マンスリーレポート

2014年1月号 沖縄で考えた「命」

 年末年始も病院に泊まり込んで患者さんのために尽力している医療者がたくさんいることは重々承知しているのですが、私自身は休暇をいただき旅行に出かけました。

 今回の年末年始は諸事情からひとり旅に出ることとなり、行き先は沖縄の糸満を選びました。私はこれまでに沖縄に滞在した日はおそらく200日近くになると思うのですが、実は南部地方には一度も行ったことがありません。この理由は、南部地方をあえて避けていたというか、訪れるのに躊躇していたのです。

 なぜ私が沖縄南部を避けていたかというと、南部に行けばどうしても戦争のことを考えさせられるからです。元々私がなぜ沖縄が好きかというと、まずあの乾いた心地よい空気と青い海があるからです。そして沖縄に着いたとたんに、何とも言えない開放的な躍動感に包まれます。つまり私にとっての沖縄とは「楽園」そのものであり、南部に行って戦争の跡をみてしまうと、楽園という幻想が覚めてしまいそうな気がするのです。

 1987年から1991年の大学4年間(関西学院大学)の間、アルバイトやバカンスで毎年数週間から長い年は2ヶ月間程度沖縄(離島を含む)に滞在していました。当時の思い出は(思い出は美化されることを差し引いても)本当に楽しいことばかりで、私にとっての「酒とバラの日々」といった感じです。けれども、当時も現地の人とお酒を飲みながら話をしたときなどに、ふと戦争のことが話題になることがあり、そんなとき私はそれ以上のことを考えないようにしていました。

 今も私にとって沖縄が"楽園"であることには変わりなく、疲れたときなどにはふと沖縄を思い出し行ってみたくなります。いつか沖縄に住もう、とまで考えてかなり具体的に計画したこともあります。私は4年間働いていた会社を退職し医学部を受験するにあたり、最終的には大阪市立大学を第一希望としましたが、当初は琉球大学を考えていました。当時の私は医学というよりも生命科学そのものの勉強がしたかったために、最初は理学部生物学科も視野に入れていました。そのため、医学部に入学してから再会した知人には「お前は琉球大学理学部に行ったっていう噂を聞いたんだけど・・・」と言われたこともあります。

 さて、およそ四半世紀前から気にはなっていたけれど訪れたことのなかった沖縄県南部の糸満市に行くことを決めた私は、どうせ行くならなつかしのフェリーに乗ろうと考え、12月28日の夕方、東京の有明埠頭で「飛龍21」に乗船しました。(フェリーに乗るために大阪から東京まで移動したのです・・・) 

 私の今回の沖縄渡航の目的は主に3つありました。1番の目的は先に述べた沖縄南部をきちんと見るということ、2つめは疲れをとり充分な時間をとって自分自身のミッション・ステイトメントを見直すということ、3つめは(これは些細でつまらないことですが)昔よく通っていた那覇にあるなつかしの2つの大衆ステーキハウスに行くこと、です。

 私が関西学院大学の学生だった頃は、沖縄といえばフェリーで行くのが当たり前でしたが(ただし私と同年代でもお金のある人は当時から飛行機が常識だったそうです)、さすがにフェリーの2等席はちょっと抵抗があります。(当時の)フェリーに馴染みのない人のために説明しておくと、(当時の)2等席とは30畳くらいの薄いじゅうたんが敷かれた広いスペースに20人くらいが雑魚寝するような席(正確には「席」などありません)です。20代ならまだしもさすがに45歳の今となってはちょっとしんどいので(別に気取っているわけではないのですが)個室をとることにしました。

 しかし、予約する時に初めて分かったのですが、今のフェリーにはもはや「ざこねじゅうたん部屋」などなく、すべて個室となっていました。私が予約したのは、ベッドのみならず部屋の中にトイレまでついている豪華なものでしたが、この部屋がなんと2等というではないですか。同じ2等でも時代が流れると随分と変わるものです。

 沖縄の安謝港(那覇新港)に着いたのは3日目(12月30日)の夜9時頃です。いきなり南部に移動するのではなくこの日は港の近くのホテルに一泊しました。一人旅のいいところは時間をすべて自分の自由に使えるところです。先に述べたように、私にはおよそ四半世紀ぶりに行ってみたい大衆ステーキハウスが二つありました。この日の夜と翌日の昼前にそのふたつのステーキハウスでなつかしのCランチ(当時350円)を食べたかったのです(注1)。その後私は沖縄南部地方の糸満市に移動しました。

 2014年1月1日、この日私は丸一日をかけて自転車で糸満市を廻ることにしました。行ってみたいところはいくつかあったのですが、どうしても外せない場所として、沖縄戦の終盤逃げ惑う沖縄の人達が息を潜めて避難していた防空壕をまず考えました。このような壕のいくつかは今も見学できるようになっています。いくつかの壕では、無惨にも米兵によって手榴弾が投げ込まれ何人もの民間人や学生(一部はひめゆりと呼ばれていた若い女子学生です)が命を落としたそうです。

 また、当時は米兵から身を隠すために、なんと県庁や病院も壕の中につくられていたそうです。ある壕では説明が書かれたプレートに「病院」と書かれており、そこで当時は手術がおこなわれていたそうです。ここでいう手術とは負傷兵の傷の手当てや、不能となった手足の切断などでしょう。本土から応援に来た看護師や沖縄の若い女学生(ひめゆり)たちが負傷兵の看護・介護にあたっていたのです。

 次にどうしても行きたいと考えたのは、喜屋武岬という南部の絶壁です。ここは追ってくる米兵からもはや逃れられないと判断し、かといって捕虜になるくらいなら・・・と考えた人達が次々と飛び降りて自決を図った崖です。一説には100人以上が飛び降りたと言われており、サイパンのバンザイクリフの沖縄版とも言えるところです。

 もうひとつ、どうしても外せないのがやはりひめゆりの塔です。ひめゆりの塔の資料館は想像していたよりも大きくてきれいで展示物が多く大変充実したものでした。ひめゆりと呼ばれていた当時の女子生徒の方々を最近になってインタビューしているビデオが放映されていて、私はいつのまにかこのビデオに夢中になり気がつけば1時間以上見続けていました(注2)。

 ビデオの中の証言は、想像を絶する世界というか、目の前でさっきまで元気だった同級生が砲弾にあたり即死した、とか、目の前の海には無数の死体が浮いていた、とか(これを証言された方は戦後何年も海に行けなかったそうです)、喉が渇きやっとのことで見つけた水たまりに這いつくばって水をすすると尿や死体から出てくる液体が混ざった異臭がした、とか(それでも飲むしかなかったそうです)、そのような話が続きました。

 やはり私が25年前から漠然と抱いていた感覚は間違ってなかったようです。暖かい空気と青い海を求め、あわゆくばロマンスが生まれることも期待して夏のビーチに出かけていた若い頃の自分が恥ずかしくなりました。戦争は二度と起こしてはいけない、などというと陳腐に聞こえますし、当時は沖縄戦を避けられなかったやむを得ない理由が我が国にあったのかもしれません。(ただ、沖縄戦は米軍の本土上陸を遅らせるための「捨て戦」であったのではないかという疑念を私個人としては持っていますが)

 ひめゆりの塔の資料館でみた説明によると、壕の中では、負傷兵の傷に次から次に発生してくるウジ虫に悩まされ、負傷兵の糞尿と化膿した傷の悪臭、さらに嘔吐物などで、耐えられないような環境だったそうです。そんななかで彼女たちは遠くまで水を汲みにいき、米兵に見つからないように重いかめを運び、ご飯をつくり負傷兵に食べさせていたのです。そして負傷兵のみならず、同級生の多くも、米兵の攻撃により、あるいは自決により命を絶っていったのです。

 当時ひめゆり部隊だったというある女性がインタビューでこのようなことを話していました。仲の良かった同級生たちは何人も命を落として私は生き残った。だから私は今ある命を大切にしなければならないんだと・・・。

 医師として、というよりは一人の人間として「命」の大切さを考えることができた。私の2014年はそんな体験から始まりました。


注1:この2つのステーキ屋とは「88(ハチハチ)」と「ジャッキー」で、私が食べたかったのはステーキではなく25年前によく食べていたCランチです。Cランチは350円でトンカツなどのフライとハンバーグ(だったと思います)、ライス、サラダ、スープがついていて味も悪くなくお金のない学生にとってはありがたいものでした。なぜ今頃になってこのCランチが食べたくなったかというと、このサイトのメディカルエッセイ第126回(2013年7月)「我々はベジタリアンの道を進むべきか」で、このCランチについて取り上げ、なんだかバカみたいな話ですが、Cランチについて書いているうちに再び食べたくなってしまったのです。

さて、実際に行ってみると、「88」の方は私の記憶違いなのか、Cランチは存在せずに、Bランチがありました。しかも値段が750円と高すぎて結局注文しませんでした。翌日に行った「ジャッキー」にはCランチがありました! 値段は500円でした。当時から150円値上がりしていましたが25年で150円ですから許容範囲内でしょう。注文してみると、ボリュームのあるトンカツとハンバーグ、これにライス、サラダ、とっても美味しいスープがついていますからかなり得した気分になりました。

これら2つのステーキハウスを見つけた瞬間は「なつかしい!」と叫びたくなりました。しかし中に入ってみると、両店とも、こんなに狭かったかな・・・、という感じで、客層は家族連れが多く、私の記憶とは随分異なっていました。私の記憶にある25年前の様子は、店内はもっと広く(実際の3倍くらいのイメージをしていました)、ジュークボックスから大音量の音楽が流れていて、客の半分は外国人(米兵)だったのです。客層は年月を経て次第に米兵から日本の家族連れに変わってきたのかもしれませんが、店の広さは明らかに私の間違いです。私の記憶もいい加減なものです。

注2:このビデオではありませんが、「ひめゆり」という約30分のアニメをYouTubeで見ることができます。私はこれをひめゆりの塔の資料館で観ましたが、大変よくできていると思います。興味のある方は是非観てみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=eW9Ro2G_kUc