、そこからアウトプットされるものは、素人が短期間で勉強して得るものとそんなに変わらないのかもしれません。いや、そんなはずはない!と思いたいのですが、そんなことで意地を張るよりも、今まで通り日々の勉強を頑張る方が私にとってはきっといいことでしょう。

 ところで、今回発覚したようなニセ医者は氷山の一角ではないか、という話があります。私には到底そのようには思えないのですが、インターネットで複数の掲示板を探してみると次のような書込みが見つかりました。
 
>コンタクト屋でアルバイトをしたことがあるんだけど 
>医師不在時に、コンタクト屋の店員が医師のふりをして 
>診察や投薬をしているのは日常茶飯事のことですよ…

>以前にせ医者が精神科病院に勤務していて、よく日医雑誌に投稿していた。頻繁に投稿
>していたので、緑陰随筆まで書いていたことがあったっけ。

 やはり、ニセ医者は他にも大勢いるのでしょうか。

 ところで、このニセ医者発覚が報道された同じ日に、この事件とは対照的な記事が報道されました。

 それは、東大医学部の学生が覚醒剤中毒で逮捕されたという記事です。報道によりますと、覚醒剤取締法で逮捕されたこの27歳の東大医学部四年生は、超有名進学校の灘高を卒業している超エリートで、高校時代も成績は上位だったそうです。ところが医学部に入学してから覚醒剤にハマりだし4年連続留年していたとのことです。

 私が『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』などで指摘したように、シャブ中医師は何も珍しくありません。日頃から覚醒剤中毒者と接し(夜間の救急外来にはよく来ます)、覚醒剤の恐ろしさをよく知っているはずの医師がなぜ自らもシャブ中になるのかについては、『今そこに・・・』に書きましたからここでは述べませんが、危険性を充分に知っているはずの医師でさえ手をだしてしまう覚醒剤の恐ろしさは何度繰り返し強調してもしすぎることはありません。

 医師でさえハマるわけですから、まだ知識が充分でない医学生が覚醒剤に溺れるのは理解できることです。いくら灘高で上位の成績であろうが日本で最難関とされる東大医学部の学生であろうが、そんなことは関係ないわけです。ちなみに東大では2004年の9月に、教養学部の学生が大麻取締法で逮捕されています。
 
 さて、何も珍しくないシャブ中ドクター(医大生)をここで取り上げたのは、覚醒剤の恐ろしさを再確認したかったからだけではありません。というのは、マスコミの報道に疑問を感じるのです。

 例えば、夕刊フジが報道したこの記事の見出しは「東大理V(医学部)エリート人生がシャブで霧散」となっており、本文のなかで「クスリにハマり、エリート医師への道を自ら閉ざした学生の堕落ぶりに・・・」と述べられています。

 たしかにこの男が再び医師の道を目指すのは不可能でしょう。しかし「エリート人生がシャブで霧散」というのは言いすぎではないでしょうか。この男はまだ27歳です。おそらく初犯でしょうし販売をしていたわけではありませんから、実刑にはならず執行猶予がつくことになると思われます。

 ならば、人生が終わったわけでは決してありません。灘高から東大医学部に進学するくらいの頭脳を持っているのです。賢い頭脳があるからといって覚醒剤を断ち切れるかどうかは分かりませんが、もし完全に断ち切ったとすれば、その体験を本にするとか講演するとかして、現在もシャブに依存している人を救うような活動はできるのではないでしょうか。なにも東大出身の医師だけが「エリート」ではないのです。

 念のために断っておくと、私はこの男の罪を軽くせよと言っているわけではありません。むしろ、現在の覚醒剤取締法はユルすぎることが問題で、初犯であっても実刑にすべきという考えを持っています。しかしながら、それと同時に、依存症の人から覚醒剤を断ち切る支援や、また断ち切った人に社会に復活してもらう方法も考えていかなければならないとも思っています。

 覚醒剤取締法違反というのは、殺人やレイプとは犯罪の質が違うのです。覚醒剤取締法で逮捕されたとしても、殺人やレイプのような被害者はいませんし、本人の努力次第では充分に社会復帰することが可能なのです。

 だから、私はこのシャブ中(元)医大生を応援したいと考えています。まずは覚醒剤を断ち切ることに専念してもらいたいと思っています。そして、その後は社会のために貢献してほしいのです。

 これからの努力によっては、もしかすると医師になるよりも多くの人に貢献できるかもしれないのです。決して「エリート人生がシャブで霧散」と決まったわけではないのです。 
 
2005/12/31

29. なぜ日本人の自殺率は高いのかB(最終回)

 「死生学」と呼ばれる学問のジャンルがあります。これは欧米では一般的なのですが、日本では以前に比べると随分マシになったかもしれませんが、まだまだ普及しているとは言えません。例えば、「死生学」を学ぶために大学を目指すという受験生は聞いたことがありませんし、「死生学」で修士論文や博士論文を書いている学生はほとんどいないのではないでしょうか。それどころか、ある大学で「死生学」をテーマとした市民講座を開くという話が持ち上がったとき、地域の住民から反対意見が相次いだそうです。

 医療の現場では「死」に頻繁に遭遇しますが、現代医学というのはいかに「死」を逃れるか、あるいは引き伸ばすかという点からの考察ばかりで、例えば、「残りの生を幸せに生きる」という観点からはほとんど語られることはありません。

 末期癌の患者さんやその家族を対象とした雑誌を見てみても、抗癌剤やリハビリの記事ばかりで、「いかによりよく死んでいくか」という観点からの記事はほとんどありません。「死」を頻繁に経験する医療現場でさえも、「死」はタブー視されているのです。

 日本社会は、昔から「死」をタブー視してきています。タイの社会なら当たり前の、「死体を見る」ということさえタブーとなっています。

 けれども、このことが「死」を適切に捉えることを妨げて、結果として「自殺」につながっているのではないか、私はそのように考えています。「死」は誰にでも起こる避けられない運命であるのは自明です。ところが、その当たり前の「死」をきちんと見つめないことによって、安易と言わざるを得ないような「自殺」を選んでしまっている人が少なくないように思われるのです。

 「自殺の自由」という考えを主張する人がいます。これはこれで正当化されなければならないのかもしれませんし、実際に自殺という道を選んだ人には図りしれない想像を絶するような苦痛があったものと察します。しかしながら、国際比較で異常ともいえるような高い自殺率を記録している日本では、やはり安易に死を選んでいる人が少なくないのではないかと感じずにはいられません。

 ところで、なぜ日本では死体を報道することがタブーとされているのでしょうか。私は当初、死体の報道は法律で禁じられているのではないかと思っていたのですが、私の調べた限りそのような法律はありませんでした。(ご存知の方おられましたら教えてください。)

 法的な制約がないとすれば、世論の圧力が問題となる可能性があるから、死体の報道がなされないのでしょう。おそらく、夕方のニュースで死体がアップで報道されたらテレビ局に苦情が殺到するでしょう。その理由は、例えば「不謹慎である」とか「子供に悪影響を与える」、あるいは「プライバシーの侵害」といったものではないかと思われます。

 しかしながら、「不謹慎である」というのは明確な科学的根拠が見当たりませんし、「子供に悪影響を与える」というのも科学的なデータがありません。漫画や映画、ゲームといったツールでしか死体と接することがないために、逆に「死」というものをきちんと把握できていないのではないかと私は考えています。

 「プライバシーの侵害」というのは確かにあるかもしれませんが、一般に殺人事件が起こると、被害者の生前の写真は公開されています。また、社会的に重要な意味のある事件であれば、公益性がプライバシーを優先するという議論が起こってもいいはずです。

 つまり、死体を報道すべきでない、という考え方は、なんとなく昔からみんなが感じていることに過ぎないわけで、死体を報道することによって社会的混乱が生じるという科学的根拠はなく、むしろ死体を報道することによって、日本人がきちんと死と直面するようになるのではないか、さらに安易に自殺する人が減少するのではないか、と私は思うのです。
 
 前回、タイでは輪廻転生というものが深く社会に浸透しているという話をしました。一方、日本では心底から輪廻転生を信じている人はそれほど多くないのではないでしょうか。自己啓発を目的とした雑誌や書籍に目を通すと、「一度きりの人生・・・」「悔いのない人生を・・・」などといった表現をよく目にします。たしかに、何かを決意するときや頑張らなければならないときにはこういった考え方は有効です。例えば、医学部受験を決意するときには、このように思うことが非常に効果的です。

 けれども、いつもいつもこのような考えでいると、避けられない運命に遭遇したときや、予期せぬ不幸に見舞われたときには、絶望感を加速することになりかねません。そんなときには、「一度きりの人生・・・」ではなく、「何度も生まれ変わる魂が経験するひとつの場面」くらいに思ってしまう方が、強いストレスから脱出できるのではないか、と私は考えています。

 実は、このような考え方をもつにいたるきっかけとなった経験があります。

 それは私が研修医の頃の経験です。ある末期の状態の患者さんと話をしているときのことです。自分でもそれほど長くないことを悟っていたその患者さん(女性)は、ある日私にポツリと言いました。

 「先生、わたしね、もういいんです。もう充分です。そろそろあの世に行くときが来ました。あの世に行けば久しぶりに主人と会えるんです。あの世で会おうって主人が亡くなるときに約束したんです。あの世でふたりで楽しく過ごして、また生まれ変わったら結婚しようねって・・・・」

 輪廻転生なんてあるわけないという人がおられれば質問したいと思います。この患者さんに、例えば「何を言っているんですか。あの世とか生まれ変わるとかそんな非科学的なことを・・・。人生は一度きりです。人間は死んだら終わりなんです!」と言うことができるでしょうか。

 この患者さんが輪廻転生のことをどれだけ真剣に信じていたかは分かりませんが、少なくともこの患者さんにとっては輪廻転生という考えを持つことによって、死の不安が和らぎ、落ち着いた精神状態を保つことができていたのです。

 「一度きりの人生・・・」という考えに縛られすぎると、避けられない運命に遭遇したときに、強いストレスから自殺へとつながることになるかもしれません。配偶者の突然の死や、予期せぬ難病だけでなく、突然のリストラや、厳しい借金の取立てにあったとしても、長い長い寿命の魂が経験するほんの一場面だという認識に立てば、少しは自殺を思いとどまるのではないでしょうか。

 そろそろまとめに入りましょう。

 私が日本人の自殺率が高い理由として考えているものは3つあります。

 ひとつは、日本は「階級社会」ではなく、身分というものを考えることなく生きていける社会でありながら、以前のように国民の多くが中流階級である思っていた時代がすでに過去のものになったことが原因です。よく言われるように「終身雇用」「年功序列」というものが完全に崩壊してしまい、「才能のある者だけがやりたいことをみつけて努力したときにしか幸せが来ない」、というような幻想が存在するように見受けられます。このため、何をやっていいか分からない者は、デュルケームの言うところの「アノミー」の状態に容易に陥り、その結果自殺を選んでしまうというわけです。

 ふたつめは、「一度きりの人生・・・」という観念が強すぎるというものです。例に挙げた仏教だけではなく、キリスト教をはじめほとんどの宗教は輪廻転生というものを認めています。それに対して無宗教の日本人は、この考えを信じていないだけでなく、それが精神状態に寄与する効果についても考えようとしていません。そのため「人生に失敗した」と考えることが自殺につながっているのではないかと思われるのです。

 3つめは、「死」というものをタブー視しすぎているということです。「死」をタブー視するあまり、現実的に適切に「死」を捉えることができず、安易に「死」を選んでしまうというパラドックスが存在するのではないかと思われるのです。
 
 「自殺の自由」を主張するのは個人の「自由」でありますが、日本の自殺率が先進国のなかで第1位であるという現実にはしっかりと注目する必要があるでしょう。

 そして、予期せぬ不幸に突然見舞われたときに、何ができるか、何を思うことができるか、ということについて日頃から考えておくべきではないか、私はそのように感じています。 

2005/12/17

28.なぜ日本人の自殺率は高いのかA 

 タイに行って驚くことのひとつは、日本からは考えられないくらいの階級社会である、ということです。

 例えば、年収何億円もの稼ぎがあり、豪邸に住み高級車を乗り回している富裕層がいるかと思えば、裸足の幼児を抱きかかえながら真夜中に小銭を乞うている中年女性もいます。街角では、そんな身分の違う人たちが、当たり前のようにすれ違っています。

 タイでは一応は小学校までは義務教育ということになっていますが、本当に小学校に通っているのか疑いたくなるような子供は少なくありません。真夜中に小さなバラを外国人に強引に買わせようとしている子供や、信号待ちで停車している車の窓ガラスを勝手に拭いて小銭をねだる子供は、観光名物と言っていいほど有名です。彼らは例外なくボロボロの衣服を身にまとい靴は履いていません。

 タイでは、福祉とか生活保護とかいった考え方がそれほど浸透しておらず、タイにしばらく滞在すれば、日本は本当は社会主義国なんじゃないかと思わずにはいられません。
 
 最近の日本は、「格差社会」という言葉がよく使われているような印象があります(例えば『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』山田 昌弘著 筑摩書房)。親の身分や年収で子供の人生がある程度規定されてしまう、というのが「格差社会」の一面です。例えば、東大に入学する学生の大半が高収入の家庭で育っているというデータもあるそうです。ここから、地方で貧乏な家に生まれると、高学歴・高収入は期待できないという理屈につながっていくようです。

 実際のデータで、親の年収と子供の学歴(あるいは年収)にある程度の相関関係があるのが事実だとしても、私には日本が「格差社会」あるいは「階級社会」とは到底思えません。

 私は地方出身で、裕福でない家庭に育っていますが、公立大学の医学部を卒業しています。私立の高校や予備校には経済的な事情から行けませんでしたが、他の先進国と比べると信じられないくらいに安い授業料(例えば米国の医学部では公立でも年間300万円以上の授業料が必要)と複数の奨学金を借りることによって、特に苦労もせずに卒業することができました。

 また、ほとんどの人が希望をすれば高校程度は卒業することができるでしょうし、高卒であっても、本人の才能と努力次第で高所得者になるのはまったくの夢というわけではないでしょう。

 そんな日本に比べて、タイでは地方の貧困層として育てられれば、将来的に高額所得者になるのはほとんど絶望的であろうと思われます。

 これといった産業がなく、農作物も育たないために蛋白源として昆虫を食べなければならないような家庭で育てられれば、一攫千金を夢見て、男ならムエタイ選手を目指したり、女性なら都心に身体を売りにいかなければならないというのが現状です。

 私がタイの様々な層の人たちと話をして不思議に思うのは、彼ら彼女らがそういう「階級社会」を言わば当然のことと見なしているということです。
 日本的な感覚で言えば、同じ国のなかでそれだけ身分に差があるのは許容しがたいことです。政治的に、左翼的というか、プロレタリアート層が一致団結した運動が起こってもおかしくないのでは、と思うのですがそういう話は聞いたことがありません。

 それどころか、初めから一生貧困層でいることに対して、諦めているというよりむしろ納得しているという印象を受けるのです。先にあげたムエタイ選手や売春の話にしても、極一部の人を除けば、正確に言えば、「一攫千金を夢見て」ではなく、「単に生活するため」、という感覚でいるように思われるのです。

 生まれたときから自分がどういう人生を歩むのかが分かっている・・・。タイの社会とはそんな社会であるように私には思われます。

 しかしながら、ある意味でこれはこれでいい面もあるのではないか・・・。最近私はそのように考えています。というのは、彼ら彼女らは、近代社会がもたらした「自由」の苦痛から解き放たれているからです。

 前回に引き続き社会学者の説を紹介させていただきますが、エーリッヒ・フロムという著明な社会学者がいます。フロムによると、人間は前近代的な諸々の束縛から解放されて (消極的)自由を手にすると、孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると認識するようになります。

 フロムの学説に照らし合わせて考えると、タイの(特に貧困層の)人たちは、近代的な消極的自由を手にしておらず、その消極的自由がもたらす苦痛を感じずにいるのではないか、そしてその結果、極度の貧困であるのにもかかわらず自殺に至らないのではないか、私はそのように考えています。

 これは、前回取り上げたデュルケームが主張している「アノミー」を体験せずにすんでいる、という言い方もできると思います。

 そしてこのことが、タイの自殺率が低い原因のひとつではないかと考えているというわけです。

 ところで、タイは仏教国です。仏教といっても日本のような集約力の高くない仏教ではなく、国民の大多数が信仰している国民的宗教としての仏教です。実際、タイの社会は、仏教、あるいは僧侶なしでは語ることができません。例えば、通常名前は僧侶がつけます。(タイ人は通常ニックネームで呼び合いますが、このニックネームは親がつけます。そしてIDカードに記載されている本名は僧侶がつけるのが普通です。)

 名前だけではありません。例えば車を買う日とか、海外に渡航する日なども僧侶に決めてもらうことが珍しくありません。もちろん結婚式も仏教的儀式でおこないます。「得を積む」という考えはタイにもありますが、基本的な「得を積む」方法は、寺に対してどれだけ貢献するかということです(これを「タンブン」と言います。)もちろん、寺を訪問することを慣習としていますし、街角にある仏像に対しても素通りすることなく手を合わせます。タクシーの中からでも手を合わすのが普通です。これはいかにも信心深そうな人はもちろんですが、普段はやんちゃをしてそうな若い男女でもそうなのです。

 そんな仏教(小乗仏教)の考え方のひとつに「輪廻転生」というものがあります。タイ人は私の知る限り、ほとんど例外なく「輪廻転生」を信じています。

 そして、この「輪廻転生」が低い自殺率と関係があるのではないか、私はそのように考えています。つまり、人生とは自ら得たものではなく、与えられたものであって、運命に逆らって生きるのはよくない。そして自殺は運命に逆らう最たる行動である。今世がそれほど恵まれたものでなくてもきちんと得を積んでおけば、来世では富裕層として生まれてくるかもしれない・・・。そのような考えがあるのではないかと思うのです。

 ちなみに、タイには相続税というものがありません。つまり、先祖が金持ちであればよほどのことがない限り、子孫も裕福な暮らしができるというわけです。そして、相続税を導入すべき、という声は私の知る限り聞いたことがありません。

 「輪廻転生」への信仰、これが私の考えるタイで自殺率が低いふたつめの理由です。

 もうひとつ、タイ人が自殺をしない理由を私は考えています。

 それは、死体に対する考え方です。バンコクには有名な「死体博物館」というものがあり、多くの死体が展示されています。例えば、凶悪殺人犯が死刑にされた後の死体が、輪切りにされて多くの人の目にさらされています。また、私がいろんなところで報告しているエイズホスピスのパバナプ寺では、エイズで亡くなった人の死体がミイラにされ展示されています。また、タイの新聞やテレビのニュースでは、ほとんど毎日といっていいくらい、事件や事故での死体の映像が報道されています。

 タイ人が日本に来て驚くことのひとつに、日本の新聞やテレビでは死体が写されていない、というものがあるそうです。死体が写されていないと、その事件や事故がよく分からないではないか、と感じるそうなのです。

 凶悪殺人犯の死体を輪切りにすることの良し悪しは別にして、たしかに日頃から死体を目にする機会が頻繁にあれば、嫌でも「死」というものを考えるようになるはずです。

 それに対して、日本では昔から「死」というものが、タブー視されてきているのではないでしょうか。
 
 つづく 
 
2005/12/02

27.なぜ日本人の自殺率は高いのか@ 

 私が初めて学問的に「自殺」というテーマに興味を持ったのは、社会学部の学生の頃です。社会学部を学んだ者なら誰でも知っているデュルケームという学者がいるのですが、そのデュルケームの代表著作が『自殺論』なのです。

 「自殺」までも学問の対象にする社会学とはなんて魅力的なんだろう・・・。当時の私はそのように感じて、必死にデュルケームの『自殺論』を勉強しました。

 デュルケームの理論は、発表してから100年以上たった現在でも、尚正しい理論ではないか、私はそのように考えています。今回取り上げたいテーマは、「日本人の自殺率の高さ」であるのですが、このことを考える際にも、デュルケームの理論は参考になるのでは、と思うので、少し触れておきたいと思います。

 デュルケームは、冬季よりも夏季に、カトリックの国よりもプロテスタントの国で、女性よりも男性において、既婚者よりも未婚者において、農村よりも都市において自殺率は高くなると言います。

 現在の日本の自殺の状況をみてみましょう。まず、季節ごとのデータは私の調べた限りありませんでした。また、宗教別の考察は日本はキリスト教がそれほど深く浸透していないために日本にあてはめて考えることはできません。

 しかしそれら以外の要素、つまり、女性よりも男性に、既婚者よりも未婚者に、農村よりも都市に、自殺者が多いというのは、現在の日本にも当てはまります。

 デュルケームは「自殺」を4つに分類しています。

 ひとつめは、「利他的自殺」と呼ばれるもので、自殺せざるを得なくなるような集団の圧力によって起こる自殺のことです。具体的には、社会の秩序を乱したとか、ルールや掟を破ったときにのしかかる社会的圧力から死を選ぶような場合です。現在でも、例えば暴力団の組員が組織の掟を破って責任をとるために自殺、というようなことはあるかもしれませんが、現代日本においてはそれほど多くはないでしょう。

 ふたつめは、「利己的自殺」と呼ばれるもので、 孤独感や焦燥感などエゴイスティックなものによって起こる自殺のことです。これは現代日本では若い世代を中心にあり得るものと思われます。ただ、最近の統計も含めて日本では、若い世代よりも中年から老年の自殺が多いのが特徴ですから(日本では55歳から64歳で最も自殺率が高い)、このタイプの自殺は日本では多くはありません。

 三つめは、「アノミー的自殺」と呼ばれるもので、社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態において起こる自殺のことです。自由のもと、自分の欲望を抑えきれずに自殺するというイメージです。

 この「アノミー」という言葉は、デュルケーム自らが提唱した概念で、社会秩序が乱れ、混乱した状態にあることを指します。社会の規制や規則が緩んだ状態においては、個人が必ずしも自由になるとは限らず、かえって不安定な状況に陥るとデュルケームは言います。彼によると、規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとってよいことではないのです。

 私が社会学を勉強していた80年代後半にも、日本はバブル経済に突入し、このような状態にあるのではないかと言われていました。デュルケームはなにも不景気のときだけに自殺率が上昇するのではなく、景気の急上昇期、大繁栄の時代にも自殺者が急増するということを示しています。この点が当時に私には非常に衝撃的でありました。

 しかしながら、結果的にはバブル経済の頃の日本の自殺率はそれほど高いものではありませんでした。

 一方、バブル経済が破綻し、不景気に突入しだした頃から自殺率は上昇しています。そして失業率が極めて上昇しだした1998年から現在まで毎年3万人前後の人が自ら命を絶っています。日本の自殺率の推移は失業率と明らかな相関関係があるのです。

 失業率が急上昇したのは、不景気そのものもさることながら、以前から崩れつつあった終身雇用がドラスティックに崩壊したり、正社員の雇用が大幅に減少し、代わりに契約社員やフリーターが一般化したりしたこともその一因です。一方では、IT企業に代表されるような若者のミリオネラーが次々と誕生し、一部の者に大金が集中しています。

 このような現在日本の状態は、まさにデュルケームの言う「アノミー」ではないでしょうか。

 デュルケームが唱えた4つめの自殺は「宿命的自殺」と呼ばれるもので、閉塞感など欲求への過度の抑圧から起こる自殺のことです。これは、アノミー的自殺の亜種と類型でき、社会的混乱から生じた閉塞感などが自殺につながることは容易に想像できます。現代日本の社会混乱(アノミー)に上手く対応できず閉塞感を感じている人は少なくないでしょう。

 さて、デュルケームの考察はこれくらいにしておいて、今度は医学的な観点から日本人の自殺を考えて生きましょう。

 日本で自殺者が多いのは、確かに失業者の増加や不景気と相関がありますが、実は日本の自殺の原因の第1位は「病気による苦悩」です。慢性の病気や不治の病に耐え切れず、さらにおそらく家族に負担のかかることを懸念した人たちが自ら命を絶っているというわけです。

 どのような病気が自殺へとつながるかという点についてはデータがありませんが、最近デンマークの学者が発表した興味深い論文(Archives of Internal Medicine(2004; 164: 2450-2455))をご紹介したいと思います。

 この論文によりますと、シリコン豊胸術後の女性の自殺率が有意に上昇しているそうなのです。豊胸術を受ける女性は以前から精神的な悩みを抱えており、それが自殺と関係があるのではないかと、この論文では述べられています。

 これは日本のデータではありませんが、今後日本における自殺を考える際の参考になるかもしれません。

 次に自殺率の国際比較をみてみましょう。

 日本の自殺率は世界第10位です。しかし、1位から9位は旧ソ連や東欧の国ばかりで、いわゆる先進国のなかでは日本は第1位です。

 世界全体に目を向けてみると、明らかに自殺率の低いのが南米です。以前どこかで「自殺をしたくなったらブラジルに行け!」という言葉を聞いたことがあります。ブラジルに行けば、自殺を考えていた自分があほらしくなるそうなのです。

 また、すべての国でデータが揃っているわけではありませんが、中東諸国も低い国が多いようです。(連日のように新聞で報道されているイスラム教徒の「殉死」はどのように解釈すればいいのでしょうか。)

 アジア諸国はどうかというと、これはバラバラです。日本以外ではなぜかスリランカの自殺率が高いようです(11位)。また、韓国(24位)、中国(27位)、香港(31位)もまあまあ高いと言えます。(台湾はデータがありません。) 中国では、農村部の女性の自殺率が高いのが特徴で、旧態依然の、女性を大切にしない風潮が原因なのかもしれません。
 
 一方、タイ(71位)とフィリピン(83位)では、南米と同様に極めて自殺率が低いようです。タイは人口10万人あたりの自殺者数が4.0人で日本の6分の1以下です。

 私はフィリピンには行ったことがありませんが、タイには何度も訪問しています。親密な付き合いをしているタイ人も何人かおり、ある程度タイの文化に触れていると言えるかもしれません。

 世界第10位、先進国のなかでは第1位にランキングされ、一応は仏教徒である日本人に対して、同じアジア人であり、仏教徒であるタイ人は世界的にみて自殺率が極めて少ないのはなぜなのでしょうか。

 私は、これに対して一応の仮説を持っています。次回はその仮説について述べてみたいと思います。

つづく 
 
2005/11/15

26.後医は名医?!

 「後医は名医」という言葉を聞かれたことがあるでしょうか。

 これは、我々医師がよく使う「ことわざ」のような言葉で、「同じ患者さんを診るなら、後から診た方が名医になれる」というものです。

 例えば、ある患者さんがA診療所を受診したとしましょう。その患者さんはその診療所で診察を受け、薬を処方されたのにもかかわらず、一向にその病気は治りそうにありません。

 そこで、この患者さんは次にB診療所を受診したとします。患者さんは、A診療所に行って薬を処方してもらったことを話しました。すると、B診療所では別の薬が処方されました。その薬を飲みだすと、一気に症状が消失しました。

 ここで、この患者さんはどのような印象を持つでしょうか。

 「A診療所はヤブ医者で、B診療所が名医だ」と思われるのではないでしょうか。
 しかし、これにはトリックがあります。

 まず、ひとつめは、この患者さんの症状は、薬に関係なく、自然に治った可能性があります。つまり、A診療所の処方もB診療所の処方も特に効いたわけではなく、患者さんの自然治癒力で勝手に治っていたということです。

 次に、B診療所では、すでにA診療所で処方された薬が無効であることが分かっているために、次の手をうちやすかった、ということが言えます。疾患にもよりますが、実は患者さんの多くが想像されている以上に、現在の日本においては、各疾患(症状)に対する治療法が標準化されています。

 つまり、この病気では、通常は最初にA診療所で処方された薬剤が標準的で、その薬剤で効果がなかったときに初めてB診療所で処方された薬剤を使用する、ということがある程度確立されている、ということがあるわけです。

 さらに、この患者さんがB診療所を受診したときに、A診療所を受診したときには見られなかった症状が出現していた、という可能性もあります。つまり、最初、この患者さんがA診療所を受診したときには、熱だけしかなかったけれど、B診療所を受診したときには、熱プラス特有の皮疹が出現しており、そこから、B診療所では適切な診断がつけられた、ということが考えられるわけです。

 このように、後から診察する医師の方が、その疾患を適切に診断するのに有利になることはよくあるのです。

 患者さんのなかには、最初近くの診療所を受診して、なかなか治らないために、大きな病院に行って、そこでの治療を受けた結果よくなった、という経験をされている方がいますが、こういう経験のある人に言わせると、「やっぱり診療所よりも大病院の方が信頼できる」、となるわけです。

 例をあげて説明いたしましょう。

 川崎病と呼ばれる小児の病気があります。この病気は現在でも原因不明なのですが、発症すると入院治療を余儀なくされ、完治するまでに時間がかかることもある、場合によっては難儀な病気です。

 この川崎病という病気は、最初熱が出て、そのうちに全身のリンパ節が腫れだしたり、目が充血したり、舌が真っ赤に腫れあがったり、全身のいろんなところにいろんなタイプの皮疹が出現したり、と様々な症状が出現するのが特徴です。

 最初に熱が出たときに、「この熱は川崎病によるものです」と断言できる医師など世界中にひとりもいません。なぜなら、川崎病という病気は、いろんな症状が出現してから、総合的に診断をつける病気だからです。

 通常、子供が高熱を出せば、ウイルスや細菌による急性感染症を疑います。かなりの高熱が出現していれば、細菌感染を疑い、抗生物質を処方することになります。ところが、川崎病では抗生物質がまったく効きません。

 心配したこの子供のお母さんは、この診療所では治らないのではないか、と考えて大きな病院を受診することがあります。

 そして、その頃には熱が出てから数日たっていることもあり、皮疹や充血などが出現しているのです。この患者さんをみた大病院の医師は、川崎病を疑い、すぐに入院させて点滴治療をおこなうことになります。

 すると、お母さんとしては、「さすが大病院。すぐに病名を言ってくれたし、入院、点滴と適切な対応をしてくれた。それに比べて最初に行った診療所では、病名も分からないし、出した薬は効かないし、もう二度と行きたくない」、となるわけです。

 私が、ある病院の小児科にいた頃、こういうケースが多々ありました。

 しかしながら、もちろんこのお母さんの感じていることは必ずしも正しい、とは言えません。

 最初にみた診療所の医師も、子供をみる以上は、常に川崎病のことも念頭に置いているはずです。しかし、川崎病に比べて、高熱が主症状の風邪の方が圧倒的に頻度が高く、熱の患者さんすべてに、川崎病の話をするのは適切ではありません。かえって余計な不安を与えることにもなりかねません。

 診療所の医師としては、「まずは普通の細菌感染を疑って抗生物質を飲んでもらおう。それでも効かないときは抗生物質を変更するとか、あるいは他の症状が出現したら、(川崎病も含めて)他の疾患を鑑別しよう」、と考えているのです。

 ところで、我々医師のルールのひとつに「前医を批判しない」というものがあります。これは、医師はお互いに尊敬し学びあうべき、という倫理的な観点から生まれたルールでありますが、実際的には「後医は名医」となってしまうことが頻繁にあることを知っているからです。

 そもそも、最初の現場にいない人間が、あとからとやかく言うのはアンフェアであるわけで、たとえ結果として、最初の診断が間違っていたとしても、そのときのその状況ではそう診断せざるを得なかった可能性もあるからです。

 ですから、安易に前医を批判する医師というのは、私は信用できません。

 先日、あるテレビプログラム(民放)を見ていると、医師が登場して、ゲスト出演者の質問に答えていました。そのゲスト出演者は、ある症状である病院に行って治療を受けたけど治らなかった、ということを話しました。すると、その医師は、「その医師の診断が間違っているのです。病院選びは正しくおこないましょう。私なら誤診はしません。」というようなことを言っていました。

 これほど、傲慢な医師もいないでしょう。普通なら、そのときはそのように診断した根拠があったはずだ、と考えます。もちろん、最初の診断が間違ったために、とりかえしのつかないことになった、というような事態になれば問題ですが、通常、医師というのは、病態の重症化や急変の可能性のことも考えて、診察をおこないます。

 おそらく、その診察医も、まずはこの治療をおこなって、それで効果がなければ次に進もう、と考えていたはずです。それをきちんと患者さん(このゲスト出演者)に伝えていなかったところに非はあるかもしれませんが、それにしても、「前医の診察が間違っている」と断定するのは問題です。

 こういった発言をする医者のせいで、医療不信が加速されているのではないか、と私は考えています。このテレビプログラムを見ていた人の多くは、「そうか、医師の診断力はバラバラだから、いい病院を受診しなくてはならないんだな」というふうに感じられたことと思います。

 けれども、そうではなくて、この出演医師のような、「前医を安易に批判するような医師」の方がよほど問題があるわけです。

 モノを売る人のセールストークがライバル会社の悪口中心であれば、イヤな気持ちにならないでしょうか。それと同じで、同僚を安易に批判することによって、自分の価値を高めようとする医師は決して名医ではないのです。 
 
2005/10/27

25.日本の医師はこれだけ不足している!!

 2005年9月22日、財団法人社会経済生産性本部が、「国民の豊かさの国際比較」を発表しました。発表によりますと、日本は、経済協力開発機構(OECD)加盟30カ国中、総合で第10位にランクされたそうです。2004年には総合第14位だったために、4ランク上昇したと喜びの声がある一方で、詳細を見渡すと決して楽観はできないという慎重論があるようです。

 この国際比較の項目のなかには、健康指標というものも含まれており、健康指標だけでは第8位です。ここでは健康指標に含まれる項目を少し詳しくみていきたいと思います。

 まず、平均寿命の長さでは第1位、人口当たりの病院ベッド数は(多い順に)第2位、乳児死亡率(少ない順に)第3位、人口あたりの死亡者数(少ない順に)第9位、国民ひとりあたり健康支出(多い順に)第17位、国民ひとりあたり公的健康支出(多い順に)第14位です。そして、人口あたりの看護師数は(多い順に)第19位、人口あたりの医師数は(多い順に)、なんと30カ国中、27位です。

 平均寿命やベッド数が世界のトップに位置していながら、医師数が下から4番目の低さであるというのは、つまるところ、ひとりの医師がたくさんの患者さんをみていて、なおかつ質の高い医療を供給しているということになります。今回の社会経済生産性本部の発表では、医師の平均勤務時間は発表されていませんが、もしもこういう統計がとられたなら、日本の医師の勤務時間の異常なほどの長さが浮き彫りになったに違いありません。(先日の国勢調査では、1週間の勤務時間を書く欄がありましたが、私は117時間でした。)
 
 日本の医師数が少なすぎるというのは、こういった統計をみても明らかです。

 しかしながら、日本の厚生労働省は1990年代後半あたりから、医師数を抑制すべきであるという主張をし続けてきました。具体的には、2020年を目途に医学部の定員を10%削減するという目標を掲げていました。実際、私が医学部在学中の頃から、○○大学医学部は何年後かになくなる、とか、△△大学医学部と××大学医学部は近いうちに統合される、などという噂がとびかっていました。

 私は、自分の本のなかでも繰り返し主張していますが、医師数が多すぎるということは絶対にありません。こんなこと、自分の身の周りをみれば明らかです。患者サイドから考えてみても、大病院はもちろん、診療所を受診しても、長時間待たされたあげくに、数分間の診察というのは珍しくありませんし、医師サイドからみても勤務時間が長すぎるのは明らかです。

 では、こういう現実がありながら、なぜ厚生労働省は医師を抑制すべきだという主張を続けてきたかというと、それは、少子化と高齢化社会、人口減少から、徴収できる税金と保険料は頭打ちになり、それでは、医師の給与の現状維持ができないからに他なりません。

 厚生省と同様、医師数抑制を主張し続けてきた日本医師会によれば、「医師が過剰になれば、粗製乱造で医療の質の低下を招くとともに、医師の失業につながりかねない」、そうです(asahi.com 2005年3月12日)。

 果たして本当にそうでしょうか。本当に医師が過剰、というか、他の先進国並みになれば、医療の質の低下を招くのでしょうか。

 少なくとも、睡眠不足から判断力の低下をきたすことはなくなるでしょう。最近発表されたアメリカの論文によりますと、睡眠不足の医師はアルコールを飲んでいるのと同程度に判断力が鈍るというデータがあります。

 また、医師が増えれば、医師ひとりあたりが診る患者さんの数が少なくなり、患者さんひとりひとりにじっくりと取り組めることになります。現状では、入院患者さんのところに行くのが1日に一度だけであったり、また外来では、積み上げられたカルテを横目で見ながら、目の前の患者さんを早く終了させることを考えなければならないということが日常茶飯事なのです。このような診察をして、病院の経営者は喜ぶかもしれませんが、我々医師にとっても、患者さんにとっても、お互いあるべき姿ではないのです。

 もうひとつ日本医師会が主張している「医師の失業」という問題についても、いったん医師になれば失業はない、という現状の方がよほど問題があるわけで、医師免許をいったん取得すればそれで安泰などと考えている医師がいるとすれば、このことこそが、日本の医療のレベルを低下させることになるのではないでしょうか。

 厚生労働省の「医師数を抑制する」という主張は、どこからどう考えても納得のいかないものです。

 しかしながら、最近になって、ようやく厚生労働省も現実を見始めたようです。新研修医制度の導入とともに、大学の医局には新しい医師が二年間は入局できなくなり、このため多くの医局で人手不足が深刻化しました。特に痛手を被っているのが、産婦人科と小児科で、この2つの科は従来から相対的に人が足らなかったところに、新研修医制度が導入され、結果として関連病院から医局員を引き上げることになり、その結果、その関連病院では産婦人科や小児科をやめざるをえなくなったのです。

 産婦人科については、この傾向が特に顕著で、昨今の医事紛争の増加も重なり、総合病院で産婦人科を標榜するところが全国的に激減してきています。例えば、関西のある中堅都市(人口約27万人)では、ついに出産のできる総合病院がなくなってしまいました。その市では産科を標榜している個人病院が3つだけになり、この市で出産しようと思えばその3つの個人病院に行くしかないのです。これではとうていベッドが足りませんし、例えば喘息や高血圧などを持っている、本来高度医療のおこなえる総合病院で出産すべき妊婦さんはその市では出産することができないのです。

 小児科不足も深刻です。例えば、関西のある総合病院は夜間に小児科の救急外来をおこなっていますが、その地域には、他に夜間に子供をみる病院がないために、多い日では一晩に100人もの患者さんを診なければならないのです。ひとりの小児科医が一晩で100人です。もちろんその小児科医は翌日の朝から通常業務が待っています。この状態で、一晩に100人の患者さんを、的確な判断力をもって、まったくミスをすることなく診察し続けることができるでしょうか。

 産婦人科、小児科以外に深刻なのが麻酔科です。麻酔科医が不足しているために、本来麻酔科医が麻酔をすべき症例に対し、外科医が執刀をしながら麻酔をかけるということが、日本の医療現場ではごく普通におこなわれています。

 他の領域においても、地方に行けば医師不足は深刻です。医師が不足し、存続が危うい病院は少なくありませんし、どこの病院にいっても、数少ない医師が多くの患者さんを診なければならないわけですから、当然医療の質は低下します。

 厚生省は最近になって、ようやく「医師数抑制」の方針を見直すようになりましたが、医学部の定員を増やすという議論にはなっていないようです。

 私は自分の本で主張しているように、医師の数は現在の倍くらいにすべきだと考えています。そうすれば医師側にとっても患者側にとっても、今よりははるかに満足度の高い治療ができるに違いありません。

 こういうことを言うと、では財源はどうするのか、という反論が必ずでてきますが、その答えは簡単なことです。

 医師の数を倍にする代わりに、医師の給与を半分にすればいいのです。よく、「医師が儲けているというのは幻想であって、実際は一部の開業医を除けば、特に勤務医などは安い給与でこきつかわれている」などという人がいますが、これは間違いです。

 先日も、あるテレビ番組で、医師(勤務医)が登場し、「私の給与は1000万円しかないんですよ」と言っていましたが、1000万円を少ないと思っていること自体が異常です。

 ちなみに、民間企業に勤める人が2004年一年間に受けとった一人あたりの平均給与は439万円です(日本経済新聞2005年9月29日)。この医師は、世間の人々がどれくらいの給与を貰っているのか知っているのでしょうか。知っていれば、こんな無神経な発言はできるはずがありません。医師の給与は、その439万円の中から徴収される税金と保険料でまかなわれているのです。こういう発言をする医師がいる限り、医師は世間知らずと言われても仕方がないでしょう。医師は新聞すら読んでいないということなのですから。

 もっとも、医師不足のために勤務時間が長くなりすぎ、新聞を読む時間すらない、ということなのかもしれませんが・・・・。
 
2005/10/15

24.「クスリ」を上手く断ち切るには C(最終回)

  これまでに、私が述べてきたことをここで確認しておきましょう。

・違法薬物はやらないに越したことはないが、必要と感じている人もいる理由は理解しなければならない。

・その理由とは、人間は「日常」だけでは生きられずに、「非日常」の時空間も必要であり、「クスリ」は簡単に「非日常」を体験できる、というものである。

・「非日常」の時空間が特に必要になるときというのは、人生のどん底に沈んでいるとき、自暴自棄になっているとき、あるいは、「クスリ」のリバウンドで苦しんでいるとき、なども該当する。

・「非日常」を適切に体験できればそれは素晴らしいことであるが、現代社会では必ずしも容易なことではない。そのため、医療機関を受診するのもひとつの方法である。

 さて、「あたしって、非日常をうまく体験できないから、先生助けて〜」と言って医療機関を受診するわけにはいきません。そんなこと言っても、私以外の医師は「???」となるに違いありません。

 けれども、私の言う「日常/非日常」というのは、実は社会学では常識的な考えです。これまでも多くの学者が提唱してきています。「日常/非日常」という言い方は、場合によって、「ハレとケ」であったり、「労働(生産)/祝祭」であったり、「過剰/蕩尽」であったりします。

 もう少し解説いたしましょう。人間は、生産活動をするようになってから、モノを過剰につくるようになりました。食べる分だけ生産すれば事足りるはずなのに、それ以上のものをつくります。そして、ある一時期に、それら過剰なものを一気に消費するのです。これは一見非合理なように見えます。なにも努力して余計なものをつくって一気に消費しなくても、初めから余計なものなどつくらなくてもよさそうに思われるからです。

 けれども、例えば、お祭りのときは、普段口にしないような料理や酒を、絶対に食べられないほど大量に用意して、ドンちゃん騒ぎをします。普段はご法度のケンカやナンパもお祭りのときは誰もとがめません。年に一度、それまで住民が一生懸命作り上げた建物をみんなで壊す習慣のある地域も世界にはあります。日本でも、岸和田のだんじり祭りや青森のねぶた祭りでは、勢いあまって建物が壊れたり怪我人が出たりすることも珍しくありませんが、誰もとがめたりしないのです。
 祝祭や儀式があるような文化では、住民が自然に「非日常」を体験できて、「健康に」過ごせるというわけです。おそらく、こういう文化を心底楽しめるような人は、「クスリ」が必要になることはないのではないかと私は考えています。(もっとも、バリ島の伝統的な祝祭のように、儀式で「クスリ」を用いるということはあるでしょうが・・・。)

 理由はともかく、人間は「日常」と「非日常」をうまく使い分けてきた、というのが社会学の考え方です。そして、現在でも周りを見渡せばこういう現象は見受けられます。

 例えば、毎日早朝から深夜まで休みなく長期間働き、ようやく仕事が一段落すると、ハメを外して遊びたくなります。普段真面目でおとなしい人が、飲み会で人柄が変わるというのもよくあります。またコツコツ貯金をしてやりたいことを我慢していると、あるとき一気に消費してしまうものです。

 もうひとつ、強烈な「非日常」を紹介しましょう。それは「恋愛」です。恋愛といっても、例えば長年寄り添っているカップルや夫婦の恋愛は「非日常」でなく「日常」になってしまっています。そうではなく、例えば、恋愛の初期というのは、突然それまでの「日常」になかったドキドキするものが舞い込んでくるわけですから、これは「非日常」になるわけです。また、周囲から反対されている恋愛や、不倫や浮気のようなかたちの恋愛も「非日常」になるでしょう。駆け落ちを考えているカップルが、世間の常識からはずれた行動を取るのは、まさに「非日常」の真っ只中にいるからです。

 だから、長年連れ添った配偶者よりも、新しい浮気相手に夢中になるのは、ある意味では当然のことなのです。「日常」に退屈していたところに、突然魅力的な「非日常」が舞い込んできたわけですから・・・。(念のために言っておきますが、私はこのような恋愛を奨励しているわけではありません。むしろ、恋愛の非日常性を理解していれば、二人で何らかの「非日常」を見つけることによって、恋愛を長続きさせることができるのではないかと考えています。)

 一般的には、「のむ・うつ・かう」というのが、「非日常」の典型であるかもしれません。だから、「のむ・うつ・かう」というような行為をうまくおこなえる人というのは、社会学的には(私に言わせれば医学的にも)健全であるのです。

 しかしながら、複雑な現代社会では、近代以前のような祝祭というのは地域にもよりますが、それほど期待できませんし、モノをつくって壊すという行動も簡単にできるものではありません。また、「のむ・うつ・かう」などという行動も、環境によってはむつかしいでしょうし、そうそう新しい恋愛や危険な恋愛をおこなうわけにもいきません。

 では、どうすればいいのかというと、これは自分で考えるしかありません。一般的には、スポーツ、旅行、音楽、買い物、などがいいのでしょうが、自分でいろんなことを試行錯誤してみて見つけていく他に方法はありません。

 そして、うまく見つけられなかった場合には、人生のスランプがやってきます。ちょっとしたトラブルやストレスにも上手く対処できなくなってしまいます。そして気分は沈みがちになり、何をやっても上手くいかなくなります。
 
 さて、そろそろ話しを戻しましょう。うまく「非日常」を体験できない場合、医療機関を受診するのもひとつの方法であると私は言いました。もちろん、医師にむかって、「先生、非日常を体験させてください」というわけにはいきません。

 では、どうすればいいかと言うと、気分がすぐれずに、人生のスランプであることをそのまま訴えればいいのです。あるいは、薬物をやめたいがリバウンドで苦しんでいるということを言えばいいわけです。

 そして、医師は話を充分聞いた上で、必要であれば、薬剤を処方することになります。向精神薬と言えば、何か恐いものというイメージをもたれている人もおられますが、そんなことはありません。当たり前の話ですが、違法薬物なんかより遥かに安全です。
 
 例えば、「プロザック」という薬剤があります。これは「SSRI(Selective Serotonin Reuptake Inhibitorsの略、これを和訳すれば、選択的セロトニン再取り込み抑制剤、となる)」というクスリのひとつで、別名「ハッピードラッグ」と呼ばれています。抗うつ薬の一種ですが、従来の抗うつ薬に比べ副作用が少なく、医師の処方箋がなくても買える国もあるくらいです。アメリカには2000万人以上のプロザックユーザーがいると言われており、サラリーマンやOLが出勤前に飲んでいるそうです。日本でもインターネットを通して個人輸入して使用している人はかなりの数に上ると言われています。

 「プロザック」は、日本ではなぜか販売されていませんが、同じ効果のある「SSRI」がたくさんあり、どこの医療機関でも処方してくれます。

 「SSRI」だけではありません。抗不安薬やSSRI以外の抗うつ薬も作用の軽いものから、それなりに作用の大きいものまでたくさんの種類があり、必要に応じて医師は処方をおこないます。もちろん、安易に使用するものではなく、ある程度長期的に医師の管理のもとで服用する必要がありますが、充分に効果が期待できます。

 実際に、私がみた患者さんで、長年覚醒剤を断ち切れずに自殺未遂までしたけれども、SSRIのみで(しかも少量で)完全に社会復帰を遂げ、元気に働くようになり新しい恋人までできたという例もあります。

 抗不安薬を使用して、ストレスを感じなくなり、一度やめた仕事を復活させたという患者さんもおられます。

 頭のかたい昔の人は、「何がストレスだ!何が不安だ!何が退屈だ!」などと言って、現代人が「クスリ」が必要な理由を分かろうとしません。違法薬物を使用するのは、社会からドロップアウトしたやつらだ、などと決め付け、普通の女子高生や、サラリーマンや主婦がドラッグに手を出している現実を見ようとしません。彼らには、複雑な現代社会の構図が読めていないのです。

 私は、「現代社会に住む誰もが向精神薬を服用すべきだ」と言っているわけではありませんし、使用するには必ず医師の指導のもとでおこなう必要があると思っています。

 けれども、「非日常」を求めて違法薬物に手を出す前に、あるいは違法薬物から断ち切るために、いくつかの向精神薬は非常に有効である、ということを主張したいのです。 

2005/09/30

23.「クスリ」を上手く断ち切るにはB(全4回)

 これまで、覚醒剤、麻薬、大麻、MDMAと、違法薬物をみてきました。残りを簡単に片付けておきましょう。

 「マジックマッシュルーム」というキノコが一時大量に出回りました。このキノコは、幻覚が見られるというのが特徴で、例えばバリ島の伝統的な儀式などでは今でも使われているそうです。大量に出回った最大の理由は、最近まで合法であったからです。合法であったといっても、それは取り締まる法律がなかったからであって、危険性は以前から指摘されていました。そして、2002年の6月に、麻薬取締法のなかの指定薬物に入れられたというわけです。

 麻薬取締法について簡単にみておきましょう。この法律は、正確には「麻薬及び向精神薬取締法」といい、そこで指定されているのは、狭義の麻薬であるヘロインやモルヒネだけではなく、コカインやLSD、その他医薬品として扱われている向精神薬の一部が含まれます。そして、マジックマッシュルームもこのなかに加えられたというわけです。

 しかし、マジックマッシュルームが違法になってから、急速に別の薬物が普及しだしました。それらは、「合法ドラッグ」と呼ばれるもので、麻薬取締法やその他の薬物を取り締まる法律では規制できないものです。これらは、違法とされている物質を少し変化させるだけで、取り締まる法律がなくなり、合法となりますから、堂々と販売されていたというわけです。

 これでは、いくら法律を増やしても「いたちごっこ」になります。そこで、2005年の4月から、麻薬取締法が改正され、これまで合法ドラッグとされていたものも「麻薬に類似するもの」となり規制の対象となりました。

 これで、依存性や中毒性のあるすべての薬物が違法となったわけです。
 
 もうひとつだけ、違法薬物について述べておきましょう。

 それは、「シンナー」です。日本でよく問題になるのは「トルエン」で、純度の高いものは通称「純トロ」と呼ばれています。これは「毒物及び劇物取締法」で規制されています。シンナーは、他のどんな薬物よりも簡単に手に入りますから、ついつい手をだしてしまう機会が多いかもしれません。しかし、シンナーは、短期間に視神経、呼吸器、循環器に障害ももたらし、そのうち脳細胞も障害されることになります。

 シンナー中毒で死亡する中学生の報告もそう珍しいことではありません。一方、中学生に常用者が多いのに対し、成人してからシンナー中毒になるという人はそれほど多くありません。比較的短期間で致死的な状態になる恐ろしい一面を持つ一方で、依存性が他の薬物に比べればそれほど高くないのがその原因だと思われます。

 さて、これまで違法薬物をざっとみてきましたが、私がお話したいのは、それらの危険性だけではありません。

 人間が「クスリ」を欲しがるのには理由があるわけで、やみくもに正論を振りかざし、「違法薬物はやめましょう」と言ってみても何も始まらないのです。どれだけ説得力があるかは分かりませんが、私なりの薬物対処法をお話したいと思います。

 まず、避けられるのであれば避けるに越したことはありません。一度やって味を覚えてしまうと、そう簡単には抜けられません。麻薬はもちろん、覚醒剤やMDMAでも、一度やってしまったばかりに、断ち切るのにかなりの苦痛と苦労を強いられたという人は少なくありません。

 タバコを吸う人なら、禁煙をすることがどれだけ大変かが分かるでしょう。麻薬は論外ですが、覚醒剤でもそのタバコの数十倍の苦痛が伴うと言われています。禁煙の数十倍の苦痛・・・。こう考えると、安易に覚醒剤に手を出しにくくなるのではないでしょうか。
 
 次に、避けられない状況があったと仮定しましょう。若い世代の間では、「今日は、みんなホンネで話そうね」、などと言って、覚醒剤パーティをおこなうことが少なくないそうです。たしかにみんなで覚醒剤を使うと、全員がハイテンションになり、普段言えないようなことも言えるようになるかもしれませんし、絆が深くなることもあるかもしれません。

 そんなとき、自分だけ「あたしはやめておくね」などということが言えるでしょうか。(このようなプレッシャーのことを「同調圧力」、または「peer pressure」と呼びます。)

 では、このようなケースではどうすればいいのでしょうか。答えになっていないかもしれませんが、周囲の空気が変わろうとも、自分だけ仲間はずれにされようとも、「自分はやらない!」と言うことが必要です。

 長期的にみれば、薬物をやらないという選択が絶対的に正しいわけです。たとえ、そのときのメンバー全員にシカトされようが、友達をなくそうが、世界の大部分の人は、自分の意思を貫いて薬物をやらなかったあなたの勇気に感動するはずです。長い人生のなかで、一度や二度、すべての友達を失ったとしても、自分の信念を通すことの方が大切なのです。それに、それを契機に疎遠になった友達がいたとしても、いずれ、あなたのあのときの勇気の意味が分かって、相手の方から近寄ってくるものです。

 だから、周囲のプレッシャーに負けない、自分の強い意志が求められるのです。

 人生のどん底に沈んでいたり、何かが原因で自暴自棄になっていたりするときに、ふと目の前に違法薬物があった場合にはどうすればいいのでしょうか。周囲のプレッシャーに負けないような強い意志が普段は持てたとしても、自分の精神状態がまともでないときには、そんな理性は保てません。生きる望みを失っているようなときには、強い意志はどこかに消えてしまっているものです。

 しかし、これには解決法があります。

 それは、薬物に手を出す前に、医療機関を受診するということです。人生のどん底に沈んでいたり、自暴自棄になっているとき、というのは、人間なら誰でもあることだとは言え、正常な状態ではありません。これは、風邪は誰でもひくけれども、風邪をひいているときには正常ではない、というのと同じようなことです。精神状態がすぐれない、というのは、決して珍しい異常ではないのです。

 だから、わざわざ敷居の高い専門の精神科を受診する必要はありません(もちろん受診してもかまいませんが)。自分のかかりつけ医でいいわけです。もちろん、症状が重症で、入院などのより専門的な治療が必要な場合もあるでしょうが、その場合でもかかりつけ医に紹介状を書いてもらえば、すみやかに最良の治療が受けられます。

 何らかの理由で精神状態が正常でないとき以外にも、病院を受診するのが得策であるときがあります。それは、「一度やってしまった薬物を断ち切りたいとき」、です。この場合、例えば覚醒剤が切れたときに、リバウンドはかなりの苦痛を伴います。他人からみれば廃人にしかうつらないようなときもあります。そんな状態では、まともに物事が考えられませんし、手を伸ばせば届く範囲に薬物があれば、再び手を出すのも時間の問題でしょう。

 そんなときこそ、医療機関を受診するべきなのです。
 
 では、医療機関を受診すれば、人生のどん底から救ってくれたり、依存している薬物を断ち切ることができるのでしょうか。答えは「YES」です。もちろん、本人の努力も必要ですし、100%の確率で成功するとは限りません。けれども、少なくとも自分ひとりで悩んだり、カウンセリングだけに頼ったりするよりは、遥かに効果がある、と私は考えています。
 
 また、以前も述べましたが、人間には「日常」だけではなく「非日常」の時空間が必要です。そして、この「日常」と「非日常」を上手く使い分けることこそが、人生を上手に生きるコツである、というのが私の理論で、この理論を用いると、受験勉強のスランプから抜け出せるということを、『偏差値40からの医学部再受験』で述べました。

 人生のどん底に沈んでいたり、依存している薬物のリバウンドで苦しんでいるときなども、実は「非日常」の時空間が必要なときではないか、と私は考えています。
 そして、いずれの場合でも、自分の努力で「非日常」を体験できないときは、医療機関を受診することが有効である、と私は考えているというわけです。

 つづく 

2005/09/15

22.「クスリ」を上手く断ち切るにはA(全4回) 

 覚醒剤の次は、違法薬物の王様である「麻薬」をみていきましょう。

 「麻薬」とは、狭義には、ケシの種子からとれる阿片から精製されたものを言い、モルヒネやヘロインの名で知られています。(ちなみに、ケシの栽培や阿片の所持はあへん法で、モルヒネやヘロインは麻薬取締法で裁かれます。)

 麻薬の効果は、覚醒剤とはまったく異なり、ハイテンションにもしてくれませんし、活動性は低くなります。しかし、なんとも言えない恍惚感に包まれて至上の幸福感につつまれます。(といっても私は経験がありませんので。念のため・・・。)

 アヘン戦争で、イギリスが中国人に阿片を浸透させたのは、誰もが戦意を消失することを狙ったからです。これに対し、もしも中国人が阿片ではなく、覚醒剤を使用していたら、眠らずにどこまでも戦ってくる無敵の軍隊になったかもしれません。

 麻薬の最も恐ろしい点は、その依存性にあります。前回は、覚醒剤の依存性についてその恐ろしさをお話しましたが、実は麻薬はその比ではありません。いったん、その味を覚えてしまえば、かなりの確率で廃人になり、そしてそのうちに死亡します。

 ただし、麻薬は協力な鎮痛効果があることから、医薬品としてはなくてはならないものです。痛みがあるうちは、麻薬はいくら使っても中毒症状になることはありません。(これを「ceiling effectがない」と言います。)

 前々回、「シャブ中ドクター」は珍しくないという話をしましたが、「麻薬中毒ドクター」は聞いたことがありません。現在の日本の医療では覚醒剤に比べると、麻薬の方が使用量はずっと多いと言えます。もちろん、麻薬の取り扱いは厳重に規制されていて、もしも1錠でも紛失させると、それを届出しなければならず、場合によっては処罰の対象になります。けれども、臨床での消費量は、覚醒剤よりも麻薬の方がずっと多いわけです。最近では、末期癌患者の在宅医療にも麻薬を使いますから、麻薬が家族の管理になることもあるわけです。医師が不正に持ち出そうと思えば、それほどむつかしいことではないと思われます。

 しかし、「麻薬中毒ドクター」というのは、ほとんどいないのです。これはなぜなのでしょうか。おそらく、医師もバカではないため、その危険性を承知しているからでしょう。医師であれば、麻薬と覚醒剤の効能の違いや危険性について充分に理解しています。「シャブ中ドクター」が後を絶たないのは、麻薬に比べて、覚醒剤が中毒性が低いことを甘くみているのと、眠気覚ましや集中力アップのために有用だという理解があり、さらに罪がそれほど重くないことが原因ではないかと、私は考えています。

 麻薬は、強烈な依存性と耐性のできやすさから、覚醒剤に比べて、初めは吸入で満足していても、静脈注射に移行するのが早いと言われています。麻薬の静脈注射から立ち直った人もいるにはいますが、そのまま廃人になり命を落としていく人の方がずっと多いのは間違いありません。

 したがって、法律は当然厳しいものになります。麻薬は保持しているだけで、まず実刑から逃れられることはありませんし、一部の国では、持っているだけで射殺というところもあります。知らないうちに誰かに自分のポケットにヘロインを入れられ、問答無用ですぐに射殺、ということもあるわけです。

 静脈注射をすれば、麻薬であっても覚醒剤であっても、感染症の危険性はありますが、麻薬の場合はあまり問題にはならないのではないかと思われます。感染症の危険性よりも、中毒になり、そのうち死亡する可能性の方がずっと高いからです。
  
 次に、大麻取締法で規定されている、「大麻」をみていきましょう。「大麻」は別名、「マリファナ」とか「ガンジャ」と言われることもありますし、単に「草」とも呼ばれます。また大麻の樹液を固めたものを「ハシッシュ」と呼び、大麻と同様の効果があります。

 大麻は、覚醒剤や麻薬と異なり、依存性はないと言われています。また、オランダやインドの一部の州では合法ですし、カンボジアでは伝統料理にも使われます。ちなみにカンボジアではタバコの方が高級品であり、大麻を吸うのはタバコを買う金がない貧乏人だと言われていたことがあるそうです。

 大麻を吸うと、全身の感覚が研ぎ澄まされます。ミュージシャンがよく使用するのは、音楽がシャープに聞こえるからではないかと思われます。例えば、ひとつの曲のベースの音だけを取り出して聞くことができるようになりますし、あるいは音感が敏感になることが作曲の際に有用なのかもしれません。聴覚だけではありません。視覚も鋭敏になります。白い壁が紫や緑に見えてきたり、雲の形が動物や人の顔に見えたりします(これを「パレイドリア」と呼びます)。

 覚醒剤のようにハイテンションになることはなく、どちらかと言うと、麻薬のときのように動けなくなります。しかし、麻薬で得られるような恍惚感はありません。なぜか喉が渇き、食欲も亢進するため、大麻をやりすぎて太ってしまったという人もいます。

 大麻愛好家の人たちは、依存性もないし注射をしたりすることもないわけだから、他の違法薬物はもちろん、タバコや酒よりもよっぽど健康的なものではないのか、と主張します。

 たしかに、この考え方には一理あって、危険性がそれほど強くないことから、オランダなどでは合法となっているのでしょう。「大麻以外の薬物は一切やらない」、というポリシー(?)を持っている人もいて、たしかに健康上の被害はそれほど問題にならないかもしれません。「先生、オランダに行って大麻をやってもいいですか。」と聞かれたら、私は医師として何と言っていいか分かりません。草に火をつけて吸入するわけですから、身体にいいはずはありませんが、それ以上のことは言えないのです。

 大麻が危険なのは、日本への持ち込みです。日本では当然違法であるわけで、そのため海外から日本に持ち込めば高値で売ることができます。もちろん、税関で厳しいチェックがありますから、簡単には持ち込むことができません。そのため、最近よく取られている方法は、少量の大麻をサランラップに包んで、それをコンドームに入れて、そのコンドームを飲み込むというものです。

 しかし、この方法は非常に危険です。腸管でコンドームが破けて、大麻が吸収される、ということがありうるからです。日本の空港に着いたものの、大麻が全身にまわってしまい、立ち上がれなくなり、救急搬送され、病院で逮捕という事件がときどきおこっています。女性の場合、腟内に挿入する方法もあり、この場合は飲み込むよりも危険性は少ないでしょうが、見つかって逮捕されることはよくあります。

 大麻取締法は、麻薬や覚醒剤に比べてたしかに罪は軽いのですが、コンドームで大量に持ち込んでいれば販売目的とみなされて、まず実刑から逃れられません。

 ちなみに、このコンドームに入れて飲み込むという方法を、覚醒剤でおこなった場合、危険性は大麻の比ではありません。もしも腸管でコンドームが破ければ、日本に到着する前に、上空で突然死、という可能性もあります。

 次に、最近日本で消費量が爆発的に増えている「MDMA」についてみていきましょう。「MDMA」とはメチレンジオキシメタンフェタミンの略で、通称「エクスタシー」と呼ばれています。「MDA」と呼ばれるものもあり、これはメチレンジオキシアンフェタミンの略で、こちらは通称「ラブドラッグ」と呼ばれることもあります。MDMAもMDAも、その名称から分かるように、メタンフェタミンやアンフェタミンの類似物質、要するに、覚醒剤の親戚です。しかし、規制する方法はなぜか、覚醒剤取締法ではなく、麻薬取締法です。

 MDMAもMDAも効果は同じようなもので、強い興奮作用があります。覚醒剤とよく似ており、セックスの際に用いると強烈な快感に襲われます。(しつこいようですが、私は経験がありませんので・・・。)

 覚醒剤と同様に、日本では都心部を中心に若い世代の間で出回っています。(日経新聞2005年8月4日夕刊の記事によりますと、2005年上半期での押収量は過去最多を記録しており、これで7年連続の増加となったそうです。)また、UKではクラブで簡単に入手できるそうです。UKは薬物に厳しい国で、例えば、日本では睡眠剤として医療機関で処方される「ハルシオン」は、使用法によっては幻覚をみたり、記憶をなくしたりして(間違った使い方をすると)非常に危険な薬物です。そのため、ハルシオンの製造元のアップジョン社は、本国のUKで販売を禁止しています。それほど薬物に厳しいUKでも、なぜかロンドンなどのクラブでは比較的簡単にMDMAが入手できるそうなのです。(ちなみに、ハルシオンは、かつてドラッグ天国と呼ばれたタイでも以前から販売禁止にされており、タイ人は主に日本人から入手していたそうです。)

 日本のクラブでも、ロンドンと同様、MDMAは比較的簡単に入手できるようです。もちろん、覚醒剤と同様、非常に危険な薬物で、錯乱や不安に襲われることもありますし、死亡例も報告されています。通常は内服のみであるため、静脈注射に移行することはありませんが、MDMAのユーザーは覚醒剤にも手をだすことが多く、病院に救急搬送された患者さんの尿から覚醒剤とMDMAの両方が検出されるということも少なくありません。

 つづく
 

2005/08/29

21.「クスリ」を上手く断ち切るには@(全4回)

  前回は、「(違法な)クスリは絶対にやってはいけないが、手を出す気持ちも理解できないわけではない」、という話をしました。その最大の理由は、「クスリ」を使えば、容易に「日常」から抜け出して「非日常」の世界に飛び込むことができ、そこで得られる興奮や快感は、人生に感動を与えることもありうる、というものです。

 けれども、私は医師として、そして個人としても、違法なクスリには断固反対します。反対するだけでは、単なる「正論の振りかざし」であり、説得力がないかもしれませんが、これは反対するしかありません。ただ、代替案も提案したいと考えています。

 その前に、まずは違法薬物を分類して、その危険性を考えていきましょう。

 現在の日本で流通している最大の違法薬物は「覚醒剤」です。一般的に覚醒剤とは、アンフェタミンとメタンフェタミンのことを指しますが、現在の日本で圧倒的に流通量が多いのはメタンフェタミンであり、輸入先は北朝鮮が多いと言われています。そして北朝鮮製のメタンフェタミンは非常に純度が高く、例えばタイなどで出回っているアンフェタミンなどよりも格段に「良品」だとされています。

 覚醒剤は通称「シャブ」と呼ばれます。しかし、最近は、この「シャブ」という言い方がイメージが悪いからなのか、「スピード」とか、その頭文字をとって「エス」と呼ばれることが多いようです。

 また1950年代まで日本の薬局で簡単に買えた「ヒロポン」も覚醒剤であります。おそらく、世界中で覚醒剤が合法だったのは日本だけだと思われます。

 様々な違法薬物があるなかで、覚醒剤だけが日本の社会の隅々まで浸透しており、最もメジャーな薬物になっている原因は、日本人の気質に合うからではないか、と私は考えています。後で述べますが、「大麻」は覚醒剤に比べて、危険性が少ないですし、所持していても罪は軽いですから、大麻の方が流通していてもよさそうに思うのですが、現在の日本では圧倒的に覚醒剤の方が出回っているような印象があります。

 覚醒剤を使用すると、ハイテンションになり、「眠れずに仕事や勉強ができる」とか「確実にダイエットできる」という効能がありますから、現代の日本人の需要に合っているのかもしれません。実際、合法だったヒロポンの効能書きには「痩身」と記載されていたそうです。

 ヒロポンは、タクシーの運転手など、徹夜で仕事をしなければならない人たちの間で流行していましたが、現在も、徹夜で仕事をしなければならないサラリーマンや、一夜漬けをしなければならない学生などが覚醒剤をよく使用しているようです。また、ダイエット目的に使う女子高生や主婦も珍しくありません。

 「エスは上手につきあえば怖くないよ」という人たちは、静脈注射ではなく、吸入(いわゆる「アブリ」)をしているようです。これは覚醒剤をアルミ箔に載せて気化させ、その気体を鼻から吸入するという方法です。たしかに、この方法だと緩徐に体内に吸収されますから静脈注射よりは安全であるかもしれません。しかし、最初はアブリで満足できていても、そのうちにそれでは足りなくなり、いずれ静脈注射に移行するという例は珍しくありません。

 吸入、静脈注射以外によく用いられている方法が、「女性の腟壁に塗布する」という方法です。前回お話した「覚醒剤中毒の女医」も、そうやって使っていたという報道がありますが、この使用法が恐いのは、女性が気付かないうちに男性がコンドームに塗布して挿入し、女性はかつて経験したことのない快感に襲われ、その男性から離れられなくなることがある、ということです。なかには、その快感を「真実の愛に出会った」、ととらえる女性もいるかもしれません。そうなると、心理的にもその男性から離れられなくなってしまいます。

 覚醒剤についてあまり知識のない人は、ここまで読めば「それほど悪いものでもないのかな・・・」と思われるかもしれません。しかし、ここからが覚醒剤の恐ろしいところです。

 医薬品も含めて、多くの薬物には「耐性」というものがあります。最初は少ない量で満足できていたのに、そのうちに同じ量では効かなくなるということです。そのため、量を増やしたり、吸入から静脈注射に移行したりするようになってきます。量を増やしても、また効かなくなり、そのうちにどんどんと一度に使用する量が増えていきます。

 覚醒剤はもちろん違法薬物ですから、裏ルートから購入しなければなりません。(といっても最近はごく簡単に入手できるようですが・・・。)そして、価格は決して安いものではありません。普通のサラリーマンやOLの給料ではとうてい追いつかなくなります。借金をできるところからは限界まで借りるようになります。前回紹介した女医のような立場であれば、病院から金になるものを持ち出すようなこともおこないます。

 家族や友人からも借金するようになります。この時点になれば、本人も返済の目途がつかず、家族や友人を裏切ることになることは理解できるはずなのですが、一度覚醒剤に蝕まれた身体は正常な思考回路を妨げます。それまで信頼関係にあった家族や友人に対して、平気で嘘をつくようになります。そして、そのうちに家族や友人から見放されていきます。

 覚醒剤は、キマっているときには、たしかにハッピーかもしれませんが、これが切れたときにいわゆるリバウンドが確実にやってきます。まるで廃人のように気力や活力がなくなり、脱力感に襲われます。こうなると、再び覚醒剤をキメるまで、まともな行動ができなくなります。もちろん仕事などできません。そして、そのうちに職を失うことになります。

 職を失い、家族や友人に見放されても、身体は覚醒剤を欲しがります。この頃には全身の臓器がボロボロになっており、もはや生命の存続も危なくなります。夜道で倒れているところを補導されたり、救急搬送されたりすることになります。こうなると、逮捕までは時間の問題で、法的な制裁を受けることになるわけです。(病院の尿検査などで覚醒剤反応が陽性になることがあり、これを警察に通報すべきかどうかはむつかしいところです。覚醒剤取締法と医師の守秘義務の兼ね合いがあるからです。これについては改めて述べたいと思います。)覚醒剤中毒で、病院に搬送された人は、入院や懲役になればまだましな方で、実際に命を落とす人も珍しくありません。

 ところで、覚醒剤は、初犯であれば、販売や製造などをしていない限り、実刑になることはあまりなく、執行猶予がつくと言われています。(これに対し、違法薬物の王様である麻薬は、個人で使用しているだけでも、まず間違いなく実刑となります。)

 私は、覚醒剤取締法を直ちに改正して、個人の使用のみでももっと重い刑にすべきだと考えていますが、現在のところそのような動きはないようです。ちなみに、タイではタクシン政権が、違法薬物対策に力を入れ、覚醒剤を大量に所持している人間には容赦なく射殺するような方針を取るようになりました。これはいきすぎたきらいもあり(なんとこれまでに5000人以上もの人々が射殺されており、冤罪も少なくないと言われています)、反省の声も上がっているようですが、タイ国がドラッグ天国から、違法薬物を入手しにくいクリーンな国に変わったのは事実です。射殺まではいきすぎだと思いますが、日本も何らかのかたちで覚醒剤取締法を強化してほしいと私は考えています。
 
 さて、決して忘れてはならない覚醒剤の恐ろしい点がもうひとつあります。それは「感染症」です。

 実際に、覚醒剤を静脈注射する際に用いる注射針の使いまわしで、B型肝炎やC型肝炎に罹患した人は少なくありません。もちろん、HIVに感染することもあります。

 「静脈注射するから感染するのであって、アブリなら心配ないじゃないか」、そのように言う人もいます。

 しかし、先ほど述べたように、覚醒剤に耐性ができ、吸入では効果が得られなくなり、静脈注射に移行する人は決して少なくありません。そして、パーティなど複数で覚醒剤をキメるような場合、ひとりが注射を始めると、そのうちにひとりふたりと注射するようになり、自分だけが注射をしないわけにはいかなくなることもあります。(これをpeer pressureと言います。)

 さらにもうひとつ問題提起をしておきましょう。最近、新型のHIVがニューヨークで発見されました。通常、HIVはヒトに感染してからおよそ10年間の潜伏期間を経てAIDSを発症しますが、抗HIV薬を適切なタイミングで内服することによりAIDSの発症を防ぐことができます。ところが、この新型HIVは、感染してから1年未満でAIDSを発症するのです。さらに、抗HIVが無効だというのです。
 そして、ここからが問題なのですが、この新型HIVに罹患した人の全員が覚醒剤を使用していたというのです。しかも、注射ではなく、吸入で、です。
 これはどういうことなのでしょうか。おそらく新型HIVに罹患した人たちは、注射針の使いまわしではなく、性行為など他のルートで感染したのでしょう。しかし、覚醒剤を高頻度で使用していたために、体内に何らかの変化が起こり、その変化がウイルスを新しいタイプにしたのではないか、私はそのような可能性を考えています。
 
 つづく
 
2005/08/13

20.覚醒剤中毒の女医
 2005年3月25日、大阪の40歳の女医が、覚醒剤取締法で逮捕されました。

 報道によりますと、兵庫県尼崎市内の病院で副院長をしていたこの女医は、2003年9月から04年10月にかけて、病院に納入された向精神薬や注射器を売り、覚せい剤の購入資金に充てていたそうです。

 私が『医学部6年間の真実』のなかで詳しく述べたように、覚醒剤中毒の医師というのは何も珍しくありません。覚醒剤をキメてから、手術をおこなっていた外科医と麻酔科医が逮捕された「兵庫医大覚醒剤事件」を皮切りに、数々の「シャブ中ドクター」が明るみになりました。今でも年に何度かは、新しく発覚した「シャブ中ドクター」が新聞に載ります。もっとも、珍しくなくなったせいか、最近では大きく取り上げられることはないようですが・・・。

 さて、今回逮捕された大阪の女医は、単に覚醒剤をキメたかった、という以外に複雑な事情があったようです。そのあたりが、『裏モノJAPAN』という雑誌の2005年8月号で詳しく取材されていますので、ここで簡単にご紹介しておきたいと思います。

 この女医は、関西で開業医をする父親の次女として生まれ、早い時期から父親の後継者として医学部進学を義務づけられていたそうです。

 予定通り、ストレートで医師になった彼女は、27歳のときに、同じ医師である男と結婚しました。

 ところが、その旦那が他に女をつくり、結婚生活は五年で破綻し離婚に至ったそうです。

 その後、友人の紹介で知り合った実業家の男性と恋愛関係になりました。アメリカで事業をしたいというその男を追いかけ、彼女は勤務していた病院をやめてアメリカに渡ることになりました。

 その男から、「運転資金に」とか「事業資金に」などと言われて、彼女は900万円以上を貢いだそうです。

 ところが、結局その男は、彼女に一方的に別れを告げて去っていったそうです。
 彼女は2001年に日本に帰国しました。寂しさを紛らわすためにツーショットダイヤルにのめりこんだそうです。そして、そこで知り合って付き合いだすことになったのが、覚醒剤の密売人だったというわけです。

 間もなく、二人は同棲を始めました。その男が覚醒剤を静脈注射していることはすぐに分かったそうですが、彼女はとがめるどころか、「自分にもちょうだい」と言って、すすんで自分の腕に注射をしたといいます。

 それだけではありません。セックスの際、腟壁に覚醒剤を塗るようになったそうです。かつてない興奮と快感が身体をつらぬき、一度その味を覚えると、彼女自ら積極的にセックスを求めるようになったといいます。

 この頃から、男の帰りを待ちきれず、ベランダに体を乗り出し、男に向かって手を振る姿がよく目撃されていたそうです。

 彼女は当時、複数の病院でアルバイトをしていましたから、それなりの収入はあったのですが、覚醒剤にハマりだせば貯金などすぐに底をつきます。そこで、彼女は自分の勤務する病院から、大量の注射器や向精神薬を持ち出して資金にあてていたというわけです。

 逮捕後、取調官から問われても彼女は同じ供述を繰り返すばかりだったといいます。
 「あの人が好きだったのです。あの人との絆を強くしたかった・・・・」

 2005年3月24日の大阪地裁の初公判で、彼女は起訴事実をすべて認めました。すべてを失った、という悲愴感は彼女にはなかったそうです。彼女のなかにはまだその男との「絆」が残っているのかもしれません。

 「シャブ中ドクター」が新聞の隅に載ることは珍しくなく、2005年7月にも、福岡大病院に勤務する41歳の男性医師が、覚醒剤取締法で逮捕されました。この男は、当直時にも「眠気覚ましに使った」などと供述しているそうです。

 覚醒剤の効果は、「テンションがあがる」「眠らなくても平気」「食事を摂らなくてもエネルギッシュに働ける」などがありますし、違法ではあるものの、現在の日本では割と簡単に入手することができますから、その怖さを知っているはずの医師でさえ、気軽に手をだしてしまうのかもしれません。

 最近は、あまりにも覚醒剤を使用する人が増えたために、「気をつければ中毒にならない」とか「お酒と一緒で度を越さなければハッピーになれる」とかいう噂が出回り、以前に比べると、それほど危険視されなくなっているような印象を受けます。

 また、覚醒剤は実は合法的に入手する方法もあります。「リタリン」という名前の向精神薬は、覚醒剤の類似物質で、大量に内服すると、シャブとして出回っているメタンフェタミンと同じような効果が得られます。医師であれば簡単に入手できますから、「シャブ中ドクター」は見つかっていないだけで、かなりの数に昇るのでは、と私は考えています。

 しかしながら、「覚醒剤には絶対に手を出すべきではない」という事実は変わりありません。

 たしかに、中毒にならないように上手く使いこなしている人もいるようですが、そういう人たちがいつ中毒にならないとも限りませんし、中毒になって、職を失った、家族を失ったという人は枚挙にいとまがありません。

 さて、中毒症状になりやすいパターンのひとつが、今回逮捕された女医がしていたような、パートナーとの「セックスでの使用」です。もちろん私は経験がありませんが、覚醒剤を使用したセックスの体験者に話を聞くと(患者さんと仲良くなるとこういう話もしてくれます。当然、昔の話であり、現在は立ち直っているからこそ話せるのでしょう。)、普通の(覚醒剤なしの)セックスができなくなると言います。快感が何十倍にもなり、何時間おこなっていても疲れが来ないと口を揃えて言うのです。そのため、三日三晩、ほとんど休憩せずに、セックス浸りになることもあるそうです。覚醒剤を使うことによって、強烈な快感が数時間も続き、射精にいたらなくなりますから、早漏で悩んでいる男性は特にやめられないという人もいます。また、覚醒剤をコンドームに塗られて腟に挿入されれば、女性は知らないうちに中毒になることもあります。

 それまでに経験したことのない興奮と快感に襲われるわけですから、パートナーとの精神的な結びつきが強くなることも想像に難くありません。

 おそらく、この女医もそうだったのでしょう。離婚後に出会って、アメリカまで追いかけて大金を貢いだ男には一方的に別れを告げられ、ツーショットダイアルで知り合った男性にやさしくされた彼女は、寂しさと男の優しさに覚醒剤がもたらす興奮と感動が加わったために、その男から離れられなくなったのでしょう。
 
 仕事や生活を「日常」とすると、一部の恋愛やクスリは「非日常」に相当します。「日常」では常識であることが、「非日常」の世界では必ずしも常識ではなくなり、ある意味では「つまらないもの」に見えることがあります。そして、つまらなくなった常識を捨てて、「非日常」の興奮に身を投げたくなることがあります。例えば、家庭や仕事を投げ出して、駆け落ちするカップルや、これ以上やると社会に復帰できないことを知りながらハマっていくクスリなどは、その典型です。

 そして、これらは善くないことであることは自明ではありますが、そうなっていく気持ちもまた理解できないわけではありません。

 だから、私は、「密売人と付き合ってはいけません」とか「クスリをやってはいけません」などというようなことを、「常識人が振りかざす正論」として主張するつもりはありません。単なる正論の主張だけであれば、おそらくいずれ逮捕されることに気付きながらも、その男との覚醒剤を使ったセックスから逃れられなかったこの女医の気持ちも理解できるはずがないのです。

 覚醒剤に手を出すべきでないのは自明でありますが、覚醒剤に手を出してしまう人がいる理由も理解しなければならないと私は考えています。そして、そういった人たちが、覚醒剤から解放されるような手助けをするのが医師のつとめである、と私は思います。

 次回から、そのあたりを考えていきたいと思います。

2005/08/02


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