マンスリーレポート

2012年1月号 古くて新しい「絆」

2011年の世相を1字で表す「今年の漢字」に「絆(きずな)」が選ばれたことが先月報道されました。これはもちろん東日本大震災を受けてのことでしょう。被災地では、震災をきっかけに地域社会のネットワークが強化されお互いの絆が改めて確認できた、という声を何度も聞きました。

 また、被災者とは面識がなく東北地方にこれまで縁がなかった人たちも被災地に入りボランティアに従事しました。現地に行けなかった人も寄附金を送り、世界中から応援のメッセージが寄せられました。これらは震災をきっかけに生まれた新しい「絆」と言ってもいいかもしれません。

 一方、放射線にまつわる諸問題は解決しておらず、風評被害に苦しんでいる人も少なくなく、瓦礫の受け入れをほとんどの自治体が拒否している現状を考えると、「絆」という言葉がむなしく響くようにも思われます。放射線が原因で差別的な扱いをされた人からすれば、「絆」などという言葉は偽善にしか聞こえないでしょう。

 しかしながら、震災をきっかけに「絆」というものを多くの人が考えるようになったのは事実だと思います。そして、2011年の「今年の漢字」に「絆」が選ばれたわけですから、我々は改めて「絆」というものについて思いを巡らせるべきでしょう。

 私は毎年、年の初めにミッションステイトメントの見直しとその年の「課題」を決めるという習慣があります。(2011年の課題は「与える」、2012年は「仲間との時間を大切にする」でした) 毎年12月になれば、来年の「課題」は何にしようかな・・、と考え出します。そんなとき「絆」という言葉を聞き、いいな・・、と感じはしたのですが、「今年の漢字」に選ばれた言葉をそのまま自分の「課題」にするのは、あまりにも安易というか、短絡的すぎるような気がしていったんは却下したのですが、結論を言えば結局私は2012年の自分の課題を「絆」にしました。

 それにはふたつのエピソードがあったからですが、ふたつともフェイスブックにまつわるものです。

 ひとつは私自身が参加した同窓会です。数年前から高校の同級生と集まる機会が増えていて(といっても年に1~2回程度ですが)、ここ数年間は忘年会が恒例となっています。今回もミナミのある居酒屋で忘年会が開催されたのですが、実に24年ぶりに再会した同級生もいて大変懐かしく感じました。同級生というのは不思議なもので、20年以上たっているというのに少し話をすればあの頃にすぐに戻れるような気持ちになります。そして、24年ぶりの再開のきっかけとなった忘年会の情報はフェイスブックを通して得た、という同級生もいたのです。

 また今回の同窓会には参加できなかったものの、フェイスブックを通して旧知とコミュニケーションをとるようになったという同級生もいます。そして、フェイスブックのユーザーである同級生からこういったことを最近よく聞くようになりました。(尚、私自身はフェイスブックをしていません。医師はフェイスブックをすべきでないということはメディカルエッセイ第103回「僕は友達ができない」(2011年8月)で述べましたが、その最たる理由は、患者さんからの友達リクエストを承認できないから、というものです)

 もうひとつのエピソードも私の友達の話です。長い間無職の状態が続いていて最近ようやく就職が決まったというその彼は、いわゆる引きこもりのような状態が2年以上も続いており、電話にも出ない状態で、気分がいいときにのみメールをする、といった感じで社会とのつながりがほとんどありませんでした。

 半年ほど前からその彼から頻繁にメールが届くようになったのですが、その理由は、mixiとフェイスブックを始めたことで新しい友達が次々とでき、さらに小学校以来という旧知と連絡がとれるようになり、精神状態が随分よくなったから、と言います。そして、規模はそれほど大きくないものの将来性のある優良企業に就職が決まり、現在は責任のある重要な仕事も次々と任されているといいます。半年前までは「生きる気力もない・・・」と言っていたのが嘘のようです。

 中高の同級生など旧知と再会し話をするということは、何にも変えがたい楽しみがあります。損得勘定や利害のまったくない関係というものを社会人になってから築くのは簡単ではなく、そういう意味でたとえ年に一度でも旧知に会えるということは有難いことです。

 私自身が同窓会で楽しむことができて、私の友達がフェイスブックを通じて旧知とコミュニケーションをとるようになりそれが社会復帰につながったという事実を考えたとき、これが「絆」の力ではないか、と思わずにはいられません。

 回顧主義が好きな人は、日本の古き善き時代には人の温かみがあったという話をよくします。まず大家族があって親戚関係があって、親族は助け合うのが当然だった、さらに近所との関係は「持ちつ持たれつ」であり、困っている人が近くにいれば皆で助けるのが当たり前で地域社会は大切なコミュニティであった。それに比べて今は・・・、という議論になります。

 あるいは現在50歳以上の人たちのなかに終身雇用制の崩壊を嘆く人がいますが、これは、失われた地域社会の絆を会社というひとつの"社会"が代替していた、という考えです。高度経済成長からバブル時代くらいまでの間は、終身雇用が当然であり、新入社員は独身寮に入り、社内結婚をおこない、社宅に住み、子供をつれて会社の運動会や慰安旅行に参加していました。これは人の生活の基盤となるコミュニティそのものと言っていいでしょう。

 地域社会や昔の会社がコミュニティとして機能していたというこういった考え方は間違っていませんし、私個人としても嫌いではありません。けれども、もはやそのような時代に戻るのは不可能です。都心では回覧板も公民館もなくマンションの隣に住む人の顔や名前すら知らない、ということが当たり前の時代です。どれだけ大企業に就職しようが、定年まで安泰というようなことは期待できません。

 では、人間が人間として生きていくために必要だった地域社会や昔の会社がなくなってしまっている現在、我々はどのようにしてコミュニティをつくるべきなのか・・・。

 私はその答えのひとつに「旧知との再開」があると思うのです。そして、再開するためのツールとしてフェイスブックなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が役立つのではないか、と考えています。

 もちろんSNSで新たな友達ができる、ということもあり、それはそれでいいことだとは思います。なかにはSNSで知り合った人の紹介で就職先が見つかった、結婚相手が見つかった、などという人もいます。もちろん私はそういったことを否定しませんが、一方で顔を見ない相手との関係性が脆弱なのも事実です。

 実は私が日頃診察している30~40代の男女にも、心身とも順調でない患者さんが少なくありません。彼(女)らの多くは、頼れる人がおらず安心してコミュニケーションのとれる友達がいない、と言います。しかし、彼(女)らとて、生まれたときからずっとひとりで生きてきたわけではありません。なかには、高校時代に生徒会の副会長だったとか、テニス部のキャプテンだったとか、そういった人もいるのです。

 地域社会や会社でのつながりがないのであれば、昔の友達どうしで助け合う社会をつくればいいのではないか・・・、年末年始の休暇を通して私はそのような考えにいたりました。まずは私自身がこれまでの人生で知り合ってきた人のなかに、力になれる人がいないかどうかを考え、改めて「絆」というものに思いを巡らせてみたいと思います。

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2018/09/25

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