はやりの病気

第123回 マラソンに伴う健康被害と利点 2013/11/20

 マラソンブームと言われて久しいように思われます。ここ10年くらいで日本のマラソン人口は急増し1千万人とも2千万人とも言われています。マラソンはもちろん健康にいいことですから我々医療者としても喜ぶべきことなのですが、危険がないわけではありません。しかも命に直結するような病気のリスクもあります。

 今回はマラソンに伴う身体のリスクについてまとめていきたいと思います。しかしその前にこのマラソンブームの背景を振り返っておきたいと思います。

 健康のためにジョギングをする人は昔からいましたが、フルマラソンにチャレンジする人は1980年代まではさほど多くなかったと思います。マラソン大会では制限時間がだいたい5時間くらいに設定されているのが普通ですから、日頃トレーニングをしているような人でなければハードルが高いのです。

 マラソンが一般人にとって敷居が低くなったのはホノルルマラソンが注目を浴びだしたからではないかと私はみています。1989年頃から、私の周りにもホノルルマラソンにチャレンジするという人がちらほら現れだしました。円高とバブル経済のおかげで、ハワイがすでに憧れの地ではなく気軽にいける旅行先になったことがその理由です。しかし、ホノルルマラソンが一躍注目を集めた最大の理由は「制限時間なし」というルールにあります。これなら日頃トレーニングをしていない人でも出場することができます。そして、冷やかし半分で出場したような人たちもゴールをすると感動に包まれ、それが口コミで広がっていったのではないか、と私は分析しています。後に改めて述べますが、マラソンとは誰もが感動できるスポーツかつイベントであり、精神衛生上も非常にすぐれたものなのです。

 日本経済が停滞することがなければマラソンブームはもっと早く訪れたのではないか、というのが私の分析です。不景気で失業する人が増えるなかで、のんきに「ホノルルマラソンで感動を・・・」などと言っている場合ではなくなってしまいました。転機が訪れたのは2007年の東京マラソンでしょう。この頃は円安でしたが、好景気に見舞われ(といっても多くの庶民に好景気という感覚はありませんでしたが)、健康ブームが重なっていました。そして制限時間を7時間としたのが結果的にあのブームを引き起こしたのではないかと私はみています。42.195kmを7時間でゴールしようと思えば平均速度は6.03km/hですから、これなら早歩きの程度で完走することができます。東京マラソンが口火をきったかたちとなり、その後全国に次々と制限時間のゆるやかな市民マラソンが誕生しました。

 大阪マラソンが始まったのは2011年で、2013年の今年は3回目の開催となりました。今年は私もランナーを支援したいと考え、医師として救護所で待機する係を引き受けました。(本当は私自身も走りたかったのですが、今年は応援係として業務をまっとうすることにしました) 

  あまり報道はされていないと思いますが、フルマラソンが開催されると軽症から重症まで大勢のランナーが身体のトラブルに遭遇します。なかには命にかかわるような重篤な事態になることもあります。私の担当したポイントでは、生命に関わるような大きなアクシデントはありませんでしたが、それでも救急車を2台要請せざるを得ませんでしたし、軽症ではあるものの医学的なケアの必要なランナーが次々と救護所にやってきました。

 マラソンに伴う健康被害を私なりに分類すると次の4つになります。①熱中症・脱水及び低ナトリウム血症、②筋肉、靱帯、関節などの整形外科的疾患、③不整脈や虚血性心疾患(これが最重症になります)、④その他、の4つです。「その他」は、持病の悪化(喘息発作や糖尿病の人の低血糖症状など)、低体温症(冬場)、風邪(大会に参加して風邪をひく人は少なくない)、あるいは2013年4月15日にボストンマラソンでおこった爆破テロなどです。以下に①②③をみていきます。

 ①の熱中症・脱水については炎天下のマラソンでは当然おこりえます。低ナトリウム血症についても、最近はかなり周知されてきているように思われますが、マラソンの現場では決して少なくありません。単に水分を摂るのではなく塩分(電解質)も摂取しなければ、低ナトリウム状態が進行し、行くところまで行けば生命が危険な状態になることもあります。ですから、最近のマラソン大会の給水ポイントでは、水だけでなく「OS-1」のような電解質を含んだ飲料水も置かれています。しかし大会によってはいまだに水だけのところもあるようです。

 低ナトリウム血症が怖いのは、なかなかそれを自覚できない、ということです。単なる脱水であれば、喉が渇けば水を飲めばそれで事足ります。低ナトリウム血症になると、身体はしんどくなりますし、汗で水分が失われているのは事実ですから水を飲めば回復することを期待してしまいます。そして水を飲むわけですが、塩分の含まれていない水であれば余計に低ナトリウム血症が進行してしまいます。

 マラソンやジョギングの途中や走行後に採血をしてナトリウムの濃度を調べるようなことを普通はしませんから気づきませんが、けっこうな人が低ナトリウム血症になっているのではないかと私はみています(注1)。そんなに距離を走ったわけでもないのに、疲労感が急激に進行し、嘔気がでてきたようなときは迷わずに塩分を摂るべきです。ランナーのなかには「塩タブレット」を携帯し、症状から低ナトリウム血症を疑えばそれを直ちに飲むという人もいます。

 ②の整形外科的な疾患は軽症のものを含めれば頻度としては一番多いでしょう。足底にマメができた、靴擦れがおこった、という程度であればテーピングのみでマラソンを続けられることもありますが、肉離れや強い関節痛などが生じればリタイヤせざるを得ません。単なる筋肉痛であれば続けられることもありますが、場合によってはそれ以上筋肉を動かすことがかなり困難になります。

 ときどき、元々体力はあるはずで息切れはほとんどしていないのに途中から筋肉が動かなくなり歩いてゴールした、という人がいますが、これは運動不足があればよくおこります。筋肉を使うことにより血中乳酸濃度が上昇し、その濃度がおよそ4mmol/L(ミリモル/リットル)を超えると筋肉が硬直してしまい動かなくなるのです。しかし、この問題はトレーニングにより克服することができます。つまり効果的なトレーニングにより血中乳酸濃度の上昇を遅らせることができるのです。(このコラムはマラソンのタイムを上げることを目的としていませんのでこれ以上は述べません。興味のある方はマラソンの指南書を参照してみてください)

 ランナーを救護する立場の医療者からみれば整形外科的疾患というのはあまり怖くありません。なぜなら重症化することはまずないからです。医療者が最も懸念するのが不整脈や虚血性疾患などの死に直結するアクシデントです。

 私の知る限り、国内の市民マラソンでの死亡事故はないと思いますが、心肺停止は何度か報告されています。有名なところでは2009年の東京マラソンで、15km地点で心筋梗塞を起こし致死的な不整脈がでたものの救護班の迅速な対応で一命を取り留めたタレントの松村邦洋さんが有名です。このアクシデントは、もしも医療者が近くにおらずAED(注2)がなければ松村さんは助かっていなかったでしょう。

 松村さんが日頃どのようなトレーニングをしていたのか私には分かりませんが、15km地点で発症したことを考えると、それほど本格的なトレーニングをされていなかったのではないでしょうか。医療者からみて、最も危惧すべきなのは、日頃からトレーニングをしているベテランのランナーが30kmを超えたあたりです。実際、過酷なランニングのトレーニングを続けると心臓の障害につながる、とするアメリカの研究(注3)もあります。

 さて、マラソンの否定的な側面ばかりをみてきましたから、最後にマラソンの利点を確認したいと思います。まず、当たり前のことですが持続的なトレーニングは適正体重を維持し生活習慣病の予防になります。「走った距離は裏切らない」は野口みずきさんの名言ですが、私はこの言葉は、健康のためにランニングをするすべての人にあてはまると思っています。

 もうひとつの利点は、精神状態に大変いい、ということです。運動そのものがうつ状態を改善させることはよく指摘されますし、質のいい睡眠につながることは容易に想像できるでしょう。私がそれ以上に主張したいことは、ゴールしたときの感動、です。といっても私はフルマラソンを走った経験がないので、完走したランナーに聞いたことばかりなのですが、大勢の人に声援をかけられてゴールしたときの感動は何にも変えられないと、誰もが口をそろえていいます。年に一度のマラソン大会を励みに日々の仕事をがんばっているという人もいるほどです。ここまでくると、マラソン大会とは一種の<祝祭>とも言えます(注4)。

 ランニングは「百薬の長」と言えば言いすぎかもしれませんが、身体的にも精神的にも大変すぐれた低コストで簡単に始められる健康増進法なのです。ただし、過ぎたるは及ばざるがごとし・・・、トレーニングのしすぎは心臓を障害する可能性を指摘されていることはお忘れなく・・・。

注1:採血は容易にできませんが、低ナトリウムをおこしたかどうかを簡便に知る方法はあります。それは体重を量るという方法です。低ナトリウムが進行すると身体がむくみ体重が増加します。通常はランニングの後は体重が減りますが(フルマラソンでは約2キロ減ると言われています)、減っていないときは低ナトリウム血症になっている可能性があります。

注2:AEDについては下記コラムを参照ください。
メディカルエッセイ第48回(2007年1月)「あなたはAEDが使えますか」

注3:この研究は医学誌『Mayo Clinic Proceedings』2012年6月号(電子版)に「Potential Adverse Cardiovascular Effects From Excessive Endurance Exercise」というタイトルの論文が掲載されています。下記のURLで概要を読むことができます。
http://www.mayoclinicproceedings.org/article/S0025-6196%2812%2900473-9/abstract

注4:祝祭が人間個人にとって(あるいは社会にとって)いかに有益なものかというのは社会学や人類学ではよく指摘されることです。例えば年に一度のホノルルマラソン(東京マラソンでも大阪マラソンでもかまいませんが)を生活の中心に据えて、日頃のライフスタイルやトレーニングを考える、というのは医学的にも社会学的にも大変健全なことではないかと私は考えています。