はやりの病気

第34回(2006年6月) そろそろ本格的な禁煙を!~後編~

 前回は、喫煙者がタバコをやめられない様子を比喩的にひとつの物語としてお話しました。タバコを吸わない人はこの物語を大げさだと感じられるでしょうが、喫煙者の苦しみというのは相当なものなのです。

 実は、この物語の主人公である「僕」は私自身のことです。もちろん、私もタバコの有害性を認識しており、タバコが原因で病気になった人を多くみていますし、禁煙を指導する立場にあるわけですから、すぐにでも禁煙したいと思っています。

 しかし、これまで何十回と禁煙を試みましたが一度も成功していません。今回こそは!と思っても、前回の物語のようにだいたい60日前後で挫折して夜中にコンビニに駆け込んでしまうのです。

 タバコがやめられないのはニコチンに対する依存症です。だから、科学的に考えれば、ニコチンが身体に残存している期間を過ぎれば禁煙はたやすくなるはずです。禁煙を開始してからだいたい3週間前後で身体からニコチンが完全に除去されるため「3週間を過ぎればタバコがなくても苦痛でなくなる」と言われることがあります。

 けれども、実際に禁煙に成功した人に話を聞いてみても、多くの人が、「やめて何年たってもタバコをいらないと思うことはない。すぐにでも前のような喫煙者に戻れる」と言います。単純な科学的な理屈だけでは片付かないところに禁煙のむつかしさがあります。

 物語で述べたように「理性」だけでは禁煙はできません。タバコを切らせた状態が長く続くと「理性」で物事を考えられなくなってしまいます。そのために非合理的な行動に出てしまうのです。物語で述べた、ガラスを割ったり、おしいれをひっくりかえしてタバコのかけらを探したりするエピソードも、実際の私の体験です。これら以外にも、例えば、紙を燃やして煙を鼻に入れてみたり、煙が出ている銭湯の煙突をみると無性に登りたくなる衝動に駆られたりすることもあります。

 さらに「罪悪感」に苦しめられることにもなります。物語で述べたように、「何も悪くない恋人を自分の都合で一方的に捨てた」ような感覚にとらわれるのです。

 ちょうど恋人と別れるときに、その恋人のいいところばかりが思い出されるのと同様、タバコをやめるときにも数々の思い出が頭をよぎります。前回の物語で比喩的に述べた「雑誌に登場」というのはタバコの広告のことです。現在のように広告が規制される前は、雑誌はもちろんテレビコマーシャルも放映されていました。そしてその広告が、青い海や青い空、あるいは都会の夜景などをモチーフにしており、タバコを吸ったときにきれいな景色や夜景を眺めているときと同じような感覚になるよう脳に刷り込まれてしまっているのです。

 ですから、タバコの利点は、たった1本でまるでリゾート地に来ているかのようにリラックスできることです。もっとも、本当にリラックスできているわけではないという医学的な研究もあり、非喫煙者の人にとってみれば、リラックスどころか苦痛以外の何ものでもないでしょう。しかしながら、リラックスできているかどうかというのは主観的なものであり、いったん依存症になってしまうと容易にリラックス効果の得られる(と本人が思い込んでいる)タバコが手放せなくなってしまうのです。

 タバコを吸えない苦痛は寝ているときにもやってきます。というより、この苦痛は睡眠を妨げます。物語では、「彼女」に手を伸ばしても触れることができない夢をみる、としていますが、私が実際によく見る夢は、タバコを吸っているシーンです。久しぶりに手にしたタバコを思いっきり吸うのですが味がしません。そのため何度も大きな呼吸を繰り返すことになるのですが、これがどうやら夢の中だけでなく実際にも寝ながら大きな呼吸をしているようなのです。そして、空気を吸いすぎて(医学的には過換気になって)苦しくなって目が覚める、というわけです。

 私の場合、この睡眠障害は禁煙を開始してから一ヶ月が過ぎた頃にやってきます。禁煙開始直後から寝つきが悪くなるのですが、なかなか寝付けないところにこの夢で目覚めることになり、本当に辛いのです。睡眠不足から日中にストレスがたまることになり、さらに身体はそのストレスを解消するためにタバコをほしがります。まさに悪循環なのです。

 さて、ではそんなタバコを完全に断ち切るにはどうすればいいのでしょうか。

 まずは、禁煙する!という確固とした決意をすることが必要です。そのためには、自分がなぜタバコをやめたいのかを明確にする必要があります。ファッション感覚で禁煙を試みても挫折するのは時間の問題です。絶対に禁煙しなければならない理由をいつも意識できなければまず成功しないでしょう。

 しかしながら、決意だけでは不十分であることもあります。いくらタバコの有害性を理解していても、ニコチンの禁断症状が出現した際にはいかなる理論も理性も役に立ちません。理論的にものごとを考えられなくなり、ついには非合理的な行動に出てしまうのです。
 
 禁煙治療薬の有効性は広く認められており、これらに頼るのもひとつの方法です。ただし、絶対に禁煙する!という強い決意があることが前提です。

 最も安価で簡単に入手できる禁煙治療薬はニコチンガムです。これは処方箋なしで薬局で買うことができます。しかし、私はニコチンガムで禁煙に成功したという人をほとんど見たことがありません。この理由は、ニコチンを摂取できるのは日中のガムを噛んでいる時間だけであり、そのためニコチンの吸収量が一定しないからではないかと思われます。

 ニコチンの貼付シートがあります。これは医師の処方箋が必要な薬剤で、入手するには必ず医師の診察が必要です。身体に貼付するシートに含まれるニコチンの量を徐々に減らしていくことによってニコチンを断ち切るという方法です。少しずつ一定量のニコチンが緩徐に体内に吸収されていきますから、ニコチンガムと異なり、安定したニコチン摂取が可能となり、ニコチンを徐々に断ち切るには適していると言えるでしょう。

 これまで、禁煙に対する医療というのは保険外、つまり自費診療だけでしたが、2006年4月より保険適用となりました。厚生労働省がニコチン依存症は立派な「病気」であることを認めたというわけです。

 ただ、保険適用といっても、診察代はたしかに保険適用となりますが、肝心のニコチンシート(貼付薬)は薬価が設定されておらずこの分は依然自費のままです。これでは一通りの治療が終わるまでに数万円は必要となりますし、事実上の混合診療とも考えられます。

 そこで、厚生労働省は早急にニコチンシートの薬価を決めることにしました。おそらく、このエッセイがウェブサイトに公開される頃には薬価が決められ保険適用となっているのではないかと思われます。
 
 禁煙治療薬は経口薬(飲み薬)もあります。すでに欧米では、bupropin(商品名はZyban)という薬品が発売されており、それなりの効果が認められています。この薬は、インターネットによる通販などを利用すれば誰でも入手可能のようですが、医師の指導なしで服薬するのは非常に危険だと思われます。

 最近新たな経口禁煙治療薬が開発され話題を呼んでいます。Varenicline(注)という名前のその薬剤は、先発のbupropinの2倍近くの効果があることが、研究グループの対照試験で明らかになりました。欧米では近日中に発売になる見込みだそうです。

 これらの経口禁煙治療薬は、日本でも近いうちに市場に登場する可能性があり現在注目されています。
 
 私自身としても、貼付シートを使うべきか、経口薬を使うべきなのか、現在迷っているところです。もちろんその前に、禁煙する!という確固とした決意を確認する必要がありますが。

 素敵な「彼女」と別れることを本当に後悔しないのか、「彼女」との思い出を本当に断ち切れるのか、そして「彼女」に対する罪悪感を本当に克服できるのか・・・。

 これらの問題を乗り越えない限りは、シートか経口薬かを考えることに意味はないでしょう。

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注:Vareniclineはその後日本でもファイザー社から「チャンピックス」という商品名で発売されました。