| メディカルエッセイINDEX |
| 60.救急搬送拒否とクリニックの待ち時間 前編2008/1/31 |
昨年末に大阪府富田林市で、30もの病院から救急搬送を拒否されて89歳の女性が死亡したという事件は一般の方からは不可解にうつるかもしれません。
”30もの病院から拒否”などと聞くと、「いったい日本の病院は何をやっているんだ!」と憤りを感じる方もいるでしょう。
しかし、現場で仕事をしていると、30というのはさすがに多いような気もしますが、このようなことは”ないことはないだろうな・・・”と感じられます。
私は、現在は救急の仕事から離れていますが、少し前までは月に数回は救急車を受け入れ入る病院で夜間の勤務をしていましたし、以前は大病院の救急部で働いていたこともあります。
救急車受け入れ要請の電話は救急隊から入ります。比較的小さな病院で働いているときは、救急隊の話から判断して、「その症例はこの病院で受け入れるには重症すぎる。もっと大きな病院に行ってもらうべきだ」と判断して断ることがあります。
これは、無理して受け入れて、その結果、「やはりこの病院では人員も設備もこの症例をみるには不充分だった」などということは避けなければならないからです。初めから大病院に搬送されていれば助かったのに、無理して小さな病院で受け入れたために救える命が救えなかった、などということは絶対にあってはならないことです。
ただ、この判断がいつも正しいとは限りません。
例えば、私が以前ある中規模病院で夜間勤務をしていたとき、30代男性の交通事故の患者さんが運ばれてきました。事前の救急隊の情報によれば、「意識も清明で、頭をうっているかもしれないが両手両足は動く。あるとしても軽度の骨折程度だろう」ということでした。それならば、受け入れ可能です。私は、「頭蓋内出血や胸部・腹部の損傷を確認して、あとは骨折の治療をおこなえばいいだろう・・・」、そのように考えていました。
ところがです。実際に運ばれてきた患者は、意識は比較的保たれているものの、四肢に力が入らないといいます。これは脊髄損傷の可能性があります。もしも、脊髄損傷なら初めからそれなりの対応のできる高次病院に行かなければなりません。私は初期診察をすませ、やはり脊髄損傷の可能性のあることを確認し、それから大阪府中の高次病院に連絡をとりました。
そのときはたしか7件目くらいの病院で受け入れてもらえることになりました。その病院まではかなり距離がありましたが、私も救急車に同乗しておよそ1時間後に搬送することができました。
逆に、高度な救急をあつかっている大病院で勤務しているときは、救急隊や中規模病院からの救急搬送依頼が頻繁にあります。
もちろん、大病院としては、重症の症例を積極的に受け入れたいという気持ちはあるのですが、すべての依頼に対応するわけにはいきません。生死をさまよっているような患者さんの治療には、かなりの人員と時間がとられます。生命の危機がある患者さんをひとり受け入れれば、その後数時間は救急要請に応えることはできないのです。
また、救急外来があいているときでも、ベッドが万床であれば受け入れられないということもあります。重症の症例は、原則として入院することが前提です。空きベッドがなければ人員に余裕があったとしても救急要請を受け入れることはできないのです。
では、日本の医療現場では、なぜこのような問題が起こるのでしょうか。
最大の原因は「医師不足」でしょう。
もしも医師の数が大幅に増えれば、それだけで救急要請を断ることはかなり少なくなるはずです。夜間の当直医が1から2人しかいない病院であれば、少し時間のかかる中等度の症例が搬送されてくればそれで手がいっぱいになってしまいます。救急医療をおこなう医師が(それが交代性であったとしても)増加すれば、なかなか搬送先が見つからないという問題は大きく減少するはずです。
ちなみに、日本の人口あたりの医師数は、先進国30ヶ国中27位(2005年9月の財団法人社会経済生産性本部によるデータ)です。
そして、もうひとつの大きな問題は、「空きベッドの少なさ」です。
医師数と同時に財団法人社会経済生産性本部が発表した、人口あたりの病院ベッド数は、先進国30ヶ国中なんと第2位です。
これは一見奇妙にうつります。ベッドの数は多いのに万床で救急搬送が受け入れられないとはどういうことでしょうか。
この原因は、日本では入院を希望する患者さんが他国に比べ多くて、さらに入院期間が長いという特徴があるからです。
これが日本の医療費を圧迫しているのは事実で、そのため厚生労働省はあの手この手で入院患者数を減らして、入院期間を短くする政策を常に検討しています。
現在の日本の医療現場は、「少ない医師が大勢の入院患者を診ている」というのが現状なのです。
では、入院機能をもたないクリニック(診療所)ではどうなのでしょうか。
病院の搬送拒否とある意味で同じ問題を孕んでいるのが、「クリニックの待ち時間の長さ」です。
現在のすてらめいとクリニックの最大の問題点のひとつが、この「待ち時間の長さ」です。
特に1月は待ち時間の長さが顕著でした。正月明けで患者さんが一気に増えたこともあり、予約があっても2時間待ち、予約がなければ4時間待ち、などという事態にもなってしまいました。
現在は予約システムを大幅に見直し、待ち時間の短縮がある程度実現化し、少なくとも予約のある患者さんの待ち時間は最長でも30分程度になっています。
しかし、一方では新たな問題も出現しています。次回はそのあたりを述べたいと思います。 |
|
| 59.不可解な医療費 −その2− 2007/12/25 |
|
前回は、「なぜ同じような治療でも医療機関によって治療費に差がでるのか」という点について、院内処方と院外処方の差を述べました。
前回お話したように、医療機関側からみたときには院外処方にする方が経営的に安定するのですが、患者さん側からみたときには、院内処方は「治療費が安くつく」以外にもいくつかのメリットがあります。
ジェネリック薬品、あるいは後発薬品という言葉をご存知でしょうか。これは、新しい薬が発売されてから一定期間(通常は10年)が過ぎ、特許が切れた後に、他の製薬会社が製造した”同じ”薬です。ジェネリック薬品に対して、もともと先にあった薬を先発品と呼びます。
同じではなく"同じ”としているのは、まったく同じものではないからです。その有効成分を錠剤やカプセルにする際に用いる材料に違いがあることがあり、有効成分の質と量には差異がありませんが、体内で作用する際には差がでるのではないか、とする考えもあります。
しかし、たしかに一部のジェネリック薬品には効果が劣る(あるいは副作用がでやすい)可能性がありますが、あきらかに先発品と同等の効果があるものも少なくなく、同じもので値段が安いなら安い方(ジェネリック薬品)の方がいいと考えるのは当然のことでしょう。
現在、医療費抑制のために、厚生労働省はジェネリック薬品をもっと普及させようとしています。
ところが実際は、ジェネリック薬品はそれほど普及していません。
例えば、2007年2月8日の共同通信によりますと、医師が処方箋に「後発品への変更可」と記載しても、実際に薬局で後発品が出されるケースは、このうち5.7%しかないことが分かりました。(詳細は、医療ニュース2007年2月10日「普及しない後発医薬品」)
つまり、院外処方ではジェネリック薬品をそれほど多く入手できないのが現状なのです。
院外処方に比べて院内処方の方が便利な理由は他にもいくつかあります。
まず、院外処方では薬をすぐに入手できないという問題があります。病気や症状によっては、その薬を一刻も早く飲まなければならない場合があります。こういったときにも、患者さんはクリニックでいったん精算を済ませ、その後薬局に行かなければなりません。クリニックの会計で待たされた上に、薬局でもある程度は待たなければなりませんから薬を飲むのが遅れてしまいます。
日中ならまだいいかもしれませんが、夜間の場合は一日遅れることもあります。例えば、すてらめいとクリニックの診察時間は午後8時まで(受付は7時45分まで)となっていますが、混んでいるときは診察の終了が午後9時を過ぎることもあります。9時以降にも空いている薬局もあるでしょうが、多くの院外処方せんを受け付けている薬局はこれよりも早く閉まります。すると、患者さんは薬を入手するのは早くても翌日の朝になってしまいます。仕事などで忙しい人であれば服薬開始が大きく遅れることもあるでしょう。
薬が合わなかった場合や副作用が出た場合もやっかいです。薬局では薬を勝手に替えるわけにいきませんから、患者さんはクリニックを再度受診することになります。電話で問い合わせるにしても、薬局とクリニックのどちらに聞いていいかわからない場合もあるかもしれません。これが院内処方なら、薬局を通さない分だけ、医師や看護師がすみやかに対応できます。
また、飲み方に注意がある場合も、院内処方の方がスムーズです。例えば、「この薬は1日1錠飲むことになっているけれども、症状が強い場合は2錠まではかまわない。ただし2錠飲んでいいのは1週間まで。そして1日2錠にした場合は○○といった副作用がでるかもしれない」といったケースがあるとします。この場合、この情報を薬局に伝えて、さらに薬局で患者さんに伝えるのに相当な手間と時間がかかります。院内処方なら、看護師が実際に患者さんに薬を見せながら説明することができるというわけです。
さて、「なぜ同じような治療でも医療機関によって治療費に差がでるのか」という問題に対する答えのひとつとして、院内処方と院外処方の違いを述べましたが、治療費に差がでる理由は他にもいくつかあります。
「同じ病気に対して検査方法がいくつもある」というのも大きな理由です。
例えば、クラミジア感染を例にとってみましょう。
すてらめいとクリニックでは、クラミジアに対しては、数十分で結果が分かる検査方法を採用しています。この検査の費用は、3割負担で510円です。ただし月に一度は「判断料」という明目で430円が別にかかります。しかし、この「判断料」というのは月に一度ですから、例えば前の週にインフルエンザでかかっていた場合は、すでにそのときに430円を徴収されていますから、510円のみとなります。
これは患者さんに教えてもらったことですが、泌尿器科や産婦人科を含めて多くのクリニックでは、結果がすぐにわかる検査ではなく、結果が出るまでに1週間ほどかかる別の検査方法を採用しています。この検査法だと検査代が630円で、「判断料」は450円となります。さらにこの検査法では、1回で1箇所しか検査できないため、例えば女性で子宮けい部とのど(咽頭)の双方を調べたいという場合には検査を2回しなければなりません。そしてこの場合は保険診療ができません。混合診療となりますが、(混合診療の良し悪しは別にして)、例えば子宮けい部は保険診療とし、のどの検査を自費にした場合は、(10割負担とすれば)2,100円が別途必要となります。
クラミジア以外の性感染症を考えた場合、すてらめいとクリニックでは、女性の場合、淋菌性咽頭炎、淋菌性子宮頸管炎、外陰部カンジダ症、腟カンジダ症、腟トリコモナスの検査をすべて顕微鏡でおこなっています。これらの検査はすべて50円です。しかも、これらすべては保険請求しても認められないことが多いため、はじめから2回分(100円)しか請求していません。(ただし、これら検査の「判断料」として別途450円がかかります)
ひとりの女性がおりものの異常があって性感染症を疑い、クラミジア頸管炎・咽頭炎、淋菌性頸管炎・咽頭炎、外陰部カンジダ症、腟カンジダ症、腟トリコモナス症の検査をした場合、初診代820円、尿検査80円、クラミジア頸管炎+咽頭炎940円(510円+430円)、クラミジア以外のすべての検査550円(50円x2+450円)、子宮頸管粘液採取代90円、腟洗浄代140円、となり合計約2,600円となります。診察時には、性器ヘルペスや尖圭コンジローマなどができていないかどうかも確認しますから、事実上、HIVや肝炎などを除くほとんどすべての性感染症が2,600円で検査できることになるのです。
性感染症のように、一度にいくつもの項目を検査しなければならない場合、すてらめいとクリニックで最も重視しているのは「すべての項目の結果を早く」ということです。早く結果を出す検査にこだわった結果として、検査代が安くなっているというわけです。
「早く結果を出す」ためには、ひとりの患者さんにかける時間が長くなりますし、利益も出なくなってしまいますし、それなりの経験をつまなければなりませんから(顕微鏡で複数の感染症の検査ができるようになるには最低でも数千枚のスライドを観察しなければなりません)、経営的にはマズイかもしれませんが、患者さん側からの需要は「結果を早く!」なのです。
|
|
| 58.不可解な医療費 −その1− 2007/12/3 |
|
ここのクリニックはどうして医療費が安いのですか?
これは、患者さんからときどき言われる言葉です。すべての患者さんがこのように感じているわけではないと思いますが、逆に「ここは高いですよ」と言われたことは一度もないので、もしかすると相対的にみて、すてらめいとクリニックでの治療費は安いのかもしれません。
しかし、これは極めて不思議なことで、医療費というのは保険点数で決められていますから、その決まりを無視して勝手に値段を上げたり下げたりすることはできません。つまり、医療費というのは日本全国どこのクリニックを受診しても同じであるはずです。
では、なぜ一部の患者さんは、すてらめいとクリニックの治療費を安いと感じているのでしょうか。
実は、恥ずかしながら私自身がまだ複雑な保険点数のシステムを理解しておらず、日々カルテに保険点数を記載していて、「わかりにくい」「複雑すぎる」と感じることが頻繁にあります。
クリニックの院長である私がそのように感じているわけですから、一般の患者さんにはこの保険点数というものが複雑怪奇なものにみえるのではないでしょうか。
今回は、私自身がようやく少しだけ分かりかけてきた保険点数のシステムを、「なぜどこの医療機関を受診しても同じはずの医療費に差が出るのか」という観点からお話したいと思います。
ひとつめは、すてらめいとクリニックは院内処方をおこなっているという点があげられます。
患者さんが薬を受け取るには、「院内処方」と「院外処方」があります。院内処方とは、診察の後、そのクリニック内で薬を受け取る方法で、院外処方とは、クリニックでは「院外処方せん」を受け取り、それを持って調剤薬局に行って、その薬局で院外処方せんに書かれた薬を受け取る方法です。
細かい説明は省略しますが、結論から言えば、患者さんの立場に立てば院内処方の方が安くつきます。
では、すべての人が院内処方を好むかというと一概には言えません。複数の医療機関を受診している場合、薬の飲み合わせといった問題が発生します。医療機関を複数受診していても自分のかかりつけの薬局を決めておくと、薬の飲み合わせに問題が発生したとしても薬局でそれが分かります。
かかりつけの薬局なんてもたなくても、医療機関を受診する度に、他の病院で処方されている薬を話せばいいだけじゃないの・・・
そう感じる人もいるでしょう。その通りで、我々医師は診察の際には、必ず今飲んでいる薬を聞くようにしています。このときにサプリメントや健康食品、市販の薬などについても尋ねるようにしています。
しかし、かかっている医療機関が極めて多い場合や、飲んでいる薬が大量にある場合はかかりつけの薬局をもった方がラクであると考える人もいるわけで、そのような人たちは院外処方の方が安心できるでしょう。
現在の日本では、院外処方にすることが推奨されており、これを促進するため医療機関にとっても院内処方よりも院外処方にする方が利益が出るような仕組みになっています。
これは一般の人からすれば、極めて不可解に感じられるのではないでしょうか。市場経済を考えたときに、その商品を自社で販売するよりも他社に販売させた方が儲かるなどといったことは普通はあり得ないからです。
このカラクリは、処方せん発行料と薬の差益額にあります。
まず、院内で調剤する調剤料や処方料に比べて、処方せん発行料の方が価格(保険点数)が高く設定されているのです。しかし、薬そのもので利益が出るのだから、薬をたくさん処方すれば院内処方の方が医療機関は儲かるのではないかという疑問が出てきます。
しかし、薬の差額(販売額マイナス仕入額)というのは、その薬にもよりますがほとんどありません。なかには、仕入額と販売額が同じものもあります。つまり、その薬をいくら処方しようが医療機関の儲けはゼロなのです。
したがって、医療機関からみたときには院内処方をやめて院外処方にした方が経営的に安定するのです。
さらに、薬を処方する際のヒューマンエラーの問題があります。すてらめいとクリニックでも、薬を患者さんにお渡しするまでに、その薬の種類と量に間違いがないかを複数のスタッフが確認しています。これにけっこうな手間と時間がかかります。
また、薬が品切れするようなことがあってはいけませんから、仕入れ業務にも相当な手間と時間がかかります。薬には使用期限がありますから在庫を置くリスクもありますし、薬のスペースを確保しなければなりませんし、定期的な棚卸しも必要になりますから、院内処方で薬を処方するというのはかなりの負担になります。
低い利益、ヒューマンエラーのリスク、在庫のリスク、仕入れ業務の手間、などを考えると、医療機関にとってみれば院外処方にする方が経営的に有益であると言えるのです。実際、新しく開院するクリニックの大半は院外処方にしているそうです。
では、すてらめいとクリニックでは、なぜ利益が出ずに手間と時間のかかる院内処方にしているのか・・・。
実は、すてらめいとクリニックでも、患者さんには、院内処方、院外処方のいずれかを選択してもらうようにしています。しかし、今年1月のオープン以来受診された約3,500人の患者さんで院外処方を選ばれた方はまだひとりもいません。
つまり、患者さんが院内処方を希望する(あるいは院外処方を希望しない)のがひとつめの理由です。
次回は、患者さんからみたときの院内処方の利点の続きを述べて、さらに医療機関によって医療費に差がでる理由について考えてみたいと思います。
つづく・・・
|
|
| 57.覚醒剤大国ニッポン 2007/10/29 |
|
2007年9月18日、新宿にあるクリニックが依存性の高い向精神薬「リタリン」を投薬の必要のない患者さんに不適切に処方したとして、東京都と新宿区が医療法に基づいて立ち入り検査をしたことが大きく報道されました。
一連の報道で、この「リタリン」という向精神薬が一躍有名になりましたが、実は以前から一部のジャンキーの間ではよく知られており、医療関係者の頭を悩ませていました。
リタリンは、一般名をメチルフェニデートといい、分かりやすく言えば「覚醒剤類似物質」です。そのような薬物が本当に治療に使われるのか、疑問に感じられる方もおられると思いますが、ナルコレプシーという日中に突然眠ってしまう病気に対して処方されることがあります。また、保険適用はなく自費での処方となりますが、注意欠陥性多動障害(ADHD)の治療に使われることもあります。
さらに、重症のうつ病に使われることもあります。しかし、現在ではうつ病には、副作用が少なく安全に使えてなおかつ効果の高い抗うつ薬が多数ありますから、うつ病に対してリタリンが使用されるケースはごく限られています。
以前から、リタリンを大量に服用すると、覚醒剤(メタンフェタミンやアンフェタミン)と同様の効果が得られることはよく知られており、そのため一部のジャンキー(シャブ中)は、クリニックを複数訪れリタリンの処方を求めていました。
(私の記憶が正しければ)2003年には、全国の医療機関に「リタリンを安易に処方しないように」との通達がなされたと思うのですが、その頃には少なくとも医療関係者の間には「リタリン中毒」は大きな問題となっていました。
リタリンを欲しがるジャンキーのなかには、巧妙な手口を使う者もいて、ナルコレプシーについて勉強し、自分があたかもナルコレプシーに苦しんでいるかのように医者の前で演技する者もいます。実際、すてらめいとクリニックにも、「ナルコレプシーの薬を処方できますか」という問い合わせが過去何回かありました。
今回立ち入り検査を受けた東京のクリニックは、一部の報道によりますと、リタリンをほしがる患者に対し無秩序に処方していたそうです。こういった報道が本当だとすると、患者を守るべきはずの医療機関が逆に患者を苦しめることを助長していることになり(リタリン中毒≒覚醒剤中毒で、覚醒剤中毒者が身を滅ぼすのは時間の問題です)、にわかには信じがたいことです。
ただ、この東京のクリニックは、2006年12月、院長が、診察結果の説明を求めた女性患者に対し「説明しても分からないだろう」と暴言を吐いた上に、この患者を壁に叩きつけるなどの暴行を加え3週間のケガを負わせたとして翌月逮捕されていますから、今回のリタリン不適切処方もあり得ることかもしれません。
私はこれまでいろんなところに書きましたが、医師をしていると遺法薬物のユーザーを診る機会が少なくありません。遺法薬物にもいろんなものがありますが、日本ではやはり最多を占めるのは覚醒剤(アンフェタミンとメタンフェタミン)でしょう。より依存性の軽い大麻や、内服が主流なことから安易に服用されるMDMA(エクスタシー)に依存している人も少なくありませんが、日本の覚醒剤ユーザーの多さは異常ではないかと私には思えます。
これはひとつには、日本では以前覚醒剤が合法だったこととは無関係ではないでしょう。かつての日本では「ヒロポン」という名で、覚醒剤が、なんと薬局で合法的に販売されていたのです。世界広しと言えども、覚醒剤が一時的にでも合法だった国は日本を置いて他にはないでしょう。(インドの一部の州やオランダで大麻が合法であることは広く周知されていますが、大麻と覚醒剤では危険性に天と地ほどの差があります)
日本で覚醒剤が広く流通している他の理由としては、「ヤセルために使う」「友達とホンネで話すときのツールに使う(特に若い女性)」「眠らずに働かなければならない」、などが考えられます。
眠らずに働かなければならないときに使える薬は他にはなく、実際「ヒロポン」のハードユーザーは、深夜のタクシードライバーや長距離トラックのドライバーに多かったと言われています。
また、深夜勤務の多い医師の間にも、(人数は多くないと信じたいですが)覚醒剤ユーザーはいます。実際、毎年公表される医師免許停止の処分となった医師の免許停止理由として「覚醒剤取締法違反」というのが必ずあります。2005年に逮捕された覚醒剤中毒の女医については各メディアで大きくとりあげられました。
では、どうすれば覚醒剤ユーザーを減らすことができるのか・・・。
まずは、覚醒剤の危険性を充分に認知させることが必要です。(元)覚醒剤ユーザーと話をすれば分かりますが、彼(女)らはごく軽いきっかけで覚醒剤を始めています。「友達と一緒だったから・・・」、「(静脈注射ではなく)アブリなら安全だと思ったから・・・」、「何回かやればそれで終わりにするつもりだった・・・」、などと答える者が多いのですが、あまりにも覚醒剤を安易に考えすぎです。覚醒剤の味を知ってしまえば、並大抵の努力ではやめられません。タバコとはわけが違うのです。
次に、覚醒剤に関する罪を重くすることも必要だと思います。現行の法律では、初犯なら密造や密売をしておらず個人使用であれば、ほとんどが執行猶予がつくと言われています。この罪の軽さが覚醒剤使用の敷居を低くしているのではないかと、私には思えてなりません。
しかし最も問題なのは、これほどまでに覚醒剤がたやすく入手できてしまう日本の環境でしょう。実際、日本ほど覚醒剤が簡単に入手できる国はないと言われています。(私の知る限り、ヘロイン(麻薬)の日本での入手はむつかしいように思います)
私は、想像を絶するほどの辛い体験をして覚醒剤を断ち切ることに成功した人を何人か知っていますが、彼(女)らでさえ、「今でも目の前にシャブを置かれると誘惑に勝つ自信がない」と言います。実際、「日本に帰ると再びシャブに手を出してしまいそうで怖い・・・」と言って、海外移住を決めるような人もいるのです。
地域の行政と警察には、もっと本腰を入れて覚醒剤追放に力を注いでもらいたいと思います。また、他人任せにするのではなく、学校や家庭にもできることはあるはずです。マスコミの役割も重要です。私が子供の頃には強烈なインパクトのあるテレビCMがありました。
もちろん、我々医療従事者の使命もあります。私個人としては、覚醒剤に手を出したくなるような精神状態の改善や、覚醒剤を断ち切りたいと考えている人に対するサポートなどができれば、と考えています。
ですから、薬物の誘惑に駆られている人や断ち切りたいと考えている人は気軽に医療機関を訪ねてください、と言いたいのですが、患者側からも少し注意が必要かもしれません。
冒頭で述べた東京のクリニックのウェブサイトを見てみると、トップページの目立つところに次の言葉がありました。
過眠性の慢性睡眠障害(ナルコレプシー)治療剤の処方を開始しました・・・
参考:
メディカルエッセィ第20回「覚醒剤中毒の女医」
メディカルエッセィ第21回〜24回「「クスリ」を上手く断ち切るには 」
NPO法人GINA GINAと共に 第13回「恐怖のCM」
NPO法人GINA GINAと共に 第5回「アイスの恐怖」
|
|
| 56.阿部首相と朝青龍と医師の守秘義務 2007/9/21 |
|
9月12日、阿部首相が突然の辞任を発表したことには誰もが驚いたことでしょう。参議院選挙の敗退などで、首相に対する支持率が低下していたのは事実ですが、その一方で依然根強い支持を集めていたのも事実であり、まさか突然の辞任をするなどと予想していた人は皆無だったのではないでしょうか。
突然の辞任をおこなったその原因が病気によるものと説明され、阿部首相の主治医は、その病名を「機能性胃腸症」と発表しました。
「機能性胃腸症」とは精神的ストレスが原因となっている、言わば「心身症」のひとつであります。(「機能性胃腸症」についての詳しい説明は、「はやりの病気2007年9月号」を参照ください)
ところで、通常、医師は診察で知りえたことを他言することはありません。これは診察室で知りえた患者さんの情報に対して守秘義務が発生するからです。この守秘義務は、刑法134条で定められたものであり、違反すれば厳しく罰せられることになります。
では、なぜ阿部首相の主治医が患者である阿部首相の病状について記者会見をおこない、機能性胃腸症という病名まで発表したのかというと、それは「公益性が守秘義務に優先する」という考えがあるからです。
つまり、一国の首相という公人のなかの公人に関する情報は、それが病気であったとしても国民に知らせる義務がある、という考え方です。これは、社会の安定化という点から意味があり、かなりの部分で公人にはプライバシーが保護されないのは止むを得ないことなのです。
一方、横綱の朝青龍が母国のモンゴルでサッカーをおこなっていたことに端を発し、体調不良が報じられるにつれ、病名がマスコミで報道されるようになりました。
朝青龍はプロのスポーツ選手ですから専属の医師がいるはずです。その医師から、スポーツ医学的な観点から病状が発表されるのは、やはりプロスポーツ選手という公的な人物である以上は必要なことだと思われます。
しかしながら、最近の朝青龍の病状に対して、マスコミの報道によりますと、実に様々な医師から様々な病名が発表されています。それら病名は、「うつ病の一歩前」、「急性ストレス障害」、「解離性障害」などです。
「うつ病」「ストレス障害」というのは、その病態を想像しやすいでしょうが、「解離性障害」については一般的には馴染みのない言葉だと思われますので、少し説明をしておきます。
「解離性障害」とは、むつかしく定義すると、「過去の記憶、同一性と直接的感覚の意識、そして身体運動のコントロールの間の正常な統合が、一部ないしは完全に失われた状態」となります。これでは分かりにくいので、噛み砕いていうと、「極めて強いストレスによって、記憶や意識に統一性がなくなる状態」です。もっと噛み砕けば、「過去の記憶や現在の思考がむちゃくちゃになっている状態」です。
解離性障害が進行すると日常生活もままならなくなります。要するに精神疾患のなかでもかなり重症の部類に入るのです。
このような重度の精神疾患をマスコミに堂々と発表することに対して、私は医師として大変疑問に感じます。プロスポーツ選手だからといって、精神疾患の名前まで公表することに違和感を覚えるのです。
今回の一連の報道に対して、「診察した医師が様々な精神疾患を発表したのは、実は朝青龍が望んだことではないか・・・」、という噂もあるようですが、たとえそうであったとしても、医師には刑法上の守秘義務がある以上、(この場合はスポーツ医学に関する病名を除く)病名を発表するのは許されないのではないかと私は思います。
ところで、すてらめいとクリニックを受診される患者さんのなかにも、クリニックで話したことに対して守秘義務が徹底されるのかどうか不安に感じている方がおられます。
クリニックの電子カルテは何重にもセキュリティがかかっていますから、コンピュータを介して患者さんの情報が漏洩されることはありません。もちろん、電子カルテの情報は私も含めてスタッフは外部に持ち出すことができないルールが確立しています。
そして、医師には刑法上の守秘義務があります。
医師以外はどうかというと、看護師には「保健師助産師看護師法」という法律の第42条に守秘義務が定められています。
医師と看護師以外のスタッフにも、個人情報保護法によって守秘義務が発生します。ただし、法律の重みが刑法とはかなり違うことは否めないでしょう。
医療機関で働く者のなかには守秘義務を守っていない者も実際にいます。病院の事務員が、「あたしの働く病院にこの前有名人の○○が健康診断で来たよ」などと自慢げに話しているのを私も聞いたことがあります。
しかし、たとえ有名人であれ(公人の主治医が記者会見をおこなうのは例外)、その内容が健康診断であれ、医療機関で働く者が患者さんの情報を他人に話すことは絶対にあってはならないことです。ここでいう「他人」とは自分の家族も含みます。
医師や看護師だけでなく受付スタッフなども含めて、勤務先で知りえた情報は、たとえそれがどれだけ些細なことであったとしても、文字通り「棺おけまで持っていく」というルールを徹底しなければならないのです。
だからこそ、すてらめいとクリニックでは、ミッションステイトメントの第2条を「患者様のプライバシー遵守を徹底し、クリニックで知り得た情報は自分の家族にも言わない」と、明文化してスタッフ全員が守秘義務をいつも意識するようにしているのです。
実際、守秘義務というのはいつも意識していなければ遵守するのがむつかしいことがあります。
例えば、私の友人(Aさんとします)が、風邪で私のところに受診したとしましょう。翌日に私とAさんの共通の友人であるBさんが同じく風邪でやってきたとしましょう。BさんはAさんと長い間会っておらず、ふと私に「そういえばAさんは最近どうしているのかな・・・」と言ったとします。
このとき、「Aさんとは昨日会ったよ・・・」、とは言ってはいけないのです。こんなときは、「さあ、どうしているのかな・・・」と、昨日会ったことに対しても守秘義務を守らなければなりません。病気の内容を話すわけではないのだから、Aさんが受診したことを話すくらいいいんじゃないの?、そのように感じる人もいるでしょう。しかし、「Aさんと会った」と言ってしまえば、BさんはAさんがどんな病気で受診したのかが気になってしまいます。
守秘義務を徹底するというルールを習慣化できていないと、このケースでいえば、Bさんをだましているような気持ちになってしまうため、慣れるまでは罪悪感に近いような感覚にとらわれることもあります。
医療従事者が守秘義務を遵守する、ということは、おそらく一般の人が思っているよりも大変なことではないかと私は感じています。
朝青龍の病名を発表した医師たちは、守秘義務についてどのように考えているのか聞いてみたいところです。
|
|
| 55.「ダイエットに報奨金」の意味するもの 2007/8/22 |
|
先日、イタリア北部のバラッロ・セシアという町で、ダイエットに成功した住民に報奨金が贈られる、という制度が導入されました。
この制度では、1ヶ月で、男性なら4キロ、女性であれば3キロの減量に成功すれば、50ユーロ(約8千円)の賞金がもらえます。さらに、5ヶ月後にその体重を維持していれば、100ユーロ(約1万6千円)の賞金が交付されます。
人口約7,400人のこの町では肥満が深刻化しており、町長自らがこの制度を提案したそうです。当初の予算は1万ユーロ(約160万円)です。
この地域では、すでに多くの住民が医師や薬局で「肥満証明書」を発行してもらい、「肥満」の登録をおこなっているようです。
イタリアでは人口のおよそ1割に相当する500万人が肥満と言われており、トゥルコ保健相は、この制度を「革新的で前向きな自治体の施策」とたたえ、「結果次第で国として導入できるかもしれない」とコメントしているそうです。
この制度が大変有益なのは、住民と行政の双方にメリットがあるからです。住民側からすれば、健康で美しい身体を手に入れることができる上にボーナスまでもらえます。ボーナスを励みにダイエットをおこなえば成功しやすいかもしれません。
一方、行政側からみれば、住民の肥満を減らせばそれだけ病気が減り、医療費の削減が期待できます。
「肥満は万病の元」と呼ばれるように、肥満はほとんどの生活習慣病の原因です。メタボリック・シンドロームの診断基準に肥満が含まれていますし、高血圧、高脂血症、糖尿病、高尿酸血症などは、初期の段階で肥満の改善を図れば薬に頼らなくてもすみます。
こういった病気が進行すると、いずれ心筋梗塞や脳梗塞がおこることになります。突然心筋梗塞が起こった場合は急死することもありますし、命が助かったとしてもその後の人生はたくさんの薬を飲み続けることになり、また定期的な検査も必要になりますから、医療にかなりの時間とお金をとられます。
ときどき「好きなものを食べまくって心筋梗塞でそのまま逝ってしまえば苦痛も少なくて幸せ」と言う人がいますが、肥満の結果が心筋梗塞になるとは限りません。動脈硬化が進行し、脳梗塞を患った場合、若くして「寝たきり」となることもあります。こうなれば、その後の何十年の人生を「寝たきり」で過ごすことになります。
肥満を放置し糖尿病になった場合、その後の人生は大きく変わります。目が障害され視力を奪われ、足が腐り切断を余儀なくされ、腎臓が破壊され人工透析を強いられます。週に何度も透析を受けるために通院しなければなりませんから、病院が生活の中心になります。
このような「肥満の成れの果て」は、患者当事者からみれば、できるだけ、というよりなんとしても避けたいものですが、行政側からみても同じです。例に示した、心筋梗塞、脳梗塞、糖尿病からの人工透析などは、ひとりあたりの年間の医療費が数百万円になります。入院を繰り返せば1千万円を軽く越えるでしょう。
さて、報奨金目当てにダイエットをおこなう人で実際に成功するのはどれくらいの割合でしょうか。もちろん、誰もが成功するような課題であればこのような制度は誕生しませんから、「肥満」の登録をおこなった住民が全員報奨金を手にするということはないでしょう。ダイエットとはそんなに容易なものではないからです。
つまり、行政が報奨金を出してさえも成功しない人は少なくない・・・、これがダイエットの真実なのです。
すてらめいとクリニックに通院されている患者さんのなかにもダイエットに取り組んでいる人は少なくありません。なかには、1ヶ月で7キロの減量に成功した人もいれば、数ヶ月たってもまったく進展のない人もいます。
すてらめいとクリニックでは、効果的な減量ができるような薬剤(主に漢方薬)を患者さんの特性をみながら処方していますが、これは食事療法と運動療法の双方をしっかりとおこなってもらうのが前提です。食事と運動の重要性をないがしろにして「ヤセル薬」に頼ろうとしても結果は目に見えています。ダイエットに「王道」はない、というわけです。
薬剤に詳しい人なら、マジンドールやシブトラミンがあるじゃないか、と思われるかもしれません。これらはいずれも食欲抑制剤で肥満の治療に使われることのある薬剤です。マジンドールは日本でも極めて高度な肥満症の場合には保険適用があります。しかし、使用は長くても3ヶ月までと決められていますし、副作用の少ない薬剤ではありません。シブトラミンは日本では取り扱われていませんが、インターネットで海外から比較的簡単に入手できます。
こういった薬剤の危険性はこのウェブサイトでも何度か指摘してきましたが、実際、個人輸入の結果、死亡にいたったというケースは少なくありません。おおざっぱに言ってしまえば、食欲抑制剤というのは覚醒剤に近いようなものです。覚醒剤をキメれば食欲がなくなりますから若い女性が覚醒剤にハマる理由のひとつがダイエットです。(日本では以前は覚醒剤(ヒロポン)が合法でしたが、その効果・効能に「痩身」と書かれていたことを思い出しましょう)
先日、知人から興味深い体験談を聞きました。その知人の知人(主婦)がアルバイトをしたそうなのですが、その内容は「3ヶ月で10キロ太れば10万円」というものです。しかもアルバイト先の会社に行くのは初めの日と3ヵ月後の2回だけで、あとは家でテレビをみながら好きなものを食べるだけだそうです。
このいかがわしいアルバイトのカラクリは次のようなものです。太りだす前の写真と太ってからの写真を撮影します。そしてそれら2枚の写真は週刊誌のダイエット製品の広告に載せられます。
もちろん、ダイエット製品使用前が3ヵ月後の10キロ太った写真、使用後が太りだす前のやせているときの写真です。
|
|
| 54.ある薬物中毒者との約束 2007/7/23 |
|
以前、私がある病院の救急外来をしていた頃の話です。
深夜に50代の男性が救急車で運ばれてきました。救急隊の話によれば、その男性は二階にある自分のアパートの窓から飛び降りて足を骨折している疑いがあるとのことでした。それを見た通りがかりの人が救急車を要請したそうです。
救急隊は「患者さんとコミュニケーションがとれなくて困っている」と言っていましたが、私はその患者さんの姿をみたときに、覚醒剤中毒者であることがすぐに分かりました。
両手が震えており、こちらの質問には一切答えず、なにやら呪文のようなものをぶつぶつと呟いています。目の診察をすると瞳孔が開いています。
覚醒剤が怖い理由のひとつは、キマったときに必ずしも”いい状態”になるわけではない、ということです。
女子高生らがおこなうことのある「スピード・パーティ」(覚醒剤は以前はシャブと呼ばれていましたが、最近は”スピード”、あるいはその頭文字をとって”エス”と呼ばれることが多いようです)では、みんながホンネで話せるようになりますし、試験前に徹夜をしたり、深夜のドライバーが眠気覚ましに使ったり、あるいはヤセル目的で使うときには、当事者にしてみれば”いい状態”になります。(もちろん、本質的には”いい”ことでは絶対にありません)
しかし、いつも”いい状態”になるわけではなく、”悪い状態(バッド・トリップ)”にはまってしまうこともあります。これは、本人の精神状態があまり良くない状態で覚醒剤がキマったときにおこりがちです。
こうなると、恐怖感や被害妄想が増幅され、ときには自傷行為にいたることもあります。救急車で運ばれてきたこの男性も、「FBIに追跡されているので逃げようとして窓から飛び降りた」と小さな声で話していました。
(医学の教科書には、「統合失調症になると、FBIに追跡されている、と言うことが多い」、と書かれています。たしかに、統合失調症の場合も患者さんはそのように言うことがあるのですが、私の経験で言えば、統合失調症の場合に比べて、覚醒剤中毒者の発言の方が話に整合性があるように思えます)
覚醒剤がキマっていることを確信して尿検査を実施したところ、案の定、メタンフェタミンに陽性反応がでました。レントゲンで骨折はありませんでしたが、この状態で家に帰すわけにはいきません。入院の手続きをおこない、点滴を開始しました。
翌日のことです。その患者さんに覚醒剤の話をしたところ、その患者さんは「お願いだから警察には言わないでほしい」、と私に嘆願してきました。
詳しく話を聞いてみると、その患者さんは、「以前は覚醒剤にどっぷりとつかっていたけれども、ここ数年は手を出していなかった。最近、会社をクビになって自暴自棄になってついつい手をだしてしまった。もう二度と手を出さないから警察には言わないでほしい」と言います。
医師をしていると、覚醒剤中毒者に会う機会は少なくありません。深夜に眠れないと言って救急病院に飛び込んでくる患者さんのなかで覚醒剤中毒者は珍しくありませんし、独特の振る舞いを観察すれば比較的簡単に診断がつきます。
そして、覚醒剤中毒者が”嘘つき”なのは世間の常識です。覚醒剤を買うために家族や知人から金を借りるときにはありとあらゆる嘘をつきますし、いったん依存症になった人が「もう覚醒剤はやめた」という発言は、結果としてそのほとんどが嘘です。
ですから、この患者さんがいくら真剣な顔をして一生懸命に訴えたとしても”二度と手を出さない”という言葉は簡単には信用できません。
しかしながら、この患者さんが覚醒剤を使用していたことを警察には通報すべきなのでしょうか・・・。
医師には守秘義務があります。これは個人情報保護などのレベルの話ではなく、医師には刑法上の守秘義務があるのです。「診療上知りえた情報は決して他言してはいけない」という厳しいルールです。もしも違反をすれば、個人情報保護法ではなく、刑法で裁かれることになります。
しかし、その一方で、公益性を優先するという考えがあってもいいと思われます。この患者さんの覚醒剤使用を警察に通報することにより、治安が維持でき不利益を被る人を未然に防ぐ、という考え方です。実際、もしも、この患者さんが覚醒剤の個人使用だけでなく販売もおこなっていたとすれば、私は躊躇せずに警察に通報したでしょう。
しかし、この患者さんは密造や密売をしているようには思えませんでしたし、”もうやらない”という言葉は結果的には嘘になるとしても、「数年ぶりに手をだした」というのは本当かもしれません。
悩んだ私は、ある法医学の先生を訪ねることにしました。その先生のコメントは次のようなものです。
「例えば、その患者さんが数年前に覚醒剤に手をだしていたけれど現在は完全に断ち切っているような場合は守秘義務を守るべきだろう。しかし、今現在も使用している場合は通報しても守秘義務違反を問われるようなことにはならない。たしかに法学者の間でも意見の分かれる問題ではあるが・・・」
結局、私はその患者さんの「もうやらない」という言葉を信じることにしました。結果として「もうやらない」という言葉が嘘になる、つまり約束を破ることになる可能性が強いのですが、そのときはその言葉を信じることにしたのです。
これは、今になってふりかえってみても「守秘義務を守るべきだと思った」というようなものではなく、なんとかその患者さんに立ち直ってほしかったという気持ちが強かったからだと思います。
その患者さんは、覚醒剤のために、仕事をなくし、家族をなくし、新しい仕事もなくしています。友人にも見放され、信用してくれる人は皆無です。
入院中、娘に会いたいとの希望を話されたために、私は娘さんに連絡をとり一度だけ病院に来てもらったのですが、その娘さんには父親との仲を修復する意思はありませんでした。
「あの人は父親ではありませんからもう二度と連絡をしないでください・・・」
その娘さんは私にそう言って帰っていきました。娘さんが帰った後、その患者さんが私に言いました。
「(覚醒剤は)もうやらない・・・」
|
|
| 53.”気付いたモン負け”というルール 2007/6/25 |
|
私が医学部に入学したのは27歳のときですが、それまでは在阪の商社で四年間サラリーマンをしていました。この会社は、大企業とは呼びがたく、また世間での知名度はそれほど高くないのですが、今思い出してみても本当にいい会社だったと思います。
実際、私はサラリーマン時代を通して、実に様々なことを学びました。私が多少なりとも習得できたことは、ビジネス英語、貿易事務、翻訳・通訳業務、ビジネスレターの書き方、英文タイプ(おかげで私はパソコンは苦手ですがブラインドタッチはできます)、会議資料の作り方、プレゼンテーションの仕方、様々なマーケティング手法、・・・、などが挙げられます。
しかしながら、私がこの会社で四年の月日を過ごし最も収穫となったのは、同僚や先輩から数多くのことを学べたということです。あれだけ素晴らしい方々と一緒に仕事ができたことは自分の財産でありますし、今の自分があるのはあの頃の経験があったからだと自負しています。現在の私の最大の楽しみのひとつは、ときおり開かれる(元)社員の飲み会です。
さて、今日は、私がサラリーマン時代に学んだことのなかでもとりわけその後の自分自身に影響を与えてきたひとつのルールをご紹介したいと思います。
そのルールを、”気付いたモン(者)負け”のルールと呼びます。
今の世の中では、社員どうしで飲みに行って仕事の話をする、というのはあまり格好のいいことではないのかもしれませんし、社員どうしで飲みに行くこと自体が流行らないのかもしれませんが、私がその会社にいた頃は、よく社員どうしで飲み会を開き、仕事の話で盛り上がりました。
もちろん、初めから終わりまで仕事の話をするわけではありませんが、みんなが仕事にやりがいを感じ、楽しんで仕事をしていましたから、自然に話題は仕事に向かうのです。よく、社員どうしで飲みに行くと上司や会社の悪口に始終する、という人がいますが、当時の私たちの話題の大半は、「今すすめているプロジェクトをもっと拡大すべきだ」、とか、「今の○○部の問題点はここにあるからこう改善すべきだ」といった夢のある(と言えばおおげさでしょうか・・・)話になります。
その会社の飲み会が大変おもしろかった理由のひとつは、いろんな部署の人たちが集まってきていたことです。昼間の勤務時間には、他部署の人とはなかなかホンネで話せませんから、飲み会の場で初めて、「ああ、△△部の人たちは、あの問題にはそのような考えを持っていたのか・・・」、などということが分かるのです。
それで、例えば、ある人が、「現在の◇◇という商品は、大変すぐれたモノで、かつ価格も安い。関東では売れているのに関西では売り上げが芳しくない。だからやりようによってはもっともっと売れるはずだ」、というようなことを言ったとします。それに対して、その場にいる人たちが賛同したとします。
「それではその企画について実現していこう」というコンセンサスが得られたとき、「じゃあ、誰がリーダーとなるんだ」、というのが問題になります。このとき、リーダーとなるのは、必ず「その問題を提起した人」です。そして、これを「気付いたモン(者)負けのルール」と呼びます。
この場合、たとえその問題を提起した人が新入社員であってもかまいません。新入社員であろうが課長であろうが、言い出した者がリーダーとなるのです。もちろん、リーダーだけが仕事をするのではなく、その場にいてその案に賛同した人たちはフォローワーとなります。
というわけで、私が働いていたその会社では、非公式のプロジェクトチームが次々と誕生していました。こういったプロジェクトはなにも売り上げに直接寄与するものだけではありません。例えば、業務システムの改善とか、新しいファイリングシステムの構築、といったプロジェクトも数多くありました。
「気付いたモン負け」の”負け”というのは、もしかすると関西特有の表現なのかもしれません。(少なくとも英語に直訳すれば意味不明になります・・・)
給料がアップするわけでもないのに、自分が言い出したがために仕事の量が増えます。当初は考えてもみなかった困難が次々に現れ予想外の苦労を強いられることもよくあります。それに、プロジェクトはいつも成功するとは限りません。狭い意味での「損得」という概念で考えると、気付いたモンが”損=負け”となります。
もちろん、プロジェクトが成功すれば純粋に嬉しいですし、その後の飲み会はさらに楽しくなります。では、成功したときの喜びだけを考えて我々がそのプロジェクトに取り組んでいたのかと言えばそういうわけでもありません。
「気付いたモン負け」という言葉の本質は、「損得でなく問題を見つけたならば取り組まなければならない。それが社会でスジを通すということだ」ということなのです。
何をするにも自分にとって損か得か、と考える人もいるかもしれませんが、世の中とはそんなものではないのです。「なぜ(得にもならない)そんなことをするのか」と尋ねられれば、「問題に気付いたからする!」、これで充分な答えとなっています。
このことを学んだことが、私がサラリーマン生活を通して得た収穫のひとつです。
さて、その後の私の人生は、特に転機となる場面では、この「気付いたモン負け」というルールがよく適用されています。
医学の知識を得た後に社会学を研究すると決めたこと(結局、臨床医となりましたが・・・)、患者さんは必ずしも医療機関を信頼しているわけではないことを知り、そんな患者さんの力になることを決意したこと、エイズで困窮している人たちと知り合いNPO法人GINAを立ち上げたこと、都心で苦しんでいる人たちが気軽にアクセスできるクリニックがないことを知り、ならば自分がつくろうと決心したこと、・・・、これらのモチベーションは、すべて私が問題点に”気付いた”ことによるものです。
不器用な生き方かもしれませんし、要領が悪いかもしれません。損得勘定だけで行動をとっている人からは理解されないでしょう。
それでも私は、今後もこの「気付いたモン負け」のルールを守っていくことになるでしょう。
それは、このルールが社会の真実であることに”気付いた”からです・・・。
|
|
| 52.目標は患者数ゼロ?! 2007/5/22 |
以前、私の尊敬するある医師に質問をされたことがあります。
「医師の究極の目標は何か分かるか?」
何と答えていいか分からず黙った私にその先輩医師は言いました。
「それは、患者数をゼロにすることや」
患者数ゼロ・・・、これでは病院の経営が成り立たなくなりますし、医師は失業してしまいます。
その先輩医師は患者数ゼロが目標であるその理由を話してくれました。先輩医師の話をまとめると次のようになります。
現在、日本の病院には、本当は病院に来なくてもいいと思われる患者さんが少なくない。過剰に心配しすぎて些細なことで何度も医師にかかろうとする人もいれば、まるで待合室をサロンのように考えて近所の人たちと話をしにくることを目的に通院しているような人すらいる。このような人たちに通院は不要であることを分かってもらうことも医師の仕事のひとつである。
たしかに、この先輩医師の言うことは正論です。実際、ごく軽度の頭痛でMRIを撮ってほしいと言って病院を受診する患者さんや、「胸のレントゲンを撮りましょうか」、と言うと、「レントゲンではなくCTを撮ってください」、という人もいます。「もう注射や点滴は必要ないですよ」と言っても、「点滴をうたないと元気がでないんです」、と言って毎日のように点滴をうちにくる人もいます。
もちろんすべての症例にあてはまるわけではありませんが、医師からみて、「それは過剰な検査や投薬だろう・・・」と思うことでも、ときに患者さんは求めてこられます。
そんなとき、ほとんどの医師は、なぜ今その検査や投薬が必要でないかを患者さんに理解してもらおうと努めます。つまり、医師というのは、できるだけ過剰な検査や投薬を避けようと考えているのです。
しかしながら、このことは世間一般ではあまり理解されていないように感じることもあります。
例えば、ある大手新聞の5月11日の夕刊に掲載された医療関係の記事には次のような表現があります。
「医療機関は検査や投薬をすればするほど収入は増えるため、必要のない診療行為をする例も目立つ」
果たしてこのようなことを考えている医師は本当に存在するのでしょうか。言うまでもなく、医師は患者さんのために存在するものであって、常に患者さんにとって最善の方法を考えながら治療をおこなっています。検査や投薬は患者さんの利益になるからこそおこなうのであって、それは医療機関のためのものではありません。
しかし、先に述べた大手新聞の記事にみてとれるように、この点はあまり理解されていないのかもしれません。
昨今、病院を株式会社にしようとする議論が浮上していますが、私を含めてほとんどの医師が反対する理由はここにあります。医療機関は患者さんのためのものであって、株主のものとなるようなことは絶対に避けなければなりません。アメリカでは医療機関にも市場原理を取り入れて株式会社化している病院が増えていますが、株式化してから治療成績や患者満足度が低下している施設が少なくないのです。
もしも病院が株主のものであれば、不必要な症例に対してまで、高額な検査や投薬がおこなわれることになりかねません。そんなことは絶対にあってはならないのです。
さて、冒頭で紹介した先輩医師は、患者ゼロを目標にすべき理由としてもうひとつの例を話してくれました。それをまとめると次のようになります。
予防をしていないことが原因で病院に来ざるを得ないような患者さんも少なくない。糖尿病や高脂血症といった生活習慣病がその典型で、日頃から食事や運動に取り組んでいれば病気になることを防げたと思われる人があまりにも多く、そのような人たちに対しては健康なときから予防の大切さを理解してもらうのも医師の仕事である。
これもまさに正論であり異論はありません。私は常日頃から、患者さんに、「最低でも年に一度は健康診断を受けるようにしてください」と言っていますが、病気というのは早期発見が大変大切なのです。
生活習慣病もそうですが、他にも早期発見・早期治療が大切な病気はいくらでもあります。
もう少し早く来てくれたらごく軽い薬だけで済んだのに結果としてきつい薬を使わざるを得ないという症例や、点滴に通ってもらわなければならないようなケースもあります。
心の病でも同じです。早めに来てくれれば対処方法があったかもしれないのに、症状が進行し、仕事を辞めてから初めて受診する人や、なかには自殺未遂をおこなってから来られる人もいます。
一方では些細なことを過剰に心配する人がいて、その一方ではなかなか医療機関にかからずに症状が進行するまで放っておく人もいるのが現実だというわけです。
都心に住む人たちのなかには(地方でも同じかもしれませんが)、健康診断を何年も受けていない、という人が少なくありません。大きな企業に勤めていなければ健康診断の機会がないのかもしれませんが、健康診断くらいならどこのクリニックでもおこなうことができます(もちろんすてらめいとクリニックでもおこなっていますし、実際健康診断目的の患者さんも増えてきています)。
また、健康診断の機会を待たなくとも、気になる症状があれば気軽にクリニックで相談すればいいのです。過剰に心配して不必要な通院を繰り返す前に、その症状に対する適切な検査と(必要であれば)治療をおこなえば、無駄な時間と無駄なお金を費やさずにすむというわけです。
患者数ゼロ、というのは究極の理想ですが、私自身としては、当面の目標を「患者さんの通院を最小限に」としていきたいと考えています。 |
|
| 51.ある同級生に感謝していること 2007/4/25 |
|
以前別のところにも書きましたが、私が医師になってまだ2ヶ月しかたっていない2002年の7月、大学病院の近くの路上で交通事故に会いました。
結局、その後27日間の入院生活を強いられることになったのですが、この入院生活は今思い出してもかなりの苦悩が伴うものでした。
激痛ではないものの鈍い痛みが首と右腕を常に支配し、どのように表現していいか分からない不快な頭重感、それに右腕のしびれや脱力感と共存しなければなりませんでした。右手にはほとんど力が入らずに、ペンや箸はなんとか持てるものの、少し重いドアを開けることすらままならない状態でした。
しかし、私を最も苦しめたのはそういった身体的な苦痛よりもむしろ精神的な閉塞感でした。なにしろ、医師になってまだ2ヶ月しかたっていない時の入院生活です。早く仕事を覚えなければならない時期なのにもかかわらず安静を強いられるのです。
医師の仕事を続けることはもうできないかもしれない・・・、そんな考えさえいつしか頭を支配するようになりました。特に辛いのが夜です。ほとんどの患者さんがそうであるように、私の痛みも日中よりも夜間に増強されます。少しでも痛みが軽減される姿勢を探すのに一晩中かかって、結局ほとんど眠れないという日もありました。強力な睡眠薬を使っても、不安感が薬の効能を打ち消します。
入院生活を通して何人かの友人・知人が見舞いに来てくれたことは心の支えになりましたが、単に挨拶に来ただけ、と明らかな社交辞令風の人もいて、そういうときはかえって精神状態が悪くなります。
一方で、私の立場に立って話を聞いてくれるような人たちもいて入院生活の励みになりました。今回は、そんな心優しい人たちのなかでも私が最も印象に残っているひとりの女性について思い出してみたいと思います。
その女性は私の医学部の同級生です。私が医学部に入学したのは4年間のサラリーマン生活を終えた後の27歳のときですが、その女性は現役で入学していますから私とは9歳年が離れていることになります。
当時は医学部を卒業した後は卒業生の大半が大学病院で研修を受けていました。私もその同級生も大学を卒業し、そのまま大学病院で研修医生活を送っていました。
入院してちょうど1週間が過ぎようとしていたある夜にその同級生は私のベッドサイドにやってきました。それまでも他の同級生たちが何人かは見舞いに来てくれていましたが、仕事が忙しいこともあって、たいていは挨拶程度の話しかせずに数分で去っていきました。同じフロアで働く同級生さえも、それほど長い時間滞在せずに仕事に戻っていました。
1年目の研修医は寝る時間もないほどに忙しいものですから、短時間でもベッドサイドに来てくれることに感謝しなければならないのは分かるのですが、やはりひとりの患者としてみると少し寂しい気もします。
そんななか、その同級生はある晩突然やって来て、1時間以上も私のそばにいてくれたのです。私はその女性とは学生の頃から仲がよかったとは思いますが、例えばふたりで食事にいくような関係ではありません。おそらくふたりでじっくり話をしたことなどそれまではなかったと思います。
けれども、そのときその同級生は、どこからか椅子をもってきてベッドに横たわっている私の横に座り、ゆっくりと私の話を聞いてくれたのです。
私はどちらかと言うと、自分が話すよりも相手の話を聞くことの方が多いのですが、そのときは、彼女の話を聞くのではなく、一方的に私が話しをしていることに会話の途中で気づいたのを今でも覚えています。
しかも、私の話していたことは他愛もないことばかりで、彼女にとって興味深い話はほとんどなかったと思います。それでも彼女は、ときには相槌を打ち、ときには笑顔を浮かべ、ときには私の気持ちが分かると言い、私の話に付き合ってくれたのです。
気がつくと1時間以上も経過していました。私は、彼女が仕事を途中で中断して見舞いに来てくれていることを思い出しました。おそらく、彼女はこれからカルテの整理やレポートの作成などで少なくとも数時間は病院に残らなければならないはずです。私は、大変申し訳ない気持ちに駆られましたが、あえて謝りの言葉は述べず、代わりにお礼を言って彼女の背中を見送りました。
彼女が去ってからも、心の重荷がすーっとおりて身体が軽くなったような感じが続いていました。前日まで強力な睡眠薬を倍量飲んでも寝られなかったのが、その日は担当の看護師が睡眠薬を持ってくる前に深い眠りに落ちていました。
薬よりも手術よりも優れた治療法・・・、とまでは言えないでしょうが、「患者のそばでじっくりと患者の話を聞く」というのは、患者さんの精神状態を安定させるだけでなく、身体的苦痛を取り除くことさえあるということが、ひとりの同級生のおかげで分かりました。
実際の臨床の現場では、ひとりの患者さんに時間を取り過ぎることが許されないケースが多々あります。他の患者さんを待たせることになりますし、病院やクリニックの経営的な観点からは非効率だからです。
しかしながら、ときに医師が患者に共感すること(これを「ラポール」と言います)が既存のどんな治療法よりも優れていることがあるということは、医療者はもっと注目すべきではないかと私は考えています。
これを書いている今、あのとき見舞いに来てくれたあの同級生とはもう5年近くも会っていないことに気付きました。彼女がいま、どこの病院で働いているのかを私は知りませんが、きっと患者さんから大きな信頼を寄せられる医師になっているに違いありません。
|
|
| 50.「医療クライシス」を打開する方法 2007/3/20 |
2月24日の毎日新聞に、「医療クライシス」というタイトルで、医療関係者の声が特集されています。少し紹介しますと、
「(医師の仕事は)どれだけ過酷な勤務か知っていますか。(中略)医者を選んだのは人生の失敗でした」(40代開業医)
「結果責任を問われ、心身をすり減らして治療しても、感謝されるどころか疑いの眼を向けられることも多くなっている」(30代勤務医)
「医療に携わるなら、ある程度はボランティアのような覚悟で望まなければならないのは分かっていたが、過労死認定基準を大幅に超えていることには驚いた」(医学部を目指す女子高生)
・・・・・・
このような意見が多数集められているのですが、これらをまとめると、「医師の勤務時間は極めて長い割には報酬もそれほど多くなく、責任が非常に重く、一生懸命やってもそれほど感謝をされない」、ということになります。
もちろん、すべての医師がそのように感じているわけではありませんが、最近はこのように否定的な思いを持つ医療従事者が増えてきているのは事実です。
しかし、これらは突然そうなったわけではなく、以前から事情はそれほど大きく変わるわけではありません。細かいことを言えば、新研修医制度の導入で大学に残る若い医師が減少し、そのため大学傘下の病院から医師を引き上げざるを得ず医師の数が減る病院がある、とか、最近の医療訴訟の増加で医師をやめていく者が増えてきている、とかいったことはありますが、勤務時間が長い、報酬は多いわけではない(ただし少なくはありません)、責任が重い、感謝されないことも多い、などというのは今に始まったわけではありません。
「今に始まったわけではない」と言っても、私自身も医師として、こういった現状に満足しているわけではありません。満足しているわけではありませんから、自分の意見を本にも書いたわけです。
その意見をここで改めてご紹介すると、
医師の数を倍にせよ!
というものです。医師の数を倍にすれば、単純計算すればひとりあたりの患者さんの数が半減しますから、勤務時間が長い、という問題は解消されるでしょう。
しかし、医師の数が倍になれば、医療費が増額されない限りは、報酬は半減します。医療費を増額せよ、という意見もあります。OECD(経済協力開発機構)の2003年のデータによりますと、GDPに対する医療費の占める割合は、OECD平均が8.6%なのに対し、日本は7.9%です。G7だけでみると10%を超えていますから「先進国」のなかでみれば日本は医療にお金をかけていない国ということになります。(ちなみに、30ヶ国中1位は米国の15.0%、最下位は韓国の5.6%です)
したがって、この各国のGDPに占める医療費の割合の国際比較を持ち出して、医療費を上げるべきだ、という主張をときどき聞くことがあります。これはまったく正しい主張だと私は思いますが、残念ながら、日本政府は「はいそうですね。じゃあ来年から予算を上げますね」とは言ってくれません。
ということは、言い続けることは重要だとしても、当面の間は医療費の増額というのは期待できないわけです。もしも、医師の数が倍になり医療費が増額されないとすると報酬は半分になります。報酬が半減と聞くと、たしかにぞっとしますが、勤務時間も大幅に減少しての報酬半減です。
医師の仕事を一生懸命すればするほどプライベートな時間は犠牲となります。家族と過ごす時間が充分であると考えている医師などまず皆無ですし、時間がとれないことが時に家族関係を悪化させることもあります。
例えば、私の知り合いのある男性医師は、夜中に頻繁に病院から呼び出されるのですが、急変した患者さんがいれば駆けつけるのが当然という考えを持っています。しかし、この男性医師の奥さんはこの行動が理解できません。奥さんの言い分はこうです。
「本来の勤務時間以外の時間に出勤するなら時間外手当をもらうべき。そもそも医師という仕事は残業代がないのもおかしい。休みは月に一度あればいい方だし、これはあきらかな労働基準法違反だ」
この奥さんの言っていることも理解できます。「残業代」とか「休日出勤手当て」などというのは医師の世界ではほぼ皆無ですし、土日には学会・研究会などで出張費や宿泊費も自己負担で全国にでかけますから、医師の世界を特殊な世界と感じるのも無理はないでしょう。
もしも、医師の数が倍増して、夜間にも複数の医師が待機できるような状況を整えればこの奥さんの悩みは解決するかもしれません。たとえ収入が半減したとしても家族の時間は確保できるというわけです。
医師数が足らないのは勤務医だけではありません。開業医だって同じです。例えば、私は1月から一応開業医ということになりましたが、これまで勤務していた複数の病院では引き継いでくれる医師がいないため今も勤務を続けています。夜間の当直勤務も月に3〜4回はおこなっています。夜間は勉強や学会発表のための準備などに時間をとられ睡眠時間を削らざるをえませんから、プライベートな時間などほぼ皆無です。
もうひとつ例をあげましょう。開業医には70歳を超えても仕事を続けている人が少なくありません。なかには80歳を超えても現役でがんばっている医師もいます。こういう医師たちはお金のために働いているのではもちろんありません。むしろ、これまでに蓄えたお金と年金で老後をのんびりと過ごしたいと考えている人たちも少なくないと思います。にもかかわらず、仕事を続けなければならないのは、仕事をやめると患者さんの行き場がなくなるからです。「私は今月かぎりで医師をやめますから、次からは別の病院に行ってください」とはなかなか言えるものではないのです。診療所を引き継いでくれる医師を探しているが見つからなくて困っている、と言っている年輩の開業医も少なくありません。
「医療費を増額せよ」に比べると、「医師の数を増やせ」という議論はそれほど活発にはおこなわれていないように感じますが、現場で働く多くの医師は、「収入が減っても勤務時間を減らしたい」と考えているのです。(少なくとも私はそう感じています) |
|
| 49.全人医療への道のり 2007/2/19 |
最近出席したプライマリケア関連の研究会で、ある大学の教授が、その大学での医学部生の教育について講演されていました。
その大学では非常にすぐれた教育システムをとっているようで、その講演を拝聴してまず感じたのは“羨望”でしたが、私の心のなかでもうひとつの気持ちが湧き上がってきました。その気持ちとは”なつかしさ”です。
その大学の教育システムでは、1年生のうちに「アーリー・イクスポージャー(
early exposure)」と呼ばれる、いわゆる「早期研修」があります。私の出身の大阪市立大学にもこの研修制度があり、私は講演を聞きながら、もう10年以上も前の自分がその研修を受けたことをなつかしく思い出したのです。
医学生といっても1年生のうちは医学の知識などほぼ皆無で、医療に対する感覚としては一般の患者さんとなんら違いはありません。早期研修では、医学生が何の知識も技術もない、いわばまだ”白紙”の状態であるうちに病院実習をおこないます。
この実習では、医学部1年生は医師の仕事を見学するのではなく、看護師について実際の看護業務を手伝います。手伝うといっても、シーツ交換すらろくにできない医学生は、実際には足手まといになっているだけなのですが・・・。
私は医学部入学当初は医師(臨床医)を目指していたわけではなく、将来は医学の研究をおこないたいと考えていました。そのため、この早期実習には初めから乗り気でなく、実習が必修だったため仕方なく参加したというのが正直なところです。しかし、2日間の実習を通して次第に臨床の現場に興味をもつようになりました。(もっとも、この実習を終えた後も自分は研究者になるんだという決意は変わらず、臨床医を目指しだすのは医学部の3年生の頃です)
私が早期研修を受けた大阪市内のその病院では、すべてのスタッフの患者さんへの対応が本当に素晴らしいものでした。医学部に入学した頃の私は、臨床に興味があったわけではありませんし、臨床に対してなんとなくイメージしていたのは、マスコミの報道などによる医療ミスとか脱税とか、そういった否定的なものでしたから、予想と現実の大きなギャップに驚いたのです。(マスコミの医師や病院に対する報道は否定的なものが圧倒的に多いのです・・・)
患者さんの立場にたって業務をおこなっているスタッフというのは医師や看護師だけではありません。事務や受付の人々まで、まさにスタッフが一丸となって患者さんのケアに取り組んでいるといった感じでした。
2日間私につきっきりで指導してくれた看護師が私に話してくれた言葉は今でも覚えています。その病棟は整形外科病棟で様々な年齢層の患者さんが入院されていました。その看護師は患者さんに応じて、ときには厳しく、ときには患者さんの手をとり、10代の男性に対しては姉のように、70代の女性に対してはまるで孫のように接していました。そして私に言いました。
「あたしたちは患者さんの病気や怪我をみてるだけじゃないの・・・。患者さんが安心して入院生活を送れるようにいろんな手助けをしているのよ・・・」
この言葉が単なる美辞麗句ではなく、行動の伴ったものであることはすぐに理解できましたが、私には、なぜスタッフ全員が患者さんの立場に立ったケアが徹底しておこなえているのかが不思議でした。その頃の私はそれなりにいくつかの社会を経験していましたから、人間が善人だけでないということも知っていたからです。
2日間の研修の最後におこなわれた反省会でその謎が解けました。
反省会はその病院の会議室でおこなわれ、研修をおこなったわれわれ医学部1年生や医学部の教師のほか、その病院の看護師長も参加されました。その会議室の壁にかけられていた額には「全人医療」という言葉がありました。そして、われわれは、その看護師長から「全人医療」についての話を聞きました。
「全人医療」とは、患者さんの臓器、例えば肝臓の悪い人なら肝臓だけを、目の悪い人なら目だけをみるのではなく、その人の心理的あるいは社会的苦悩にも配慮し、患者さんの人格を尊重した医療である、というようなことをその師長は話されていました。
先にも述べたように私はこの時点では臨床医を目指していたわけではなく、そのときは、スタッフの患者さんへの態度に感銘を受けたのは事実ですが、将来的には自分にはそれほど関係のないことだろうと感じました。しかし、その言葉が心のどこかにずっと残っていたのは間違いありません。(現にこうして今でも覚えているのですから・・・)
私はこれまでに、研修やアルバイトも含めれば20以上の病院や診療所で診療をおこなってきましたが、看護師を含めたスタッフの対応というのは病院によって様々です。なかには、これで患者さんの立場に立った医療がおこなえているのか・・・、と思わずにはいられないような、自分が患者なら受診したくない病院というのもあります。
しかし、その一方で、どうしてこんなにも素晴らしいスタッフばかりがそろっているんだ・・・、と感じるような病院もあります。先にのべた私が早期研修を受けた病院もそうですし、私が研修医の頃にお世話になった病院もそうでした。その病院で主任をされていたある看護師はこのように話していました。
「この病院では全職員は採用になったときから、いえ、看護師の場合は、(その病院附属の)看護学校に入学したときから、徹底して”患者さんの立場にたった医療”の教育を受けるの。だから、多くの患者さんや、そして先生たちも、この病院に来て驚くのよ。だけど、あたしたちにとっては当たり前のことなの・・・」
「全人医療」という言葉にこだわる必要はありませんが、いつの頃からか私は患者さんの臓器だけをみるのではなく、その患者さんの社会背景や心理状態にも配慮できるような医師になりたいと思うようになっていました。最終的には、大学の「総合診療科」に所属し、今も総合診療(=家庭医療=プライマリケア)を実践しているのは、そういう思いもあるからです。
しかし、私自身が実際に「全人医療」ができているかと問われれば、自信をもってできているとは到底言えません。たしかに、すてらめいとクリニックでも患者さんのなかには複数の訴えを話される人がいますが、それは単に臓器の数を足しただけであって、「全人医療」からは程遠いもののように思えます。
「個人の単なる集合」と「組織」は異なるように、あるいは「部分の総和」が「全体」ではないように、単に複数の訴えを聞いて治療をおこなったからといって、それが「全人医療」になるわけではありません。
私の「全人医療への道のり」はまだまだ続きそうです・・・ |
|
| 48.あなたはAEDが使えますか 2007/1/20 |
それは私が医師1年目、ある病院の救急部で研修を受けていた頃の話・・・。
深夜1時ごろ、救急隊から連絡が入りました。「20歳の女性が突然心肺停止となり、現在救急車内で人工呼吸と心臓マッサージをおこなっている。5分以内に到着するから救命してほしい」、との要請です。
救急部に緊張が走りました。心肺停止での救急搬送は珍しくありませんが、20歳となると話は別です。末期の病気でいつ心臓が止まるかも分からないと医師に言われている高齢者の心肺停止であれば、本人も家族もある程度は”死”というものを受け入れていることが多いのですが、20歳の場合はなんとしても助けなければなりません。
しかし、30分以上に及ぶ救命処置の効果もなく、その女性は享年20歳で生命を終えることになりました。
後にいくつかのことが分かりました。ひとつは、この亡くなった女性は以前心電図の異常を指摘されたことがあるということ、さらにこの女性は看護学生で寮に入っており、通報したのは同じ寮に住む看護学生であるということも分かりました。
そして、もうひとつ分かったことがあります。通報した看護学生は、亡くなった女性が突然意識を無くした現場にいたのにもかかわらず、その場で何もできず、通報したのは女性が倒れてからおよそ10分が経過していたということです。
意識をなくして倒れた同僚に何もできず、通報するのも遅れたということからこの看護学生は大変なショックを受け、救急隊に対してまともに話をすることができなかったそうです。
************
突然の心肺停止が目の前で起こったとき、あなたは何ができますか。もちろん、すぐに救急車を呼ぶことが最も大切です。しかし、それ以外にもできることはあります。一般の人にもできる、あるいはおこなう義務のある救命処置です。
この一般の人にもできる(しなければならない)救命処置のことをBLS(一次救命処置)と呼びます。医療従事者はもちろんトレーニングを受けていますが、現在では、医療者以外にも、客室乗務員やスポーツジムのインストラクター、コンサートホールや競技場の警備員といった人たちも訓練を受けています。また、最近では自動車の教習所でも学ぶようになってきています。
なぜ、BLSは一般の人もできるようになっておかなければならないのか・・・。それは、心肺停止が起こったときの措置は一刻を争うからです。呼吸が止まった状態が4分間続けば、脳に回復しないダメージを与えることが分かっています。心肺停止の人を発見してから救急車が到着するまでに4分以上はかかるでしょうから、その間はそばにいる人が人工呼吸をしなければ、その人は命が助かったとしても植物状態になってしまいます。
心停止の場合、少し遅れても電気ショックを与えたり止まっている心臓を動かす薬剤を使ったりすれば再び心拍が再開することもありますが、脳に長時間血流がなくなるとやはり植物状態になりますし、時間がたてば心拍が再開する可能性も格段に低くなります。したがって、そばにいる人が心臓マッサージをおこなわなくてはならないのです。
当たり前の話かもしれませんが、心肺停止ほど時間が勝負の状態はありません。そこで、以前から一般の人もできるだけ医療行為に参加できるようにしようという試みがありました。
**************
スポーツジムや空港に設置されているランドセルくらいの大きさのオレンジ色の箱を見たことがありますでしょうか。
これは、AED(自動体外式除細動器)と呼ばれる心臓に電気ショックを与える器械です。心停止には心臓マッサージをおこないますが、あるタイプの心停止の場合は、マッサージよりも電気ショックが有効な場合があります。AEDは、電気ショックが有効な心停止かどうかを瞬時に判断することのできる器械です。
心停止を確認すれば、AEDをその人に装着します(2つのパットを胸に貼ります)。すぐにAEDは電気ショックを与えるべきかどうかを判断し、与えるべきときは「電気ショックが必要ですのでボタンを押してください」としゃべります。その声を聞いて、その場にいる人がボタンを押すと電気ショックがパットを伝わって流れます。もしも、電気ショックが無効であると判断した場合は、「そのまま心臓マッサージを続けてください」としゃべります。
アメリカでは、AEDが普及しだしてから突然の心肺停止の救命率が劇的に上昇しています。例えば、シカゴの空港ではAEDを設置してから心肺停止を起こした人の61%が助かったという報告があります。ラスベガスのカジノでも、53%が救命されたというデータがあります。AEDを設置する前のデータははっきりしないのですが、おそらくほとんどが助からなかったものと思われます。
日本でもAEDを普及させようとの動きが数年前から活発になりました。現在は一般の人がおこなえる救命処置(BLS)の項目にAEDの使用が入れられています。AEDだけでなく、人工呼吸も心臓マッサージも理屈を覚えただけではできるようにはなりません。実技指導を受けて模擬演習をしなければ実際にできるようにはならないのです。
ちょうど私が研修医の頃、BLSを一般市民に広めてACLS(二次救命処置)を医療者に普及させようというムーブメントが起こりました。私は、冒頭で述べた20歳の看護学生の死を経験したこともあり、その直後にACLSを覚え、BLS及びACLSのインストラクターをおこなうようになりました。ACLSだけでなく(ACLSは医療者向けの救命処置で薬剤の使用や気管内挿管もおこないます)、BLSにも取り組んだのは、一般の方にもできるだけ救命活動に参加してほしいと思ったからです。
ただ、私がインストラクターをしていた頃は、AEDの使用は医師や救命士に限られており、客室乗務員も日本上空を離れてからでないと使用が許されていませんでした。2004年の7月にようやく一般市民にも認められるようになり、次第に普及するようになってきました。
1月16日の毎日新聞によりますと、広島県では県の医師会が中心となって一般市民にAEDの使用を含むBLSの講習をおこない始めたそうです。
これが全国的に広がり、多くの国民がBLSをできるようになり、さらにAEDがどこにでもある社会になれば、心肺停止の救命率が飛躍的に上昇するでしょう。 |
|
| 47.美しい身体をつくるには 2006/12/21 |
|
メタボリック・シンドロームという言葉が定着してきたからなのか、健康診断を受ける人が増えてきたからなのか、最近では30代で生活習慣病に罹患している人、もしくは放っておけば罹患するであろう、いわゆる”予備軍”の人を診察する機会が増えてきています。
生活習慣病には、糖尿病、高血圧、高脂血症、高尿酸血症、・・・・、といろいろありますが、こういった疾患に罹っている、もしくはその予備軍の人たちに共通している点は「肥満」です。メタボリック・シンドロームの診断基準にあるように、特にウエストラインの太さが目立つ人が多い印象があります。
「肥満」になれば、生活習慣病のリスクが高まるだけでなく(「肥満」そのものが生活習慣病だとする考え方もあります)、自身のボディイメージが損なわれますから、肥満に悩む多くの人たちは「ヤセル」ことを目標としているようですが、なかなかこの「ヤセル」ということは簡単ではないようです。
世間では、様々なダイエット方法が氾濫し、痩身効果をうたった器具が次々と開発されていますが、なかなか劇的な効果の得られるものは多くないようです。こういったものは有効性が怪しいどころか、危険性の伴うものも少なくなく、医師などの専門家の指導のもとでおこなわなければ大変危ないと思われるのですが、それでも世間の関心はとどまることがありません。
しかしながら、あらためて言うまでもなく、ヤセルのに最も効果的なのは「食事」と「運動」です。このふたつをないがしろにしていれば、どれだけ痩身効果をうたった高価な器具を使ったところでそれほど効果は得られません。
「食事」について言えば、あきらかに現代日本の食生活は「過食」です。その人の生活環境にもよりますが、事務職に従事している人であれば、一日に必要なエネルギー量は男性であれば2,000キロカロリー前後、女性なら1,600から1,800キロカロリー程度で充分でしょう。
しかし、例えば食堂やレストランで、ランチセットなどとして組まれているもののなかには、一食で1,000キロカロリーを超えているものが少なくありません。昼食がメインであればまだいいかもしれませんが、夕食にも同じようなもの、あるいはそれ以上のものを食べ、さらにおやつまで食べていれば一日の摂取カロリーは軽く3,000キロカロリーを超えてしまいます。これでは肥満になるのは時間の問題です。
それに、日本人の体質は高脂肪食を日常的に摂取するようにはできていません。もともと高蛋白・低脂肪の食生活に適した遺伝子を日本人は持っているはずですから、欧米型の食事を導入すれば、一気に肥満となり生活習慣病を発症するのは時間の問題です。
そして、これは日本に限ったことではなく、例えばフィリピンの一部では、西洋の食文化が入ったために以前は肥満などなかったのに、現在では住民の過半数が肥満に悩んでいるという地域もあります。最近、タイでも食生活の変化から肥満児が増えており、行政が伝統的なタイ料理を食べるように呼びかけています。
とは言え、カロリーの高いものは美味しいものが多いですから、ついつい食べ過ぎてしまう人の気持ちが分からないわけではありません。医師という仕事をしていれば、とにかく時間がなくて食事の時間を捻出するのに苦労を強いられますから、私の場合、できるだけカロリーの高いものを食べられるときに食べるようにしていますが、これは世間からみると例外的なことでしょう。もしも、私も昼食時と夕食時にある程度の時間が確保できるなら、過食によって肥満となるかもしれません。
「運動」はその重要性をほとんどの人が認識しているでしょうが、時間を決めてエクササイズに通ったり、ジョギングを規則的におこなったりしている人はそれほど多くないのかもしれません。おそらく現代の日本人のライフスタイルでは、よほど大きな決心をして運動の時間を確保しない限り、規則的な運動というのは相当むつかしいのでしょう。
しかしながら、「食事」と「運動」を適切におこなうことによって、「肥満」のない身体、そして美しい身体をつくることは、本当は誰にでもできることなのです。「あたしは太る体質だから仕方がないの・・・」という人がいて、確かに太りやすい太りにくいというのは体質(遺伝子)によってある程度は規定されていることが分かっていますが、それがすべてではありません。日本人もフィリピン人もタイ人も少し前までは、肥満に悩む人などほとんどいなかったのですから。
私はこのことを以前、タイのイサーン(東北)地方で実感したことがあります。タイという国は、地域によって文化が大きく異なり、イサーン地方の奥地ではバンコクなどとは食生活がまったく異なり、西洋食が存在しません。コンビニもほとんどなく、日本人が日頃食べているようなお菓子も入手できません。
私はその地域に5日間ほど滞在しましたが、年齢・性別を問わず、太っている人をひとりも見かけませんでした。太っているどころか、男女とも非常に美しいプロポーションをしているのです。
男性であれば、肩幅が広く、腹筋が割れており、重いものを平気で片手で持ち上げます。私は、家をつくっている現場で仕事を手伝わせてもらったことがあるのですが、彼らはいとも簡単に50キロのセメントを片手で運んでいました。あまりにも簡単そうに運んでいるので私も手伝わせてもらったのですが、私の体力では片手では不可能で、結局私だけが両手で運ぶことになりました。彼らには無駄な脂肪がついていないどころか、無駄な筋肉もついていません。
女性の場合も、ウエストに余分なぜい肉が付いている人などひとりもおらず、全員が美しい手足をしています。しかし、無理なダイエットでやせた身体ではなくて、筋肉はしっかりとついており、少々の力仕事ならなんなくこなしています。彼女たちは家をつくるといった肉体労働はあまりおこないませんが、日頃から魚や(食用の)カエルを捕ったり、農作業に従事したりしているためにバランスよく運動ができているのでしょう。
イサーン地方では食事にも驚かされます。主食はもち米で、魚を醗酵させてつくった味噌のようなものにつけて食べます。あとはキノコや野菜、アリの卵や昆虫がメインです。肉や魚はないわけではありませんが、それほど食卓には乗らず、肉についてはホルモン(内蔵)がほとんどで、日本人が好んで食べるような部分の肉はほとんど口にしません。
さらに驚くのは”おやつ”です。彼(女)らがおやつに食べるのは、昆虫か果物のどちらかなのです。その地域のある女性はこう話していました。
「あたしは以前バンコクに住んでいたことがあるけど、コンビニにはほとんど行ったことがないわ。バンコクでも屋台で昆虫や果物は買えるんだもの。昆虫や果物の方が安くて美味しいんだから、あたしたちにはコンビニは不要なのよ」
この食生活は栄養学的にみて抜群です。主食は米で、野菜やキノコと少量の肉や魚がおかずとなっており、醗酵した魚でアミノ酸や乳酸菌を摂取し、昆虫と果物でビタミンとミネラルがバランスよく効果的に取れています。
つまり、イサーン人がほとんど例外なく美しい身体を保持しているのは、彼(女)らの特有の遺伝子がそうさせているのではなくて、合理的な食生活と運動(仕事)をしているからなのです。
日本人もイサーン人と同じような食生活と運動を・・・、というのは非現実的ですが、彼(女)らの美しい身体とイサーンの文化をときどき想像するようにすれば、あるいは昔の日本の文化を思い出せば、今自身が何をすべきかについてのヒントが得られるのではないでしょうか。
|
|
| 46.臓器売買の医師の責任(後半) 2006/11/21 |
|
医師と患者さんとの関係は信頼の上に成り立っているわけで、患者さんとその親族がグルになって医師を欺こうと思えば簡単にできてしまう、という話を前回おこないました。
今回の事件は、臓器売買をめぐってこのような問題が生じたわけですが、患者さんと親族がいくら「お願いします」と言っても、倫理上の観点からできない問題もあります。
例えば「自殺幇助」がこれに該当します。高齢で生きる希望をなくしている患者さんがいたとしましょう。生きる希望をなくしているからといって末期癌など治療法のない病を患っているわけではありません。患者さんは死ぬことを希望しており、仮に家族もその考えを尊重したいと考えているとしましょう。このとき、「分かりました。致死量の劇薬を注射しましょう」などと言う日本の医者はひとりもいません。「自殺幇助」が罪になるだけでなく倫理上許されないことを医師は分かっているからです。ヨーロッパの一部の国ではこのようなケースでも罪に該当しない法律をつくっていますが、それは例外と考えるべきでしょう。
「自殺幇助」などに比べると「臓器売買」については、倫理上あるいは歴史上、抵抗はそれほど大きくないと言えます。
実際に、海外で臓器を買っている日本人が少なくないのは周知の事実です。日本人が生体腎移植を受けている国で最も多いのがフィリピンと中国だと言われています。
少し詳しくみてみましょう。
2006年10月6日の共同通信がフィリピンの生体腎移植の実情を報道しています。
フィリピンでは貧困地域に住む住人に対して、いわゆる臓器ブローカーが腎臓売買の斡旋をもちかけます。対象となるのは18歳から25歳の健康な男性です。腎臓を提供すると13万〜16万ペソ(約30〜38万円)が支払われるそうです。腎臓を買うのはほとんどが日本人で、支払う金額はこれの10倍程度だそうです。
実際に腎臓を提供したある男性のコメントがこの記事に載せられています。その男性は、「(腎臓を受け取った日本人は)ありがとうと言ってくれたし、元気になっていたし、良かったと思う」、と述べています。
また、フィリピンでは死刑囚が臓器を有償で提供しています。つまり腎臓を売っているのです。これは、合法であるばかりか、「臓器を提供することに賛同した受刑者は刑を軽減する」という法案が提出されたこともあるそうです。
フィリピン大学の哲学科のある教授は、「臓器提供は、受刑者が社会に何かを還元できる機会だ」、とコメントしているそうです。
詳細は覚えていませんが、数年前に、肝硬変を患った日本の有名プロレスラーが、フィリピンで生体肝移植を受け、肝臓の一部を提供したフィリピンの若い男性が術後に亡くなったという報道もありました。
10月6日の共同通信では、インド、中国、ブラジルの臓器売買の実情も報道しています。
インドでは、以前は、臓器売買は合法でしたが現在では違法となっています。しかし、現在でも水面下で売買がおこなわれているのが実情です。そして、違法とされているのは移植に伴う臓器売買だけです。研究用の臓器の売買は合法であるばかりか、増加傾向にあるそうです。ちなみに、インドでは移植に伴う臓器売買が違法になる前は、南部のタミルナド州が臓器ビジネスの拠点でしたが、現在では北部ウッタルプラデシュ州やパンジャブ州が中心となっているそうです。
中国では年間の移植件数が1万2000件を超え、米国に次ぎ世界第二位の「移植大国」となっています。腎移植だけで年間5000件以上が施行されているようです。中国の場合はドナーの大半が死刑囚であり、これが倫理上の観点から問題視されていますが、中国側にとっては貴重な外貨獲得源になっていることもあり、地方政府は実質臓器売買に荷担していると言えます。
ブラジルでは臓器売買は違法とされていますが、実際には水面下でおこなわれているようです。2003年に摘発されたブローカー組織は、およそ1万ドル(約118万円)で腎臓の提供者を募集していたそうです。この組織では少なくとも38人の貧しい人々を南アフリカへ連れて行き、そこで移植手術がおこなわれたようです。
では、先進国ではどうでしょうか。偶然にも米国エール大学の移植医が「British Medical Journal」という医学誌に移植に関する論文を10月5日に発表し、それを共同通信が10月6日に報道しています。
この移植医は、「生体移植の腎臓提供者に金銭が支払われるような仕組みを立法化すべきだ」、と述べています。
同医師によりますと、「米国では2005年に6,500回余りの生体腎移植が行われたが、その10倍の約6万5千人が腎臓移植を待っており、平均待ち時間は2〜4年と、臓器不足が深刻化している」、そうです。
米国では、血液や精子、卵子の売買は合法です。同医師は、「政府の管理下で提供者への報酬も統一して移植を実施すれば違法な売買はなくなり、公平さが増し、安全性も向上する」、とコメントしています。
このように歴史的、地理的にみても臓器売買は必ずしも絶対的な「悪」とは言えません。考え方によっては、腎臓を受け取る人は健康を取り戻し、病院と医師には報酬が支払われるのに、腎臓の提供者だけが不利益を被るのは不公平であるという見方ができるかもしれません。もちろん、臓器売買は日本の臓器移植法で禁止されている行為ですから、国内でおこなえば罪に問われることになります。
しかし、内容を吟味せずに、ただ単に「法律に抵触することはすべて絶対に許してはならない」、などと言ってしまえば事の本質を見誤ることになりかねません。以前、このコーナーで述べましたが、「法律による罪の重さと本当の意味での罪の重さは相関しない」と私は考えています。
今回の愛媛の病院で腎移植を執刀した医師は、臓器売買をおこなった当事者ではなく、当事者たちの嘘の証言により騙されて手術をおこなったのです。その嘘が見破れなかったということが、大手マスコミの主張する「病院と医師の倫理意識の低さは驚くしかない」というコメントに果たして相当するのでしょうか。
金に羽振りをきかせて、後進国の若者の腎臓を買いまくっている多くの日本人が存在しているということ、世界で最も移植医療の進んでいるアメリカの専門医が臓器売買の合法化を提唱しているということ、アメリカを含め先進国のなかには血液や精子、卵子の売買が許されている国があるということ、今回の売買事件では提供者が「いいことをしたかった」とコメントしていること、そして、執刀医は腎臓提供者と受け取った患者さんの双方から「身内の関係ですのでよろしくお願いします」と頭を下げられていたこと、などを考慮したときに、この執刀医は、驚かれるほどの低い倫理意識しか持っていなかったのでしょうか・・・。
地域でもっとも腕の立つ移植医と言われていたこの医師が、この事件のせいで今後移植手術がおこなえなくなるとすると、最も不利益を被るのは誰でしょうか・・・。
|
|
| 45.臓器売買の医師の責任(前半) 2006/10/19 |
昨年9月に愛媛県のある病院でおこった臓器売買に際してマスコミからいくつかの問題が指摘されています。
まずは、この事件を簡単に振り返ってみましょう。
愛媛県の59歳の男性が重症の糖尿病から腎不全をきたし腎移植を希望していました。その男性と内縁の関係にあった59歳の女性(仮にA子さんとしておきます)は、腎臓の提供者を探していました。A子さんには20年来のつきあいになる同じく59歳の女性の友人(B子さんとします)がいました。貸しビル業を営んでいたB子さんは、A子さんに200万円を貸していました。A子さんはB子さんに対して、「借りているお金を上乗せして返すから腎臓を提供してほしい」と言いました。B子さんはこの申し入れを承諾し、生体腎移植術が2005年9月に施行されました。B子さんは腎臓提供後、ふたりから30万円の現金と150万円相当の新車を受け取りましたが、最初の約束だった借金を返済してもらえずに2006年1月に警察に届けたことからこの事件が発覚しました。
このあたりまでは間違いのない客観的な事実でしょう。マスコミの報道をもう少し詳しくみてみましょう。
2006年10月4日の毎日新聞によりますと、腎臓を提供したB子さんは、「自分が生きている間にいいことをしたいから提供を引き受けた」、「A子さんとは長いつきあいだし、(腎臓をあげる)男性にもお世話になった」、「私の(腎臓を)ぜひ使ってほしい」、などと話していたそうです。また、B子さんは、手術を受けた時点で、「違法性の認識はまったくなかった」そうです。
10月5日の共同通信によりますと、A子さんは、「執刀した医師からB子さんの乗用車要求を伝言する電話があった」と話しており、執刀医はこれを否定しています。
事件の当事者が何を言った、言わなかったというのは実際にはよく分かりませんから、マスコミの報道は必ずしも信憑性に高くないと思われます。
さて、この事件の問題点を整理してみましょう。
まず、臓器売買は97年に制定された臓器移植法によって禁止されていますから、今回の事件は法律に抵触していることになります。このケースが臓器売買に該当するということに異論のある人はいないでしょう。ですから、腎臓を受け取った男性、売買を斡旋したA子さん、自分の腎臓を売ったB子さんは同法違反の罪に問われることになります。一部のマスコミが報道しているように、B子さんに違法性の認識がなかったとしても法を犯したことには変わりありません。
次に病院と医師に対する責任という問題です。この事件でもっとも罪が問われるべきなのは違法と分かっていながらB子さんに腎臓の提供を求めた男性とA子さんであることは自明であるのにもかかわらず、マスコミの報道はむしろ医師と病院に対する非難を大きく取り上げています。
例えば、日経新聞10月6日の社説には「臓器売買、病院の責任も重い」というタイトルで医療サイドを激しく非難しています。
「臓器提供者の身元確認も移植に絡む手続きも「ずさん」でそれが事件につながった」
「(医師が)臓器売買が禁じられていることを伝えたのか疑問だ」
「(医師に)金品のやりとりの気配を全く感じなかったのか疑問」
「病院と医師の倫理意識の低さは驚くしかない」
まるで今回の事件は病院と医師の不手際が原因で起こったというようなコメントです。しかし、可能な限り客観的にみたとして、今回の事件における病院と医師の責任はどの程度のものなのでしょうか。
たしかに、保険証以外の方法で身元を確認せずに患者さんの話を信用したことにはいくらかの責任はあるでしょう。しかしながら、移植を受けた男性、その内縁の妻、提供者が一丸となって「よろしくお願いします」と言って移植の希望を申し出た場合、「こいつらグルになって騙そうとしているのではないか・・・」などと疑うことができるでしょうか。
一部のマスコミは、病院によっては保険証の提示だけでなく親族であることを確認する血液検査をやっているのに、この愛媛の病院でしていないのは不適切だ、などという報道をしていますが、これはまったくナンセンスな報道であり、このような報道自体が不適切です。一般の人の多くは、こういう報道を信じて、「臓器移植の際には、血液検査までおこなって身元確認を徹底している病院もあるのに、この愛媛の病院はいい加減だ」、と感じられると思われます。
しかし、親族であることを確認する血液検査とは、HLAと呼ばれる、簡単に言えば白血球の血液型のようなもので、これは確かに親族であれば似たような形になりますが、移植手術の際にHLAを調べるのは、移植を受ける人がもらう臓器を拒絶しやすいかどうかをみるためのものです。例えば白血病などで骨髄移植を受ける場合には、移植を受ける人と骨髄を提供する人のHLAができるだけ一致している必要があります。(このため骨髄バンクの役割が重要になるのです) 一方、腎臓の場合はHLAが似ていなくても身体が拒絶反応をそれほど示さずに、術後の問題が他の臓器移植に比べると少ないという特徴があります。
執刀した医師がコメントしているように、医師と患者さんとの関係は信頼の上に成り立っています。そもそも今回の事件に限らずに、医師を欺こうと思えばいくらでも簡単に陥れることができます。
例えば、ある患者さんが交通事故で重態になったとしましょう。その患者さんが緊急手術の必要な状態となり術後に家族がやって来たとします。当然その家族は患者さんの状態を尋ねます。このとき医師は、「あなたが患者さんの家族であることを証明するために戸籍をとってきてください」などと言えるでしょうか。
あるいは外来に患者さんが家族とともにやってきたとします。患者さんに痴呆があるような場合、その付き添いの人に話をすることになります。このとき、「私はあなたがこの方の家族であることが信用できませんからお話はできません」などと言えるでしょうか。
今挙げたふたつの例は極端かもしれませんが、いずれの場合も、後になってから患者さんから、「説明をした人は私の家族でもなんでもない。あんたは私のプライバシーのことを赤の他人に話したんだ。守秘義務違反及び個人情報保護法違反で訴える!」、と言われれば医師にはなす術がありません。
今回の移植事件は倫理委員会を通すべきだったという意見もあるかと思いますが、委員会を通したとしても、公文書を偽造することだってできるでしょうし、本気で騙そうと思えばそんなにむつかしいことではありません。
今回の事件を医師と病院の責任にするのは、まるで「いかなる詐欺師にも医師は騙されてはいけない」と言っているようなものです。日常生活では詐欺師に騙されることのない医師であったとしても、医師というのは、日頃から「患者さんのためにできる限りのことをしたい」と考えているわけですから、手の込んだ方法で欺かれれば打つべき手がないのです。
次回は、臓器売買はどこまで違法かという点についてもう少し詳しくみてみたいと思います。 |
|
| 44.人は何のために働くのか 2006/9/20 |
先日、生命保険を生前給付型のタイプに切り替えたので、その際に必要な健康診断を受けるために保険会社に行ってきました。
健康診断をおこなうのはその生命保険会社に勤務する医師です。その医師はその生命保険会社の社員であり、仕事は健康診断がほとんどで、病院や診療所での一般診療はしていません。
健康診断が終わった後、少し時間があったので、私はその医師に仕事のやりがいについて尋ねてみました。というのは、医師を志す時点で、「保険会社で健康診断をやりたい!」と言っている医学生や受験生は見たことがありませんし、私の周囲にはこのような仕事をしている医師がいないからです。
その医師の回答はこういうものでした。
「こんな仕事、誰にも薦められないよ。やりがいはまったくと言っていいほどないし、わりきってやらないとできないよ。実際、この会社にもときどき病院を辞めて就職する医者がいるけど、大半は一年足らずでやめていくしね・・・。ただ、給料は高くて、残業はなくて完全週休二日だし、有給休暇は取得できるし、夜中に呼び出されることもないし、プライベートの充実という観点から考えたら、これほどいい仕事もないという見方もできるんだよ・・・」
おそらくこの医師のこの意見は本音だと思われます。たしかに、病院や診療所での勤務であれば、勤務時間は長くて、休みもあまりとれないですし、その上日々新しい医学の勉強をしなければなりませんし、論文を書いたり、学会発表をしたり、と時間がいくらあっても足りません。給料にしても、夜間や土日の勤務があるから他の仕事よりも高収入であるわけであって、時給換算すれば医師の仕事はそれほど割高ではありません。時給でみれば、おそらくこの保険会社の給与は、一般の医師の倍以上になるのではないかと思われます。
社会には保険会社で勤務する医師も必要なわけですから、この仕事を非難するようなことはもちろんできませんし、人にはそれぞれ自身の考え方があるわけですから、こういう仕事についてとやかくいうことは誰にもできません。
**********************************************
今度は、保険会社の医師とはある意味で対照的な、私の知る医師を紹介したいと思います。
その医師はヨーロッパのある小国出身です。若い頃にある程度の貯金をし(ただし、ヨーロッパでは医師はそれほど高額所得者ではないため貯金といってもそんなに大金ではありません)、また家賃収入で月に5万円ほどの不労所得があることから、長期でタイに旅行に来ていました。
その医師は以前からタイが好きで(私には「I ”LOVE” Thailand.」と言っていました)、タイへの長期旅行は長年の夢だったそうです。その医師がタイを好きな理由は、物価が安いことと自然が美しいことだと言います。実際、その医師はタイに来てからしばらくは美しいビーチでのんびりと過ごしていたそうです。
ところが、その医師に転機が訪れることになります。彼がタイに来たのは90年代後半だったのですが、当時のタイは今以上にエイズが大きな社会問題となっていました。家庭や社会から追い出され、行き場をなくした患者さんたちは行くあてもなく彷徨っていたのです。
その医師は、そんなエイズの実情を目の当たりにし、「こんなにも困窮している人たちがいるのに、私はのんびりとビーチで過ごしていていいのだろうか・・・」という思いが次第に彼を苦しめるようになりました。
そして、その医師は、ビーチサイドのまったりとした生活を捨てて、タイのある施設で、無給で医療ボランティアをおこなうことを決心したのです。彼が選んだその施設は、周囲には山と田畑しかない田舎で、美しいビーチからはほど遠い世界です。
その医師は、現在もタイの困窮した患者さんのために、自らの身体も精神も捧げています。現在の月収は、母国での家賃収入の約5万円のみです。
**************************************************
「金のために働くんじゃない、なんていうのは単なるキレイ事だ」
と言う人がいます。また、
「儲かればどんな仕事だっておもしろくなる」
と言う人もいます。
果たして本当にそうでしょうか。
アンドリュー・カーネギーという大富豪をご存知でしょうか。カーネギー財団、カーネギーホールという名前はきっと聞かれたことがあるでしょう。カーネギーは「鉄鋼王」として有名ですが、実は彼が大富豪になったのは若い頃から「投資」をおこなっていたからです。
カーネギーは20代半ばですでに大富豪になっていましたが、33歳の頃にこんなメモを残しています。
「人間は理想とする目標を持たねばならぬ。金儲けは最悪の目標である。富の崇拝ほど悪しき偶像崇拝はない」
カーネギーは、若い時期から、儲けた富を社会に還元していくことを決めていたが故に、あれほどの成功をおさめることができたのではないかと、私には思えます。
ヒルティというスイスの思想家がいます。彼は『幸福論』のなかで、次のようなことを言っています。
「働いていない休息は、食欲のない食事と同じく楽しみのないものだ。最も愉快な、最も報いられることの多い、その上最も安価な、最もよい時間消費法は、常に仕事である」
私は先に紹介したヨーロッパの医師の話を聞いて、この言葉を思い出しました。
ここにご紹介した生命保険会社で働く医師とヨーロッパのボランティア医師のどちらがいいか、という議論には意味がありませんが、対照的ともいえるこのふたりの医師の姿を比べてみることは興味深いと言えましょう。
最後にヒルティの言葉をもう少し紹介しておきましょう。彼は、『幸福論』のなかで、「生まれつき働き好きな人間などありはしない」、と言いながらも次のように述べています。
人間の本性ははたらくようにできている・・・ |
|
| 43.世界一幸せな国 2006/8/20 |
|
先日、イギリスのNPOのnef (new economic foundation)が、世界178カ国を対象に「幸せ度数」のランキングを発表しました。
「幸せ度数」とは、nefが独自に考案した指標で、主に3つの要因が基準となっています。その3つとは、生活満足度、平均寿命、環境汚染度です。平均寿命は客観的なものですが、生活満足度と環境汚染度はnef独自の調査によるものです。
ランキングの1位から10位は、バヌアツ、コロンビア、コスタリカ、ドミニカ、パナマ、キューバ、ホンジュラス、ガテマラ、エルサルバドル、セント・ビンセントとグレナディーン諸島で、いわゆる先進国はひとつもはいっておらず、太平洋沖の諸島や中南米の国家ばかりです。
こういった国には、観光でなら行ってみたい気がしますが、本当にこういった国家に住む人たちが幸せと感じているのかどうかが知りたいところです。例えば、コロンビアやコスタリカなどは、治安の悪さから、気軽に観光にも行けない国家とされています。一人当たりのGDPも高いわけではなく、自然の恵みがあるために飢えることはないのかもしれませんが、本当に住民は満足しているのでしょうか。幸せな国第一位とされたバヌアツは、オーストラリアの東に位置する小さな島国ですが、ひとりあたりのGDPは1,340ドル(2004年)しかありません。
では、この調査で先進国はどのように位置づけされているのでしょうか。主要国をみてみると、アメリカ150位、イギリス108位、フランス129位、ドイツ81位、オーストラリア61位、日本は95位です。他のアジア諸国では、韓国102位、台湾84位、中国31位、マレーシア44位、シンガポール131位、タイ32位、フィリピン17位となっています。
大まかに言えば、自然が多くて開発の進んでいない国がより幸せであり、その逆の傾向にある国が不幸せとされているように思われます。(それにしても、アメリカの150位というのは低すぎるような気がします・・・)
この結果は、nefが、自然環境を極端に重視するイデオロギーを持っているからではないかと、私には思えます。ランキングの上位に入っている国家には、先進国から開発援助を受けているところもあります。nefの主張することが正しいとすれば、「より不幸せな国家がより幸せな国家を援助している」、という図式が成立してしまいます。
この結果が公表されてから一月もたたないうちに、イギリスのレスター大学が、「生活の満足度」を基にした、「幸せの世界地図」を発表し、nefの報告と同じように世界各国にランキングを付けました。この調査は、世界178カ国を対象に、100個の様々な研究を基にしておこなわれています。
ランキングの1位から10位は、デンマーク、スイス、オーストリア、アイスランド、バハマ、フィンランド、スゥエーデン、ブータン、ブルネイ、カナダです。nefの報告とは異なり、こちらは多くが先進国です。この報告をおこなったレスター大学の社会学者は、「貧困な国家に住む人たちこそが本当は幸せである、などといった”神話”から我々は目覚めるべきだ」、と話しているそうです。まるで、nefに対抗するかのようなコメントです。
レスター大学の報告をもう少し詳しくみてみましょう。他の先進国では、アメリカ23位、イギリス41位、オーストラリア26位、フランス62位、ドイツ35位、日本は90位です。他のアジア諸国では、韓国102位、台湾68位、中国82位、マレーシア17位、シンガポール53位、タイ76位、フィリピン78位となっています。
どちらの調査でも、日本と韓国が同じような下位にランキングされているのが興味深いと言えます。うがった見方をすれば、日本と韓国は、美しい自然がないだけではなく、文明の利益も受けていない、ともに不幸せな国家とされてしまっているわけです。
もちろん、こういった調査結果は鵜呑みにする必要はありません。日本が両方の調査でこれだけ下位に位置づけされているのは気持ちのいいものではありませんが、別段これらの機関に抗議するような問題でもないでしょう。
レスター大学の調査結果をみて、私はあることに気づきました。
それは、バハマを除く上位1位から7位までの国家、すなわち、デンマーク、スイス、オーストリア、アイスランド、フィンランド、スゥエーデンは、いずれも、私がこれまでにタイで出会ってきたボランティアの出身国で多い国家に合致するということです。これらに、ベルギーとオランダを加えれば、私の経験にほぼピッタリとなります。
以前、このコーナーでも述べましたが(谷口恭のメディカル・エッセィ第32回「 医者は「勝ち組」か「負け組」か」)、これらヨーロッパの国々からタイにボランティアに来ている人たちは、年齢性別を問わず、私の知る限りお金持ちはひとりもいません。金持ちどころか、彼(女)らの年収は日本円にして300万円にも満たないのです。それでも、困窮している人を救うために、はるばる遠いところからアジアにやってきて一生懸命ボランティアをしているのです。
私は、ボランティアをすることが偉いことなんだ、というつもりは毛頭ありませんが、私がこれまでに出会ってきたボランティアの出身国を、レスター大学が「幸せな国」としていることは、単なる偶然以上の意味があるに違いないと思います。
これらの先進国は、どちらかと言うとヨーロッパの小国です。一方で、なぜか私の知る範囲では、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインなどといった欧米の大国からタイに来ているボランティアはそれほど多く見かけません。(タイの繁華街やリゾート地では、こういった大国の出身者によく出会いますが・・・)
日本人はどうかというと、タイにはもちろん大勢のボランティアがいますし、ボランティアに来られない人でも、困窮している人々を救うためにお金を出している人は少なくありません。一方で、同じアジアに位置しており、同じ先進国である韓国、台湾、シンガポールなどの出身のボランティアはほとんど見たことがありません。
もしも、私のこの仮説「ボランティアに積極的な国家=幸せな国家」が妥当だとすれば、タイには多くの日本人ボランティアがいるのに、日本が「幸せな国」のランキングに入らないのはなぜでしょうか。
私の仮説が正しいとするならば、「幸せな国」に住む人たちは、タイだけでなく、アフリカや東欧も含めた世界各地で活躍しているのではないでしょうか。それに対して、日本人がボランティア先として選ぶのはアジアが圧倒的に多く、アフリカなどはまだまだ少数なのではないかと思われます。
この私の仮説が正しいかどうかは別にして、いずれ世界のどこにいってもボランティアとして活躍している日本人と出会える時代が来ることを期待したいと思います。
そのときのレスター大学の調査結果を見てみたいものです。
|
|
| 42.馬を水辺に導くことはできるが馬にその気がなければ水を飲ませることはできない 2006/7/19 |
|
2006年6月20日に奈良で起こった、有名進学高校の1年生が自宅に火を付け母子3人が死亡した事件は、我々医師の間でも議論を呼んでいます。
加害者の少年が、医学部にたくさんの卒業生を送り込んでいる有名進学高校の生徒であるのと同時に、父親が医師である、というのもその理由です。
報道によりますと、この47歳の父親は、加害者である息子に、医学部進学を義務付け、週に1〜2回暴力を振るっていたそうです。勉強部屋を「ICU(集中治療室)」と呼び、スパルタ教育を徹底していたとの報道もあります。
暴力行為のほかにも、テレビゲーム機を取り上げて破壊したり、友人らの訪問中に勉強することを命令したりしたこともあったそうです。
また、一部の報道によりますと、加害者は高校入学まで人気タレントの木村拓哉さん(33)の名前すら知らなかったことが分かり、奈良地検の調べに「家が灰になってすっきりした」「勉強しなくていいので留置場は快適だった」などと話しているとのことです。
この話を医師のあいだでおこなうと、「他人事とは思えない」と感想を述べる者が少なくありません。
よく知られているように、医師の父親(もしくは母親)もまた医師である、というケースは非常に多く、きちんとした統計は見たことがありませんが、おそらく半数近くの医師が該当するのではないかと思われます。もちろん、親も医師である医師のすべてがスパルタ教育を受けていたわけではありませんが、少なくとも両親から医師になることを薦められていた人はかなりの数になると予想されます。
この加害者の罪を軽くするよう求めた嘆願書が全国からすでに1500通以上集まっているそうですが(7月2日現在)、嘆願書を書いた人のいくらかは、事件を起こした加害者の気持ちに共感できるからでしょう。
この「スパルタ教育」という言葉は、決していい意味ではありません。「子供の気持ちを無視した親の一方的な教育方針」というニュアンスで語られることが多いと言えます。
しかし、客観的には「スパルタ教育」と見える家庭でも、両親に話を聞けば、けっして「子供の気持ちを無視」しているわけではなく、「子供のためを思ってしっかりした勉強の環境を与えている」つもりのことが多いようです。
そのため、この事件を他人事とは思えないと言う医師は、それまでは子供のためを思ってやっていると信じていたことが幻想であり、「自分の子供ももしかしたら・・・・」、と感じているのかもしれません。
私自身は、自分の子供はいませんが、医師であり、また勉強に関する書籍を出版していることもあり、この事件に対するコメントを求められることが多いので、この場で私自身の意見を述べたいと思います。
まず私は、嘆願書を書く人の気持ちが理解できません。たしかに、過酷な環境で勉強を強いられていたことには同情しますが、そこから殺人へは飛躍しすぎです。殺害は放火の帰着であって殺人の意図はなかった、という弁護もあり得るでしょうが、16歳にもなっていれば、自宅に火をつければどのような結果になるかということくらい、いくら世間知らずで木村拓哉さんを知らなくても分かるはずです。
これは私の持論ですが、殺人については、自分の身内が殺られた復讐としての動機を除けば、罪を軽くすべきではないと考えています。
一方で、私はこの父親にも同情する気になれません。
というのは、自分が医師という職業に誇りを持っているならば、自分の臨床の成果や患者さんとの心のふれあいの話をして、医師の魅力を伝えることをすればいいわけで、それで充分なはずです。
もしも、医師の魅力が息子に伝わって、息子が医師になりたいと思えば、親が何も言わなくても勝手に勉強するでしょう。医師になるという目標があって勉強をおこなえば、自然に勉強のおもしろさが分かってくるはずです。
なぜなら、病気や怪我の治せる一人前の医師になろうと思えば、基礎知識が必要になることは明らかで、その基礎知識を身につけるためには高校の勉強こそが大切だということが分かるからです。今やっている勉強が、将来患者さんのためになると思えば、少々のスランプが来ても乗り越えられるはずです。
医師の魅力以外に、父親が息子にアドバイスすることがあるとすれば、今おこなっているほとんどの勉強が将来の患者さんに喜ばれることになる、ということを伝えればいいのです。
「まだ、うちの子供は未熟だから勉強の大切さが分かっていない」、という親もいますが、私はこれにも同意できません。この親の言うことはたしかに事実かもしれませんが、そうであったとしても、やる気のない人間に何かを強いることは、どんな方法をもってしても不可能です。
他人になにかをおこなってもらうときに有効な方法はただひとつしかありません。それは、その人にそのことがらに対する興味を持ってもらうことです。これ以外にはありません。いくらアメとムチを使ってコントロールしようとしても、その行動は長続きしません。まして、受験勉強のように、長期間の忍耐力が必要とされるようなものに対しては、本人が興味を持つ以外に方法はないのです。
拙書『偏差値40からの医学部再受験実践編』で述べているように、医学部志望の動機が、金儲けとかブランドであっては勉強に対するモチベーションが継続せず、医療の本質に興味を持たない限りは、医学部合格はあり得ないのです。
ちなみに、私は両親から「勉強しなさい」と言われた経験はほとんどありません。実際には言われていたのかもしれませんが、もし言われていたとしても無視していたに違いありません。
私は、皮肉なことに、大学に入学してから他学部の学問が好きになり編入学をおこない、医学に興味を持ってからは会社を退職し、今も勉強を続けていますが、「勉強しなさい」と言われて勉強したことは一度もありません。
しかしながら、現在ひとつだけ後悔していることがあります。
それは、英語の発音です。商社に入社したての頃、まったく英語ができない私に対して、先輩方は、「(英語は)読み書きはいつでもできるから、先に発音をしっかり勉強しなさい」、というアドバイスをくださいました。
先輩方は、たしかに例外なく発音がきれいでした。しかし、入社時から英語のできた人はほとんどおらず、ほぼ全員が入社後に発音の勉強をおこなうことによって上達したそうなのです。よく、英語の発音は幼少時に学ぶ必要がある、ということが言われますが、実はそうではなく、成人してから勉強しても上達するということを、先輩方は身をもって証明していました。
ところが、私はそんな先輩方の忠告には一切耳を傾けず、貿易業務にすぐに役立つと思われたビジネス英語の読み書きに絞って勉強したのです。
その結果、たしかに読み書きにはあまり苦労しなくなりましたが、会話、特に発音は今でも苦手です。
けれども、最近になって、私もついに重い腰を上げました。商社を退職してからも、英語を使う機会が続いており、発音のおもしろさが10年以上の月日をかけてようやく分かるようになってきたのです。 先日、発音の教科書を購入し、毎日少しずつCDを聴きながら勉強しています。どれくらいの年月がかかるかは分かりませんが、今の私は発音に興味を持っていますから、いくらセンスがないとは言え、少しくらいは上達する日がやがてくるでしょう。
あのときの先輩方、なぜ「発音を勉強しなさい」ではなく、「発音のおもしろさ」を教えてくれなかったのですか・・・
と感じている私はあまりにもわがまますぎますか?
|
|
| 41. それでもあなたはまだ働きますか 2006/6/19 |
|
先日、タイのある地方都市の空港でドイツ人の若いカップルと知り合いになりました。そのカップルは、長期休暇を利用してタイに旅行に来ているとのことでした。男性はまだ学生だそうなのですが、女性は企業に勤務しているとのことです。
「どれくらいタイにいるのか」という私の質問に対して、「合計で6週間タイに滞在する」との返事が帰ってきました。
6週間のタイ旅行!
学生である男性はいいとして、なぜ女性がこのような長期休暇をとれるのでしょうか。彼女は答えました。
「ドイツではほとんどの企業で6週間の夏休みがもらえるのよ」
6週間もの夏休みをもらえる日本の企業など私は聞いたことがありません。それどころか、IT関係などの新興企業では休みがほとんどないという話をよく聞きます。私がそれを話すと、
「たしかにドイツでもIT関係の企業は休みが少ないけれど、それでも最低2週間は休みがとれるわ。もちろん連続で2週間よ・・・」
私がまだ商社勤務をしていた頃の話・・・。
ドイツのある企業を担当していた私は、その企業のある器械を、日本で輸入販売を開始するプロジェクトチームの一員でした。その器械は、当時の日本市場では画期的なものであり、そのプロジェクトは会社をあげてのものでした。器械を日本仕様に合わせるためにいくつもの問題点が出現し、当初予定していた発売日が大幅に延期されていました。そして、ついに準備が完了し、いよいよ来週から発売となったある日、そのドイツの企業の担当者から一枚のFAXが流れてきました。
「明日から2ヶ月の夏休みをとるから、日本での発売は2ヵ月後にしてほしい・・・」
こんなこと、日本で通用するでしょうか。自分の夏休みのために、取引先が社運をかけて販売を開始しようとしている商品の発売を延期するなんて、そんなことできるわけがありません。日本人なら、自分の担当している商品を販売してくれる会社のためなら、むしろ自分の休みを返上して働こうとするでしょう。
日本人は働きすぎだ、とよく言われます。
2006年6月10日のBangkok Postに掲載された記事によりますと、2003年の製造業における各国の年間労働時間は、日本が1975時間、アメリカが1929時間、イギリスが1888時間です。そして、フランスは1539時間、ドイツは1525時間だそうです。これは製造業の数字ですから、日本のホワイトカラー、特にIT関係の企業に勤めている人は2000時間を軽く越えることでしょう。
ここで日本の医師について考えてみたいと思います。きちんとしたデータは見たことがありませんが、日本の医師、とりわけ研修医の労働時間が長いことはよく知られています。
研修システムが充実していると言われているアメリカの研修医は、週に80時間以内の研修しか受けられないことになっています。これは厳格に規定されており、もしも週に80時間を越える労働(研修)をしたことが当局に知られると、その病院は、研修医を雇用することができなくなる、などといった厳しいペナルティが課せられます。
私がこの80時間という数字を聞いたときに、「よくそんな短時間で研修ができるな」という感想と同時に、「うらやましい」という気持ちがあったのも事実です。日本の研修医の1週間の労働時間は、軽く100時間を越えると思われるからです。
これをドイツの製造業の労働時間と対比させてみましょう。年間1525時間ですから、1年間が52週とすると、週あたりの労働時間は、なんと29時間!となります。
極端な比較かもしれませんが、日本人医師とドイツ人製造業者の労働時間はこんなにも差があるのです。
先にあげたBangkok Postの記事は、日本大学で実施されたひとつの研究を紹介しています。その研究によりますと、日本人が睡眠時間を削って働くことによって、結果として年間およそ3兆5千億円もの損失があるそうなのです。長時間労働は生産性の低下につながるだけでなく、睡眠不足から起こる交通事故、さらには過労死まで引き起こすということが、この研究で述べられているようです。
この記事には、同じような研究も紹介されています。1990年に実施されたアメリカの研究では、睡眠不足によって年間1500億ドル(約15兆円)もの損失があるそうです。
このような研究は医師を対象としたものもあります。
『New England Journal of Medicine』2005年1月13日号に掲載された論文によりますと、24時間以上連続して病院に勤務する医学インターンが自動車衝突事故を起こす確率は、長時間勤務をしないインターンの2倍以上であり、報告されたニアミスの数も5倍であることが分かったそうです。
24時間以上の連続勤務というのは、他の職業ではあまりないかもしれませんが、医師では当たり前のようになっています。私は現在、医師として5年目になりますが、いまだに研修医と同じような勤務体系をとっているため、一晩働いて次の日は朝からそのまま外来担当ということもよくあります。
これが医師として当たり前の姿なんだ、という気持ちもありますが、こういったデータ、特にニアミスが5倍になる、などといったデータを示されるとぞっとします。
もうひとつ、医師を対象とした研究をご紹介しましょう。
『JAMA』2005年9月7日号に掲載された論文によりますと、医師が夜間の激務をこなした後には、注意、覚醒性、運転シミュレーションの成績が、血中アルコール濃度が0.04から0.05%の時と同程度に低下することが分かったそうです。
血中アルコール濃度が0.04から0.05%というのは、ビールで言えば大ビン1から2本程度で、ほろ酔いというよりは、ある程度酔っ払ったような状態です。そんな状態で医師としての仕事をこなしているなどということは、にわかには信じがたいのですが、『JAMA』に載るほどの論文ですから、このデータはきちんと実証されたものであると言えるでしょう。
医師に限らず、あまりにも激務が続くと、その後に待っているのは過労死です。過労死などというのは他の国ではあり得ず、そのため「過労死」の英語(国際語)は「karoshi」です。
長時間労働は、酔っ払った状態へと導き、仕事の効率を落とし、ミスを引き起こす可能性も強くなり、挙句の果てには「karoshi」となるかもしれない。そして、日本社会全体でみれば、3兆5千円億円の損失・・・。
もしも、日本人全員が長時間労働をやめて3兆5千億円を取り返し、ドイツのように6週間の夏休みが取れると仮定してみましょう。日本の労働人口はおよそ7千万人ですから、3兆5千億円損していた分を均等に分け与えるとすると、ひとりあたりの取り分は、およそ5万円ということになります。
5万円のお小遣いがもらえて6週間の夏休み・・・。
6週間もの夏休みがあれば、海外のリゾート地にでもでかけてゆっくりと休養を取りたいものです。けど、小遣いが5万円では心許ない、というか飛行機代すらでません。
ならば、もっと残業して仕事を増やし、小遣いを貯めてから旅行にいけばいい・・・。
こういう発想をしてしまう私は、やはり典型的な日本人なのでしょうか・・・。
|
|
| 40. 草の根レベルの国際交流 2006/6/1 |
私は現在5年目の医師ですが、この5年間で、次第に外国人の患者さんが増えてきているように感じています。
医師1年目の頃は、外国人の患者さんというのは月にひとり程度だったのですが、最近は確実に週に1〜2人の患者さんと接します。以前は、外国人と言えば、西洋人の方がほとんどでしたが、最近は中国人やベトナム人といったアジアの方々が増えてきています。
外国人の患者さんを診察するときには、どうしても日本人の患者さんより時間がかかるのですが、それはもちろん言葉の問題があるからです。
西洋人の方であれば、たいがいは英語を話されます。しかも患者さんは日本企業に勤めていたり、語学学校の教師であったりすることが多いですから、日本人の話す英語もよく理解してくれることが多く、私のように下手くそな発音をしていても、なんとかコミュニケーションをとることができます。ですから、英語を話す患者さんであれば診察時間は日本人とそう変わらないと言えるでしょう。
日本語も英語も話さない患者さんの場合は、ときに診察に長時間を要します。
コミュニケーションがとれなければ問診ができませんから、患者さんによっては、あらかじめ知人の通訳を連れてきてくれることもあります。また、最近は自分の子供に通訳をさせる患者さんもおられます。アジアから日本に来られている女性は日本人男性と結婚していることが多く、その子供は日本語だけでなく、母親の母国語も話せることがあるからです。
今後ますます日本に来られるアジアの方が増えることが予想されますから、我々医療従事者は英語だけではやっていけない時代に入るのかもしれません。
通訳を介した問診では、どうしても時間がかかりますし、プライバシーの問題もあります。例えば、性行為に関する問診などは、できれば通訳なしでおこないたいものです。また、女性の月経に関する質問をするときに、まだ小学生の子供に通訳をしてもらってどこまで正確に伝わるのかを危惧することもあります。それに、通訳を介すと、ある程度は通訳者の恣意的な訳になることが避けられないため、コミュニケーションの正確さを欠いてしまいます。
患者さんにもよりますが、日本語を一生懸命に勉強されていることに驚くことがしばしばあります。日本人の私にとって、外国人の方が日本語を勉強されているというのは大変嬉しいものです。片言の日本語を話す患者さんは、年齢・性別を問わずたいへん「かわいく」感じます。
先日、ある中国人の方に興味深いことを教えてもらいました。彼女は日本語も英語も堪能で、一時は同時通訳を目指したこともある程、語学のセンスにすぐれた方です。
彼女によると、最近、「もったいない」という日本語が、世界共通語として認識されつつあるそうなのです。
この「もったいない」という言葉は、苗木の植樹を呼びかけたグリーンベルト運動が評価され、2004年にノーベル平和賞を受賞されたケニアのワンガリ・マータイ女史が世界に普及させたそうです。
マータイ女史が、この「もったいない」という言葉を気に入られたのは、アフリカには「もったいない」を表現する適切な言葉がないからだそうです。
アフリカにないからといって、何も日本語を使わなくてもよさそうに思いますが、それでも日本語を採用してくれたということに対しては、私は日本人として純粋に嬉しく思います。
たしかに、英語には「もったいない」に完全に合致する表現はないのかもしれません。状況によって、It's a waste of money、It's a waste of food、などと言うことはありますし、スムーズなコミュニケーションが取れている状況では、What a waste! などと言うと「もったいない」にピッタリ当てはまるように思いますが、「もったいない」のように一語で表現できる形容詞は私の知る限り見当たりません。
それに、これは私のイメージですが、日本語の「もったいない」には、「残念だ、惜しい」のようなニュアンスがあるように思われますが、「waste」という単語からはこういったニュアンスは引き出せないような気がします。
さらに、日本人はこの「もったいない」という単語を一日に何度も使いますが(少なくとも私は頻繁に使っています)、あまり欧米人が「waste」を連発しているのを聞いたことがありません。
しかし、中国語には日本語の「もったいない」にほぼピッタリあてはまる言葉があるそうです。「可惜」という言葉です。この漢字から分かるように、「可惜」にも「惜しい」というニュアンスは含まれています。そして、日本人が「もったいない」を多用するのと同じように、中国人もこの「可惜」を一日に何度も使うそうです。
タイ語では「もったいない」を「???????」と表現します。そして、この単語にも「惜しい」というニュアンスがあり、日本語の「もったいない」にも「惜しい」にも、ピッタリあてはまります。タイ人と一緒にいればすぐに分かりますが、彼(女)らは、この「???????」を一日に何度も使います。
(ちなみに、「可惜」「???????」を、無理やりカタカナ表記すると、それぞれ「コシ」「シアダイ」になるかもしれませんが、中国語もタイ語も声調があり、子音や母音の発音も日本語とは異なりますから、このままカタカタ表記を発音してもまず通じません。)
おそらく、他の言語でも、特にアジアの言語では、「もったいない」にピッタリ合致する表現が存在するのではないでしょうか。
マータイ女史が、日本語の「もったいない」を採用されたのは、「可惜」や「???????」を知るよりも先に「もったいない」という単語に巡り合ったからではないかと思われますが、もしかすると「もったいない」という響きのようなものが気に入られたのかもしれません。
いずれにせよ、「もったいない(mottainai)」がアフリカ諸国だけでなく、「kaizen」や「tsunami」や「karaoke」と同じように国際語として認識されつつあるというのは、日本人にとっては嬉しいものです。
日本語を勉強する日本滞在の外国人が増え、「mottainai」が国際語となるというのは、どちらも歓迎すべきことですが、最近のアジアの情勢をみていると、そう喜んでばかりもいられないようです。
例えば、最近、韓国や中国の大学生の間で、日本語を勉強したり、日本留学を希望したりする学生が激減しているそうです。もはや日本からは学ぶことがないということなのでしょうか。
また、相変わらず中国と韓国では「反日」のムードが強いそうです。仲のよい近所付き合いが日常生活上不可欠なのと同じように、近隣諸国とはいい関係を保たなければならないのは自明ですが、中国と韓国の世論では、良好な関係を維持することにより得られるメリットよりも、日本を敵対視することを優先させているようです。また、このような世論に反応して「中国や韓国は嫌い」と感じている日本人が増えてきているそうです。
しかし、こういう世論があるのは間違いないとしても、個人レベルでみたときに、「日本人は嫌い」と考えている中国人や韓国人、あるいは「中国人や韓国人は嫌い」と考えている日本人はどれだけいるでしょうか。
私は、何人かの韓国人や中国人の知り合いがいますが、「嫌い」などと思ったことは一度もありませんし、同じように、個人レベルで韓国人や中国人と付き合いのある日本人で、彼(女)らを嫌いと言っている日本人も、その人が彼らの詐欺の被害にあったなどという特殊な事情がない限りは、ほとんどいないのではないでしょうか。同様に、日本や日本人をよく知る韓国人や中国人で、日本人が嫌いと言っている人も見たことがありません。
つまるところ、共同体としての「日本」には敵対心をもっている韓国人や中国人も、個々の「日本人」と付き合えば理解し合えるのです。これは、日本人から彼(女)らをみたときも同様です。
イメージや幻想で人間を評価するのではなく、そんな評価をする前に、実際に彼(女)らと付き合ってみるべきなのです。かけがえのない友人となるかもしれない可能性を、先入観や偏見でつぶしてしまうのは「mottainai」ことなのです。
医師と患者さんは「友人」の関係にはなれないかもしれませんが、私はこれから、以前にも増して医師として彼(女)らの力になりたいと考えています。そして、こういったことを含めた草の根レベルの交流が、国際世論にまで影響を及ぼすことを期待しています。 |