メディカルエッセイ

第56回(2007年9月) 安倍首相と朝青龍と医師の守秘義務

 2007年9月12日、安倍首相が突然の辞任を発表したことには誰もが驚いたことでしょう。参議院選挙の敗退などで、首相に対する支持率が低下していたのは事実ですが、その一方で依然根強い支持を集めていたのも事実であり、まさか突然の辞任をするなどと予想していた人は皆無だったのではないでしょうか。

 突然の辞任をおこなったその原因が病気によるものと説明され、安倍首相の主治医は、その病名を「機能性胃腸症」と発表しました。

 「機能性胃腸症」とは精神的ストレスが原因となっている、言わば「心身症」のひとつであります。(「機能性胃腸症」についての詳しい説明は、「はやりの病気2007年9月号」を参照ください)

 ところで、通常、医師は診察で知りえたことを他言することはありません。これは診察室で知りえた患者さんの情報に対して守秘義務が発生するからです。この守秘義務は、刑法134条で定められたものであり、違反すれば厳しく罰せられることになります。

 では、なぜ安倍首相の主治医が患者である安倍首相の病状について記者会見をおこない、機能性胃腸症という病名まで発表したのかというと、それは「公益性が守秘義務に優先する」という考えがあるからです。

 つまり、一国の首相という公人のなかの公人に関する情報は、それが病気であったとしても国民に知らせる義務がある、という考え方です。これは、社会の安定化という点から意味があり、かなりの部分で公人にはプライバシーが保護されないのは止むを得ないことなのです。

 一方、横綱の朝青龍が母国のモンゴルでサッカーをおこなっていたことに端を発し、体調不良が報じられるにつれ、病名がマスコミで報道されるようになりました。

 朝青龍はプロのスポーツ選手ですから専属の医師がいるはずです。その医師から、スポーツ医学的な観点から病状が発表されるのは、やはりプロスポーツ選手という公的な人物である以上は必要なことだと思われます。

 しかしながら、最近の朝青龍の病状に対して、マスコミの報道によりますと、実に様々な医師から様々な病名が発表されています。それら病名は、「うつ病の一歩前」、「急性ストレス障害」、「解離性障害」などです。

 「うつ病」「ストレス障害」というのは、その病態を想像しやすいでしょうが、「解離性障害」については一般的には馴染みのない言葉だと思われますので、少し説明をしておきます。

 「解離性障害」とは、むつかしく定義すると、「過去の記憶、同一性と直接的感覚の意識、そして身体運動のコントロールの間の正常な統合が、一部ないしは完全に失われた状態」となります。これでは分かりにくいので、噛み砕いていうと、「極めて強いストレスによって、記憶や意識に統一性がなくなる状態」です。もっと噛み砕けば、「過去の記憶や現在の思考がむちゃくちゃになっている状態」です。

 解離性障害が進行すると日常生活もままならなくなります。要するに精神疾患のなかでもかなり重症の部類に入るのです。

 このような重度の精神疾患をマスコミに堂々と発表することに対して、私は医師として大変疑問に感じます。プロスポーツ選手だからといって、精神疾患の名前まで公表することに違和感を覚えるのです。

 今回の一連の報道に対して、「診察した医師が様々な精神疾患を発表したのは、実は朝青龍が望んだことではないか・・・」、という噂もあるようですが、たとえそうであったとしても、医師には刑法上の守秘義務がある以上、(この場合はスポーツ医学に関する病名を除く)病名を発表するのは許されないのではないかと私は思います。

 ところで、当院を受診される患者さんのなかにも、診察室で話したことに対して守秘義務が徹底されるのかどうか不安に感じる人がいます。

 当院の電子カルテは何重にもセキュリティがかかっていますから、コンピュータを介して患者さんの情報が漏洩されることはありません。もちろん、電子カルテの情報は私も含めてスタッフは外部に持ち出すことができないルールが確立しています。

 そして、医師には刑法上の守秘義務があります。

 医師以外はどうかというと、看護師には「保健師助産師看護師法」という法律の第42条に守秘義務が定められています。

 医師と看護師以外のスタッフにも、個人情報保護法によって守秘義務が発生します。ただし、法律の重みが刑法とはかなり違うことは否めないでしょう。

 医療機関で働く者のなかには守秘義務を守っていない者も実際にいます。ある病院の事務員が、「あたしの働く病院にこの前有名人の○○が健康診断で来たよ」などと自慢げに話しているのを私も聞いたことがあります。

 しかし、たとえ有名人であれ(公人の主治医が記者会見をおこなうのは例外)、その内容が健康診断であれ、医療機関で働く者が患者さんの情報を他人に話すことは絶対にあってはならないことです。ここでいう「他人」とは自分の家族も含みます。

 医師や看護師だけでなく受付スタッフなども含めて、勤務先で知りえた情報は、たとえそれがどれだけ些細なことであったとしても、文字通り「棺おけまで持っていく」というルールを徹底しなければならないのです。

 だからこそ、当院では、ミッションステイトメントの第2条を「患者のプライバシー遵守を徹底し、クリニックで知り得た情報は自分の家族にも言わない」と、明文化してスタッフ全員が守秘義務をいつも意識するようにしているのです。

 実際、守秘義務というのはいつも意識していなければ遵守するのがむつかしいことがあります。

 例えば、私の友人(Aさんとします)が、風邪で私のところに受診したとしましょう。翌日に私とAさんの共通の友人であるBさんが同じく風邪でやってきたとしましょう。BさんはAさんと長い間会っておらず、ふと私に「そういえばAさんは最近どうしているのかな・・・」と言ったとします。

 このとき、「Aさんとは昨日会ったよ・・・」、とは言ってはいけないのです。こんなときは、「さあ、どうしているのかな・・・」と、昨日会ったことに対しても守秘義務を守らなければなりません。病気の内容を話すわけではないのだから、Aさんが受診したことを話すくらいいいんじゃないの?、そのように感じる人もいるでしょう。しかし、「Aさんと会った」と言ってしまえば、BさんはAさんがどんな病気で受診したのかが気になってしまいます。

 守秘義務を徹底するというルールを習慣化できていないと、このケースでいえば、Bさんをだましているような気持ちになってしまうため、慣れるまでは罪悪感に苦しむこともあります。

 医療従事者が守秘義務を遵守する、ということは、おそらく一般の人が思っているよりも大変なことだと思います。

 朝青龍の病名を発表した医師たちは、守秘義務についてどのように考えているのか聞いてみたいところです。