はやりの病気

第40回 狂犬病 2006/12/21

 私はGINA(ジーナ)の仕事の関係で、11月6日から23日までタイ国に出張していたのですが、帰国したその日から何人もの人に「犬に噛まれなかったか」、と聞かれました。フィリピンに旅行した日本人男性が立て続けに狂犬病を発症し死亡したとのニュースが話題になっているとのことでした。

 私は、タイ滞在中、できるだけBangkok Postなど英字新聞を読むようにしていましたが(日本語の新聞は入手困難で、タイ語の新聞は今の私にはむつかしすぎるので・・・)、日本人がフィリピンで狂犬病に罹患した、などというニュースは目にすることがありませんでした。

 Bangkok Postには、日本の情報もかなり掲載されていますが、それでも狂犬病のニュースが取り上げられていなかったということは、おそらく、タイを含むアジア諸国では狂犬病は珍しくないことが原因ではないかと思われます。

 日本では、1970年にネパールで犬に噛まれ帰国した男性が発症したのを最後に狂犬病の報告はありませんでした。36年ぶりの発症ということもあり、フィリピンで罹患した男性ふたりのニュースが大きく取り上げられたのでしょう。

 しかしながら、狂犬病のない国というのはむしろ例外的で、大きな国でみれば日本以外ではイギリスくらいだそうです。今回注目をあびたフィリピンでは、毎年200人から300人の発症例が報告されています。タイでは、毎年20人から30人程度が報告されています。世界全体では毎年55,000人が命を落としていますが、そのうち31,000人はアジアです。

 狂犬病が恐ろしい最大の理由は、発症するとほとんど助かることがないということです。これまでに、死亡を免れたのは世界で4例しかないという報告もあります。

 「狂犬病」という名前が示すように、病原体(狂犬病ウイルス)をもった犬に噛まれると発症しますが、このウイルスを保有しているのは犬だけではなく、すべての哺乳類が持っていると言われています。犬以外で比較的報告が多いのがクマ、スカンク、キツネ、コウモリなどです。しかし、アジア諸国ではほとんどが犬で、犬が最も注意しなければならない動物であることには変わりありません。ヒトからヒトへの感染は報告例がありません(これは、ヒトはヒトを噛まないからでしょう・・・)。

 潜伏期間は1から3ヶ月程度と言われています。この間は発症していないわけですから、たとえ狂犬病ウイルスを保有している犬に噛まれたとしても、早急に治療をおこなえば助かる可能性があります。通常、感染症を予防するにはワクチンを事前に接種しておくことが必要ですが、狂犬病の場合は例外的に、ウイルスが体内に入ってからでもワクチンの効果が期待できます。

 いったん、発症すると発熱や食欲不振が生じ、そのうち興奮や不安などの神経症状が出現します。狂犬病の特徴は、極度に水や風を怖がることだと言われています。そのため、狂犬病は別名「恐水病」と呼ばれることもあります。(といっても、私自身は狂犬病の患者さんを見たことがないのですが・・・) そして、最後には呼吸不全を来たし死に至ります。

 いったん発症するとほぼ確実に死亡する・・・。このように聞くと、とても恐ろしいイメージになりますが、幸いなことに狂犬病には非常に優れたワクチンがあります。海外に行くことがないという人であれば、慌ててワクチンを打つ必要はありませんが、海外旅行によく行く人、特にアジア諸国に旅行に行く機会が多い人はあらかじめワクチンを接種しておくことが必要でしょう。

 狂犬病のワクチンは、4週間後に2回目を、さらに6ヶ月から12ヶ月の期間をあけて3回目の接種をすることが必要です。したがって、海外旅行に行かれる人は遅くとも7ヶ月前には1回目のワクチンを接種しなければならないということになります。

 しかし、実際には7ヶ月前のワクチン対策では遅すぎると考えるべきでしょう。なぜなら、予防接種が必要な病原体は、何も狂犬病ウイルスだけではないからです。一般的に、アジア諸国には、狂犬病以外にもたくさんの感染症があります。

 少し例をあげると、破傷風、A型肝炎、コレラ、腸チフス、日本脳炎、などです。地域によっては黄熱やペストも必要になるかもしれません。日本脳炎や破傷風は子供の頃に予防接種をしたから大丈夫! そのように考える人もいるでしょう。しかし、ワクチンの効果は一生続くものではありません。

 また、ほとんどの人はB型肝炎のワクチンも必要でしょう。B型肝炎は血液感染以外に性感染もありうるからです。以前、海外転勤者の診察をしている産業医に話を聞いたことがあるのですが、その医師によれば、「国内では安易に性交渉をおこなわない人でも海外に行けば態度が変わることが多い。だから、男女ともすべての海外転勤者を説得して、コンドームの持参とB型肝炎のワクチンを強く推奨している」、そうです。実際、一部の先進国では(例えばオーストラリアがそうです)、高校生全員にB型肝炎のワクチンを義務づけています。B型肝炎は性交渉で容易に感染し、低くない確率で急性肝炎をきたし、その何パーセントかは劇症肝炎に移行します。こうなればかなりの確率で死に至ります。

 そして、ワクチン対策で重要なことは、ひとつのワクチンを接種してから別のワクチンを接種するまでには充分な期間をあけなければならないということです。ときどき、「全部のワクチンを(同時に)打ってください」と言って病院を受診する患者さんがおられますが、これは原則としてできないのです。ただし、例えばA型肝炎とB型肝炎は同時接種をしてもかまいませんし、渡航先によって必要なワクチンが変わってくるでしょうから、まずはかかりつけ医に相談することが必要です。

 狂犬病の話に戻りましょう。狂犬病対策で重要なのは、まずは国内でワクチンを接種しておくこと、そして、現地で犬に噛まれたら躊躇せずに現地の病院に行くことです。どこの国でも医師であれば英語は話せますから、英語を母国語としない国でも心配することはありません。もし、あなたが英語に自信がないなら、あらかじめ日本のかかりつけ医に英語の紹介状を書いてもらっておけば安心だと思います。

 現地の病院では通常、その日にワクチンを接種してくれるはずです。そしてその後、3日後、7日後、14日後、30日後、90日後にもワクチン接種をすることが標準的な治療法ということになっています。(ただしケースによってワクチン接種の回数と間隔は変わることがありますから、現地の医師の指示にしたがうようにしましょう)

 最後にタイの話をしておきましょう。タイ国内での狂犬病発症報告をみると、北部や東北部(イサーン)といった比較的貧しい地域よりも、むしろバンコクを含む中央部と南部に集中しています。ということは、旅行者の多い中央部や南部は安心ではなく、むしろ危険な地域なのです。

 タイに行かれたことのある人ならお分かりでしょうが、タイの犬というのは道端にだらしなく寝ころんでおり、"怠け者"という印象があります。しかし、夜になると豹変することが珍しくありません。安易に犬に近づけば危険なのです。原因動物は犬が最多ですが、猿や猫などの報告もあります。

 安い値段で気軽に海外旅行に行ける時代になりましたが、旅行のリスクには、盗難やテロだけでなく感染症があるということをお忘れなく・・・