メディカルエッセイ

49 全人医療への道のり 2007/2/19

最近出席したプライマリケア関連の研究会で、ある大学の教授が、その大学での医学部生の教育について講演されていました。

 その大学では非常にすぐれた教育システムをとっているようで、その講演を拝聴してまず感じたのは"羨望"でしたが、私の心のなかでもうひとつの気持ちが湧き上がってきました。その気持ちとは"なつかしさ"です。

 その大学の教育システムでは、1年生のうちに「アーリー・イクスポージャー(
early exposure)」と呼ばれる、いわゆる「早期研修」があります。私の出身の大阪市立大学にもこの研修制度があり、私は講演を聞きながら、もう10年以上も前の自分がその研修を受けたことをなつかしく思い出したのです。

 医学生といっても1年生のうちは医学の知識などほぼ皆無で、医療に対する感覚としては一般の患者さんとなんら違いはありません。早期研修では、医学生が何の知識も技術もない、いわばまだ"白紙"の状態であるうちに病院実習をおこないます。

 この実習では、医学部1年生は医師の仕事を見学するのではなく、看護師について実際の看護業務を手伝います。手伝うといっても、シーツ交換すらろくにできない医学生は、実際には足手まといになっているだけなのですが・・・。

 私は医学部入学当初は医師(臨床医)を目指していたわけではなく、将来は医学の研究をおこないたいと考えていました。そのため、この早期実習には初めから乗り気でなく、実習が必修だったため仕方なく参加したというのが正直なところです。しかし、2日間の実習を通して次第に臨床の現場に興味をもつようになりました。(もっとも、この実習を終えた後も自分は研究者になるんだという決意は変わらず、臨床医を目指しだすのは医学部の3年生の頃です)

 私が早期研修を受けた大阪市内のその病院では、すべてのスタッフの患者さんへの対応が本当に素晴らしいものでした。医学部に入学した頃の私は、臨床に興味があったわけではありませんし、臨床に対してなんとなくイメージしていたのは、マスコミの報道などによる医療ミスとか脱税とか、そういった否定的なものでしたから、予想と現実の大きなギャップに驚いたのです。(マスコミの医師や病院に対する報道は否定的なものが圧倒的に多いのです・・・)

 患者さんの立場にたって業務をおこなっているスタッフというのは医師や看護師だけではありません。事務や受付の人々まで、まさにスタッフが一丸となって患者さんのケアに取り組んでいるといった感じでした。

 2日間私につきっきりで指導してくれた看護師が私に話してくれた言葉は今でも覚えています。その病棟は整形外科病棟で様々な年齢層の患者さんが入院されていました。その看護師は患者さんに応じて、ときには厳しく、ときには患者さんの手をとり、10代の男性に対しては姉のように、70代の女性に対してはまるで孫のように接していました。そして私に言いました。

 「あたしたちは患者さんの病気や怪我をみてるだけじゃないの・・・。患者さんが安心して入院生活を送れるようにいろんな手助けをしているのよ・・・」

 この言葉が単なる美辞麗句ではなく、行動の伴ったものであることはすぐに理解できましたが、私には、なぜスタッフ全員が患者さんの立場に立ったケアが徹底しておこなえているのかが不思議でした。その頃の私はそれなりにいくつかの社会を経験していましたから、人間が善人だけでないということも知っていたからです。

 2日間の研修の最後におこなわれた反省会でその謎が解けました。

 反省会はその病院の会議室でおこなわれ、研修をおこなったわれわれ医学部1年生や医学部の教師のほか、その病院の看護師長も参加されました。その会議室の壁にかけられていた額には「全人医療」という言葉がありました。そして、われわれは、その看護師長から「全人医療」についての話を聞きました。

 「全人医療」とは、患者さんの臓器、例えば肝臓の悪い人なら肝臓だけを、目の悪い人なら目だけをみるのではなく、その人の心理的あるいは社会的苦悩にも配慮し、患者さんの人格を尊重した医療である、というようなことをその師長は話されていました。

 先にも述べたように私はこの時点では臨床医を目指していたわけではなく、そのときは、スタッフの患者さんへの態度に感銘を受けたのは事実ですが、将来的には自分にはそれほど関係のないことだろうと感じました。しかし、その言葉が心のどこかにずっと残っていたのは間違いありません。(現にこうして今でも覚えているのですから・・・)

 私はこれまでに、研修やアルバイトも含めれば20以上の病院や診療所で診療をおこなってきましたが、看護師を含めたスタッフの対応というのは病院によって様々です。なかには、これで患者さんの立場に立った医療がおこなえているのか・・・、と思わずにはいられないような、自分が患者なら受診したくない病院というのもあります。

 しかし、その一方で、どうしてこんなにも素晴らしいスタッフばかりがそろっているんだ・・・、と感じるような病院もあります。先にのべた私が早期研修を受けた病院もそうですし、私が研修医の頃にお世話になった病院もそうでした。その病院で主任をされていたある看護師はこのように話していました。

 「この病院では全職員は採用になったときから、いえ、看護師の場合は、(その病院附属の)看護学校に入学したときから、徹底して"患者さんの立場にたった医療"の教育を受けるの。だから、多くの患者さんや、そして先生たちも、この病院に来て驚くのよ。だけど、あたしたちにとっては当たり前のことなの・・・」

 「全人医療」という言葉にこだわる必要はありませんが、いつの頃からか私は患者さんの臓器だけをみるのではなく、その患者さんの社会背景や心理状態にも配慮できるような医師になりたいと思うようになっていました。最終的には、大学の「総合診療科」に所属し、今も総合診療(=家庭医療=プライマリケア)を実践しているのは、そういう思いもあるからです。

 しかし、私自身が実際に「全人医療」ができているかと問われれば、自信をもってできているとは到底言えません。たしかに、すてらめいとクリニックでも患者さんのなかには複数の訴えを話される人がいますが、それは単に臓器の数を足しただけであって、「全人医療」からは程遠いもののように思えます。

 「個人の単なる集合」と「組織」は異なるように、あるいは「部分の総和」が「全体」ではないように、単に複数の訴えを聞いて治療をおこなったからといって、それが「全人医療」になるわけではありません。

 私の「全人医療への道のり」はまだまだ続きそうです・・・