マンスリーレポート

2006年6月号 遺言 2006/06/01

 私は現在複数の医療機関で仕事をおこなっていますが、先月ほど患者さんの死に遭遇した月はこれまでなかったように思います。

 医師になってからこれまでの間に、およそ100人の患者さんの死を見てきましたが、先月だけで5人もの患者さんの死に遭遇しました。ターミナルステージの状態で、死をある程度受け入れていた方もおられましたが、容態が急激に悪化し、緊急で気管内挿管や心臓マッサージをおこなった患者さんもいます。

 医師を数ヶ月も続けると、例えば、顔面を包丁でメッタ刺しにされた患者さんに直面しても、交通事故ですでに片足が切断されている患者さんが運ばれてきても、冷静に対応できるようになりますが、私はいまだに患者さんの「死」に遭遇すると、その後しばらくは落ち着いていられません。夜間に患者さんの死亡確認をするときは、それが本人も家族もすでに受け入れていた死であったとしても、その日は朝まで眠れません。

 これは、もっと積極的な医療をおこなって救命したかったという気持ちだけではありません。患者さんが長い間病気を放っておいたり、交通事故やナイフで刺されるといった事件性があったりするものでは、そのように思うことも多いのですが、もっと積極的な医療をおこないたかった、というよりは、「生命の尊厳」のようなものが頭を支配して離れなくなるのです。
 
 先月のある夜、亡くなった患者さんが送迎されるのを見送った後、インターネットで新聞記事を眺めていると、5月23日のタイ北部の大雨の被害で、50人以上が死亡、60人以上が行方不明となったとの情報が入ってきました。

 また、南シナ海を襲った大型台風チャンチーの影響で、ベトナムでは20人以上が死亡、およそ200人が依然行方不明という記事も目にしました。

 天災による被災者に自分は何ができるだろう・・・、そんなことを考えていた矢先に、27日にジャワ島で大地震が発生し、すでにおよそ6000人の人が命を失っています。

 また、相変わらずイラクではテロが頻発し、これまでにジャーナリストだけで死者が70人を超え、これはベトナム戦争をすでに超えているそうです。
 
 天災は予期できるものではありませんし、テロにしても、イラクで起こることは予想できるとしても、例えば、2002年10月1日に起こった、バリ島クタ地区での惨事は誰が予期できたでしょうか。
 
 日本にいれば安全と考えられるわけでもありません。阪神大震災や新潟中越地震を予期していた人はほぼ皆無でしょうし、最近では理解不能な殺人事件の報道をよく見聞きします。テロは今後もないか、というとそういう保障もあるわけではありません。イスラム地区ではないバリのクタ地区のような観光地で、およそ200人もの人が命を失う大惨事が起こるくらいですから、今後日本でもテロがないという保障はないのです。

 であるならば、誰もが「死」というものを意識する必要があるのかもしれません。私は、「脳死」や「臓器移植」の観点から、あるいは「人工呼吸器」を装着するかしないか、といった問題から、誰もができるだけ早いうちに、そのような事態になったときにどうするか、ということがらを家族で話し合っておくべき、という考えを持っていますが、この1ヶ月でその考えがさらに強固なものとなりました。

 私は明日未明からタイ国に渡航します。今回は南タイ中心で、主目的はソンクラー県にある大学訪問です。

 タイは大半が仏教徒ですが、南タイを中心にイスラム教徒も少なくありません。もともと、イスラム教徒の多いタイ南部では、独立を訴える声が小さくなく、最近まで圧倒的な支持率を得ていたタクシン首相も、この地域ではそれほど支持されていなかったという経緯があります。今年に入ってからのタクシン首相の急激な支持率低下も重なり、現在タイ南部はそれほど安全ではないとの噂もあります。実際、昨年ソンクラー県では戒厳令が引かれています。(依然タクシン首相が圧倒的な支持率を維持しているタイ東北部(イサーン地方)とは対照的です。)

 そのような地域に赴くわけですから、やはりそれなりのリスクを負わなければなりません。もちろん、(戒厳令が解除されていたとしても)夜間の外出を控える、ひとりで危険と思わしき地区に行かない、などの対策は取りますが、それでも危険性をゼロにすることはできないと考えるべきだと思います。

 私はまだまだ死にたくありませんが、その一方で、天災やテロでの死亡なら仕方がないという気持ちもあります。「Nothing ventured, nothing gained.(リスクを冒さなければ何も得られない)」は、私の座右の銘のひとつですし、まだまだやり遂げていないことがあるにせよ、これまで一生懸命生きてきたから悔いはない、というのもその理由です。

 臓器移植カードはカバンの中に入っていますから、これはいいとして(ただしタイでも有効なのかどうかは知りませんが・・・)、「遺言」を残しておいた方がいいのではないかとの考えに至りました。

 「遺言」と言っても、私には遺産は何もありません。それどころか家のローンも残っています。ただ、生命保険には入っていますし、海外での死亡で保険金のおりるクレジットカードを複数枚持っています。これらを全部合わせて、保険金が最大限支払われるとすると、1億円以上の現金がおりることになります。

 実際に1億円以上の保険金が支払われるなら、必要な分を両親とGINAのスタッフの元に届くようにして、残りの大部分を、GINAを通していくつかの施設に寄附してもらいたいと思います。これでGINAの存在価値が少しは認められるかもしれませんし、私自身が満足のいく生命の終焉を実感できるはずです。

 保険金の遺言とは別に、GINAのスタッフにお願いがあります。

 もしも私が本当に死亡して、なおかつ骨が残っているときには、どうかチェンマイのピン川で散骨をお願いいたします。

 これまで何度もタイに行きましたが、ゆっくりできたことはほとんどありませんでした。

 散骨してもらえれば、私はピン川でのんびりと水浴びを楽しんで、ゆっくりとタイを南に下ります。そのうちチャオプラヤー川となるでしょうから、今度はタイ中部でのんびりします。アユタヤあたりで休憩したいですね。それに飽きたらバンコクに入って夜景を楽しみ、最後はタイランド湾、そして南シナ海です。

 こう考えるとけっこう優雅な旅だと思います。

 ただ、ひとつだけ心配なことがあります。

 タイではそろそろ雨季に入ります。ピン川もチャオプラヤー川もときに洪水を引き起こします。洪水で流されれば、私はいずれタイ中部あたりの土となるのでしょうか。
 その時はその時で、タイ国永住です。それも悪くはないでしょう。

 では、ここに遺言を残します・・・、と言いたいところですが、おそらく現行の法律では、遺言状はこのようなwebsiteに書きこむだけでは無効で、きちんと日付と署名の入ったものが必要ではないかと思われます。
 
 日本を発つまであと数時間あります。

 では、そろそろ遺言状の作成にとりかかります。