マンスリーレポート

2006年5月号 GINA誕生 2006/05/03

 「人間は生きているのではなく生かされているのである」

 これは、私が以前読んだ本のなかにでてきた言葉です。不思議なことに、この本のタイトルや著者はまったく記憶になく、そればかりかこの本の内容すら覚えていません。また、いつ頃この本を読んだのかも思い出すことができません。

 にもかかわらず、なぜかこの言葉だけは私の心に深く刻まれており、ときおり思い出すことがあるのです。

 思い出すと言っても、私はずっとこの言葉が好きではありませんでした。なぜなら、「人生とは自らが切り開いていくもの」だと思っているからです。「生かされている」などといった消極的な意識を持っていれば夢も希望も叶うはずがないではないか、私がこの言葉を初めて見たときに持った印象はそのようなものでした。

 実際、私はこれまでの人生において、いつも「人生とは自らが切り開いていくもの」と信じて行動してきました。平均偏差値が40しかなく、すべての模試でE判定という状況で周囲の反対を押し切って関西学院大学の受験に挑んだのも、周囲にバカにされながらも26歳で医学部受験を決意したのもこの信条があったからです。

 関西学院大学卒業時には、バブル経済真っ盛りで大企業への就職には一切困らない状況のなかで、あえて関西の中堅企業を選んだのですが、これは「大企業に入って組織の歯車になるのではなく中堅企業でおもしろい仕事がしたい」という動機からです。大企業に入ってしまえば、自分のやりたいことを自分の意思で開拓していくことができなくなることを懸念したのです。

 また、医師になってから、自分が勉強したいことを追求し続けているのも「人生とは自らが切り開いていくもの」というこの信条があるからです。

 幸いなことに、私はこの信条を強く意識していたことが功を奏してなのか、どうしてもやりたい!と思った夢の大部分を実現させてきました。

 しかしながら、最近になって、この信条「人生とは自らが切り開いていくもの」は、真実であることには変わりはないとしても、これだけを強調しすぎるのは「謙虚さ」を見失うことになるのではないかと考えるようになりました。

 仮に私のこれまでの人生を一応の「成功」とするならば、その「成功」は決して自分ひとりの努力によるものではありません。ふたつの大学進学は両親の理解と協力がなければ実現しなかったことですし、会社で楽しく仕事ができて英語の実力を付けることができたのはその会社の多くの方のおかげです。

 英語のことをもう少し掘り下げると、そもそも私は英語にはまったく興味がなかったのです。面接時には、私は国内営業希望と言い、海外事業部には興味がないと話していました。それが、なぜか、男性では私ひとりだけが海外事業部に配属されたのです。希望が叶えられず腐りかけていた私を鼓舞させてくれたのもまたこの会社の方々でした。そして、会社員時代に英語ができるようになったおかげで医学部受験が有利になり、現在仕事で海外に行くようになっても英語で困ることはそれほどないのです。

 医学部在学時代には、勉強のスランプに陥ったことがありましたが、このときは同級生の励みに助けられました。医師になってからは、多くの素晴らしい先輩医師に恵まれたおかげで非常に有意義な勉強ができました。

 つまるところ、私がこれまでの人生で、夢の多くを実現させているのは周囲の支えがあったからなのです。決して自分ひとりの実力ではないのです。

 そして、今、もうひとつ思うことがあります。それが、冒頭で述べた「人間は生きているのではなく生かされているのである」という言葉です。これまで私は「人生とは自ら切り開いていくもの」であって、「生かされている」というのはその対極の考え方であると思っていましたが、そうではなく、これらふたつは互いに矛盾するものではないのでは、と思うようになったのです。

 そう思うようになったのは、今年の4月から新しいクリニックを設立するつもりで、昨年秋から準備を進めていたのにもかかわらず、土壇場で物件が見つからないというアクシデントに見舞われたのがきっかけなのですが、それだけではありません。

 クリニックを開始するのと同時に立ち上げようと思っていたNPO法人GINAについては、協力者が次々と現れ、現在タイですすめている調査も順調に進んでいます。現在、ウェブサイトの作成に取り組んでいますがこちらも楽しく進めることができています。

 クリニックとGINA、どちらも同じように力を入れようと思っていたのですが、クリニックの方は一歩も前に進まず、かたやGINAは何もかも順調なのです。臨床とNPO活動、どちらも他人に奉仕するという意味では変わりないのですが、GINAに流れがきているのは、きっと私が「生かされている」ことに関係があるのではないか、と思うのです。

 さらに、これまでの人生を振り返ってみると、先に述べた会社員時代に英語を勉強するきっかけを与えられたのも、そもそも勉強ができないのにもかかわらず大学進学ができる環境にいることができたのも「生かされている」からではないかと感じるのです。

 ところで、「生かされている」というのは「見えざる手」に導かれている、という言い方ができるかもしれません。

 「見えざる手」というのは、アダム・スミスの言葉で、市場主義を絶対視する人たちの間で語られることが多いようです。これは、利己的に行動する各人が市場において自由競争をおこなえば、自然と需要と供給は収束に向かい、経済的均衡が実現され、社会的安定がもたらされる、というものです。

 市場主義を絶対視する人たちは、この「利己的に行動」という言葉を正当化するために、「見えざる手」という言葉をよく引き合いに出します。

 けれども、アダム・スミスは「見えざる手」には前提条件があるということも述べています。有名な『国富論』よりも先に出版された『道徳感情論』という書物のなかで、アダム・スミスは、「自由市場主義の土台には個人的な徳性と善意が必要」という考えを披露しています。つまり、「利己的に行動」し「見えざる手」に導かれるのは、徳性と善意、要するに道徳的な基盤があっての上だということなのです。
 
 話をGINAに戻しましょう。

 4月22日に記念すべき第1回の総会が開かれました。

 GINAのミッション・ステイトメントは、「HIV/AIDS患者を支援し、同時にHIV/AIDSに関連した差別・スティグマなどを失くすために社会に対し正しい知識を啓発する。また、HIV感染を予防するための啓発活動もおこなう。」というものです。ミッション・ステイトメントは、つくりっぱなしでは意味がありませんし、これから協力してくれる人たちの意見も取り入れて何度も見直していくつもりですが、まずはこれで開始したいと考えています。

 GINAはNPO法人であり(法的に認可されるのは9月の予定です)、利益団体ではありませんから、競争相手はおらず、はじめから「利己的に行動」する組織ではありません。そして、もちろん「道徳的な基盤」の上に成り立っています。

 GINAの目的のひとつは、支援を必要としている人たち、あるいは正しい知識を必要としている人たちのニーズを把握し、そして人間の自然な欲求である(少なくとも私はそう考えています)「奉仕」や「貢献」をおこないたいと考えている人たちの力になることです。
 
 「見えざる手」に導かれて人々に貢献できる組織、GINAがそのようになることを私は確信しています。