メディカルエッセイ

16 タトゥーの功罪 2005/6/1

タトゥーを入れる人が増えてきているように感じます。一昔前までは、タトゥー(刺青)とは、そのスジの人が入れるものと考えられていたように思います。ところが、最近では、10代の女性や家庭の主婦が、何のためらいもなく、「普通に」入れているような印象を受けます。

 タトゥーを「普通に」入れる人が増える一方で、日本には依然として、タトゥーに対する偏見があるのも事実です。

 例えば、タトゥーを入れている人は入場できない銭湯がありますし、入会を断るフィットネスクラブも珍しくないようです。私は、こういう事実は許しがたい「差別」だと思うのですが、そういう規則を設けている銭湯やフィットネスクラブに苦情が寄せられたり、差別の撤回を求めた市民運動が起こったり、という話を聞くこともありませんから、社会全体でみたときには、タトゥーを入れる人たちは、まだ充分に社会的に認められていないマイノリティであるのかもしれません。

 先日、この「差別」を逆手にとって、許しがたい利益を享受している若い男性の話を聞きました。二十代前半のこの男性は、全身にタトゥーを入れているのですが、「タトゥーがあるせいで、社会的に差別を受けておりそのため就職ができない。だから生活保護を受けたい。」という主張で、実際に生活保護を受けているのです。この男性は、全身にタトゥーを入れていると言っても手足には入っておらず、普通に衣服を着ればタトゥーを入れていることなど分かりません。自分が働かずにお金を得たいがために、屁理屈をこねているだけなのです。

 医師をしていると日々感じるのですが、生活保護を受給している人たちのなかには、本当は働けるのじゃないのかと思われる人が少なくありません。一方で、病気があるのだから生活保護を申請すればいいのに、と思われる人で、「どうしても生活保護には頼りたくない」という信念を持っておられる方もおられます。
 
 さて、タトゥーですが、タイでは日本よりもはるかに普及しているようです。バンコクの繁華街やパタヤなどのリゾート地では、タトゥーショップが乱立しており、ファッション感覚でタトゥーを入れる人が多いのに驚きます。

 けれども、タイではタトゥーとは、もともとはファッション感覚で入れるようなものではなく、神聖で宗教的なものなのです。

タイ人なら誰でも知っている伝説があります。

 それは、アユタヤ時代の中部バングラチャン村での出来事です。タトゥーを入れた11人の村人は、ビルマ兵に切られてもケガひとつ負わず、逆に侵略者を苦しめたそうです。そして現在でもタトゥーが、「特別な力をもたらす」と信じる人が多いのです。
 最近、イスラム過激派による襲撃が続くタイ南部に派遣されるタイ国軍兵士のあいだで、タトゥーを入れるのが流行しているそうです。テロ活動と戦う兵士たちは、タトゥーに仏の加護を求めているのです。また、タイでは、実際にタトゥーを入れてから、「仕事も家庭も好転した」という人が大勢いるそうです。

 神聖化しているタトゥーを入れる彫師のなかには、「カリスマ彫師」と呼ばれる人がいます。例えば、タイのパトゥムタニ県在住のヌー氏がそのひとりで、氏のもとには、政治家やビジネスマンに加えて、兵士や警官、さらには女優も訪れます。アンジェリーナ・ジョリーの背中の「虎」も、ヌー氏の手によるものだそうです。

 ヌー氏によると、タトゥーと仏教の間には密接な関係があるそうです。「タトゥーはタイを支える精神的な柱。道徳心がない者は受け付けない。」と氏は言います。実際、兵士でも、イスラム教徒に対する敵意をむき出しにするような者は追い返すそうです。

 神聖で宗教的な意味を持ち、人々の精神の土台となるタトゥーですが、私は、安易にタトゥーを入れることの危険性を医学的な観点から主張したいと考えています。

 私が、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアをおこなったことは、別のところで述べましたが、このエイズホスピスに入所されている大半の患者さんが、タトゥーを入れていました。なかには、両手両足も含めて全身に鮮やかなタトゥーを入れている患者さんもいました。北タイの施設でお会いしたエイズ患者さんも全身にタトゥーを入れていました。

 そして、タイの医師や看護師が口をそろえて言います。「タイでは、正確な統計はないけれども、かなりの人がタトゥーを入れることによってHIVに感染している」、と。

 カリスマ彫師のヌー氏は、寺のなかの神聖なスペースで、「彫り」の施術をおこなうそうですが、バンコクの繁華街やパタヤなどのリゾート地でファッション感覚でタトゥーを入れる人も少なくありません。

 そして、こういった場所での施術は、感染予防が充分におこなわれているとは到底思えないのです。寺でタトゥーを入れたとしても、感染予防対策が万全とは言えないと思いますが、繁華街やリゾート地での施術は、私の目には危険極まりないものにうつりました。

 こういった地域のタトゥーショップでは、街頭でタトゥーの写真を見せて客引きをおこないます。客がタトゥーを入れることに同意をすると、近くの小屋のようなところに行くことになります。そこで施術がおこなわれるのですが、そういった場所には、滅菌器が置いてあるとは到底思えませんし、どれだけ無菌の環境で施術されるのか、多いに疑問です。 

 日々の臨床上で遭遇する患者さんのなかで、C型肝炎ウイルスを保有している人は少なくありません。日本全体では、およそ300万人もの人がこのウイルスを持っているとも言われています。このウイルスが発見されたのは1989年で、それ以前に輸血を受けた人に感染者が多いという特徴があります。また、1960年代頃までは、予防接種の際の注射針を使い回ししていた地域があったそうで、それが原因で感染した人もいると言われています。

 昔の日本ではヒロポンが合法で、薬局にも売っており(世界中で覚醒剤が合法だったのはおそらく日本だけです)、この覚醒剤の静脈注射により感染したという人も少なくありません。

 そして、患者さんを問診すると、タトゥーを入れることによってC型肝炎ウイルスに感染したと思われる人も決して珍しくはないのです。
 
 おそらく、現在でもタトゥーを入れることによってC型肝炎ウイルスに感染する人もいるに違いありません。また、タイではHIVに感染したと思われる人が大勢いるのです。

 タトゥーショップによっては、かなり入念に対策を取っているところもあるようです。例えば、施術で使う針をすべて使い捨てにしているショップもあるそうです。

 しかしながら、完全な滅菌対策をおこなうというのであれば、少なくとも医療現場で実際におこなわれている外科手術の環境と同じようにする必要があります。医療現場では、術者は滅菌されたガウンを着て、滅菌された手袋を着用し、使用する器具もすべて滅菌されたものです。手術室によっては、室内を室外に比べて気圧を高くしてあり、ドアが開いたときに、室外の空気が室内に入らないような工夫もなされています。

 しかし、それでも感染するときは感染するのです。だから、術中、及び術後には抗生物質の投与が不可欠です。しかしながら、抗生物質は細菌を死滅させることはできても、C型肝炎ウイルスやHIVのようなウイルスにはまったく無効です。

 私はこれまでの人生でまだタトゥーを入れたいと思ったことはありませんが、興味がないこともありません。もしも私が入れることを決意したなら、病院や診療所に彫師を呼んで、完全な無菌状態でやってもらいたいと思います。それに医療機関で施術を受ければ、同時に痛みのコントロールをおこなうこともできます。ただ、医療機関でのタトゥーなどという話は聞いたことがありませんから、現実的にはそういうやり方はむつかしいのかもしれません。

 タトゥーというものは、たしかに医学的にはすすめられるものではありませんし、残念ながら社会的な偏見があるのも事実です。しかしながら一方では、神聖な、あるいは宗教的な意味を有するものですし、タトゥーを入れることによって士気が上がる兵士がいるのも事実なわけですから、一概にいいとか悪いとか言えるような問題ではありません。

 入れようと思っている人は、その利点とリスクを充分に考慮する必要があるものと、私は考えています。