はやりの病気

第37回(2006年9月) あなたの周りにも?!-アスペルガー症候群-

 「アスペルガー症候群」という病気の名前を聞いたことがあるでしょうか。

 私がこの病名を初めて聞いたのは、医学部の四回生の精神科の授業中でした。アスペルガー症候群とは、オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによって命名された精神疾患で、おおまかに言えば「知的障害のない自閉症」です。

 自閉症の場合は、言語発達が遅れていることが多く、人とのかかわりをもとうとしないこともあり、また「自閉症」という言葉の印象もあって、「ひとりで閉じこもっている」ようなイメージがもたれることがあります。けれども、このイメージは必ずしも正しくなく、自閉症だからといって、部屋にこもって他人とのコミュニケーションを絶っているわけではありません。

 もしも、自閉症ではあるものの、言語発達の遅れも知的障害もない、あるいはIQが高い場合はどうなるでしょうか。

 こうなると、一般の人からは「おかしなやつ」と思われることはあるでしょうが、それがきちんと病名のある病気だと考える人はそれほど多くないでしょう。「アスペルガー症候群」はこういった人たちに対する疾患名です。

 私が、医学部の学生で臨床実習を受けていたとき、ある精神科医が「○○大学医学部△△教室の教授はアスペルガー症候群との噂がある」、と言っていたのを覚えています。この医師がどの程度真剣にこの話をしたのかは分かりませんが、アスペルガー症候群の病態をイメージするときに、医学部の大学教授はひとつのモデルになるのかもしれません。つまり、「優秀な頭脳を持ちすぐれた研究業績を残しているが、対人関係は苦手で他人の気持ちに共感できない」、というイメージです(念のために言っておくと、このイメージは医学部教授のひとつのステレオタイプのものであって、必ずしもこのような教授ばかりというわけではありません)。

 もうひとつ、私が医学部の学生の頃の話を・・・。

 それは私が医学部の四回生のとき。教室に忘れ物を取りに帰ると、ひとりの男子医学生がなぜか教室に残っていました。私は彼の顔と名前は知っていましたが、友達と話している姿は見たことがなく、私自身も話したことがありませんでした。同じ医学を志す者として、交流を持つのは悪いことではありません。私はせっかくの機会だからと思い、彼に何か話をしようと考えていました。

 話しかけたのは彼の方でした。普通、話したことのない相手と初めて話をする場合、「おつかれさまです」、といった挨拶から入るとか、「自分は○○をしに教室に来たんだけどあなたは?」、といったような差しさわりのない会話から入るのが普通でしょう。

 ところが、彼の話し出したことは、最近彼が気に入っているというアニメのキャラクターの話でした。私がアニメに興味があるのならともかく、私はそのアニメを知らないと言っているのに、彼はそのキャラクターの特徴や声優についてまで自分の知識をどんどんぶつけてきて私はうなずく以外に何もできませんでした。

 しかし、途中で話をさえぎるのも申し訳ないので、私は彼の話をえんえん数十分も聞くはめになりました。そして彼は最後に言いました。「この話の続きがあるから電話番号を教えてくれ」、と。

 このとき、私は習ったばかりのアスペルガー症候群のことが頭に浮かびました。

 ここでアスペルガー症候群の特徴をまとめてみましょう。

 全体のおよそ75%が男性です。知能は正常、あるいは健常人よりも高いIQを有していることもあります。ところがコミュニケーション能力は欠落しており、他人の気持ちを理解することができません。例えば飼い猫が死んで悲しんでいる人をみて、泣いているという身体的行為があることは理解できても、それがなぜ悲しいのかが分からないといった感じです。

 また、場の空気を読む、あるいは行間を読む、といったような人間らしい配慮ができません。しかし、話すこと自体は嫌いではなく、自分の興味のあることなら聞く人間がそれを不快に感じていても延々と話し続けます。私の体験ではそれがアニメでしたが、よくあるのがコンピュータ、天文学、恐竜などです。

 要するに、なにかひとつのことに固執する傾向が強いのです。ただ、これがアニメなら世間からはそれほど注目されることはないでしょうが、対象が数学や物理学、天文学といった分野なら、世界的な発見につながる可能性もあります。

 だとするならば、アスペルガー症候群は狭い意味での「健常人」には入らないかもしれませんが、考え方によっては「病気の扱いをされるべきでない友達のいない健常人」とも言えるでしょう。

 最近、ウェブサイト上で、アスペルガー症候群の症状について興味深い記述を見つけました。アスペルガー症候群の人とメール交換をした場合、彼らは特定の話題に固執し続け、少しでも返事が遅くなると、「どうして返事をくれないの?」「僕のことが嫌いになったの?」、というような内容のメールを送ってくるそうです。これだけで、アスペルガー症候群と診断することはできませんが、「なるほど、あり得るな」、と思いました。

 今年(2006年)の6月、兵庫県の芦屋大学で国内初の「アスペルガー研究所」が設立されました。この設立に対する反響は予想以上に大きく、全国から問い合わせが殺到しているそうです。具体的には、「自分が人間関係につまづくのはアスペルガーだからか」「仕事人間だった夫が定年退職後、家にいるようになって変な人だと分かった。アスペルガーか」といった相談が寄せられるそうです(日経新聞2006年9月8日夕刊)。

 アスペルガー症候群という診断名が仮についたとしても、現在の医学では、特効薬のようなものはありません。気持ちを静めたり、パニックを防いだりするような薬を状況によって内服するのが現在の治療方法です。

 私個人の考えを言えば、あまりこの「アスペルガー症候群」という病名にこだわる必要はないと思います。診断がつくことにより不安が和らぐことはあるかもしれませんが、他人との交流を絶って社会に役立つ研究をしているような人にまで病気のレッテルを貼ることは避けなければならないからです。

 もしも、自分が対人関係に苦手意識をもっており、アスペルガー症候群かどうか専門的に診断してほしい、と考えている人がいれば、専門家を受診すればいいでしょうが、そうでない場合は、それほど悩む必要はないのではないかと私は思います。上に紹介した医学部の学生の場合でも、私は彼が現在何をしているのかは知りませんが、少なくとも医学部受験をパスして進級するくらいの頭脳は持ち合わせているのですから、患者さんに接する仕事がむつかしかったとしても、何か彼に向いた仕事があるはずです。

 まったくの健常人であっても、長い人生のなかで、ときには抗うつ薬や抗不安薬、またはイラつきを抑えるような薬が必要になることもあります。ひとりで思い悩んで自己判断でアスペルガー症候群などと決め付けずに、まずはかかりつけ医に相談してみてはどうでしょう。あるいは、自分の家族や友達が怪しいと思った場合でも、あまり病人扱いせずに悩みを聞いてあげることから始め、本人が希望すればかかりつけ医を一緒に受診してみればどうでしょうか。