メディカルエッセイ

136 免疫学の新しい理論 2014/5/20

 医学というのは日進月歩であり、毎年何種類もの新しい薬剤が開発されますし、検査方法も進歩しています。これらについていくのは大変ではありますが、ついていかなければ最善の治療ができませんし、また新しいことを学ぶのは楽しいことでもありますから、「大変さ」を「楽しさ」が凌ぎます。また、iPS細胞の発見のような画期的なできごとは、研究者のみならず、私のような日々患者さんをみている臨床医も興奮させます。

 iPS細胞の話を聞いたときは、本当にそんなことができるのか、と大変驚きました。私の場合、医学部の3回生のときに教壇で授業をされていた山中先生が発見された、ということを聞いて、おそらくその驚きは他の医者や科学者よりも何倍も大きかったのではないかと思います。
 
 iPS細胞のことを初めて聞いたときに比べればいくらかトーンダウンしてしまうのですが、現在私が大変注目している理論があります。その理論は、現段階では「仮説」の域を超えませんが、これが事実であることが実証されれば、免疫学の教科書が書き換えられることになり、いわば「コペルニクス的転回」、あるいは「パラダイムシフト」と言ってもいいかもしれないものだと思っています。

 その理論はイギリスの免疫学者Gideon Lack氏により提唱されたもので、命名すると「食物アレルギーの機序についての二通りのアレルゲン曝露」となります。これでは何のことかさっぱり分かりませんから追って説明していきたいと思います。

 以前私はこのサイトで「デンジャーモデル」というものを紹介しました(注1)。これは元バニーガールや犬の調教師という異色の経歴をもつ免疫学者Polly Matzinger氏が提唱した概念で、自らの細胞が傷つけられたときに身体に侵入してきた物質がアレルゲンになる、というものです。デンジャーモデルで考えると、例えばピーナッツアレルギーがある人は、生まれ持ってアレルギーがあるわけではなく、食べ過ぎてアレルギーになったわけでもなく、傷ついた皮膚や粘膜から微小のピーナッツが侵入してアレルギーになった、となるわけです。

 これは従来の免疫学を覆すような理論であり、デンジャーモデルの今後の展開を私は楽しみにしていました。しかし、私の期待は裏切られ、その後デンジャーモデルについてはほとんど聞かなくなりました。そして、デンジャーモデルに代わって(と私は感じています)登場し、注目を浴びるようになってきているのが先に述べた「食物アレルギーの機序に・・・」という理論です。

 この機序を理解するのに赤ちゃんが描かれたイラスト(注2)が役立ちます。右側の上に「ORAL EXPOSURE」とあり、その下に卵、ピーナッツ、ミルクのイラストがあります。そして右下には「TOLERANCE」とあります。これは、卵やピーナッツ、ミルクを経口摂取(食べること)すれば免疫寛容となる、つまり、食べても免疫応答が起こらない、すなわち「普通に食べることができる」ということを意味しています。

 一方、左上には「CUTANEOUS EXPOSURE」とあり矢印が赤ちゃんの皮膚を差しています。そして左下には「ALLERGY」あとあります。これは、卵やピーナッツ、ミルクが皮膚から浸入すると(つまり微小な傷にこれらが付着すると)、アレルギー反応が起こる、ということを意味しています。ここで重要なのは、「アレルギー反応が起こる」というのは、次に同じように皮膚の傷に付着したときに、ということだけではなく、次回は普通に口から食べたとしてもアレルギー反応が起こる、ということです。

 まとめると、同じ食べ物(卵、ピーナッツ、ミルクなど)を普通に口から食べると、それら食べ物はその人にとって免疫応答がおこらない(つまりその後も普通に食べられる)一方で、皮膚の微小な傷に付着するとアレルギー反応が成立し、その後は触れても食べてもアレルギー反応が起こる、ということになります。
 
 これは先に紹介した「デンジャーモデル」と矛盾するものではありません。しかし、Lack氏の提唱しているこの理論(注3)は、デンジャーモデルを包括しているだけでなく、経口摂取であればアレルギー反応ではなく免疫寛容が起こることにも言及しているために「理論」としてはより説得力があります。

 現段階ではLack氏のこの説は「仮説(hypothesis)」の域を超えず、すべての学者が賛同しているわけではありません。しかし、仮説ではなく正しい理論であることを裏付けた、と言えるかもしれない"大規模研究"があるところで偶然にもおこなわれたのです。

 その"研究"がおこなわれたのはLack氏の住むイギリスではありません。それは日本なのです。もっとも、日本では、Lack氏の仮説に基づいて研究プログラムがデザインされた、というわけではありません。Lack氏のこの理論を裏付けることになるかもしれない"研究"が偶然に「おこなわれてしまった」のです。

 もったいぶらずに言いましょう。その"研究"とは「茶のしずく石鹸によるコムギアレルギー集団発生事件」です。太融寺町谷口医院でも少し前まで被害者の方に呼びかけていましたが、日本では大勢の人が「茶のしずく石鹸」などグルパール19Sと呼ばれるコムギ成分の入った石鹸を使い、その結果コムギにアレルギー反応がおこり、その後パンやうどん、パスタなどを含むコムギ製品が一切食べられなくなったという人が相次ぎました(注4)。

 「茶のしずく石鹸」のアレルギーについては、このサイトで何度もお伝えしていますが、ここで簡単に復習しておきましょう。グルパール19Sと呼ばれるコムギの成分を含む石鹸を長期間使用すると、顔面(特に目の周り)に炎症が起こり、赤くなったり、かゆくなったりします。そのうちにコムギ製品を食べると同じような症状が出現し、ひどいときには全身にじんましんが生じたり、喘息のような呼吸器症状が出現したりすることもあり、さらに重症化すると血圧が下がりアナフィラキシーという状態になり生命の危機にさらされることにもなります。これを防ぐには石鹸だけでなく、コムギが含まれる食べ物を一切やめなければなりません。そのため被害者は「茶のしずく石鹸」の製造元である株式会社悠香などに対して訴訟を起こすことになりました。

 なぜこのようなことが生じたのかというと、洗顔をする際にグルパール19Sが皮膚から浸入し、それに対して身体がアレルギー反応を示し、いったん「異物」と認識されたコムギは口から食べても生体のアレルギー反応により様々な症状が生じるようになったというわけです。これはまさにLack氏の唱える仮説に合致します。

 Lack氏の仮説を裏付ける例をもうひとつ紹介しておきましょう。非ステロイド系鎮痛薬(NSAIDs)の外用薬をアトピー性皮膚炎に用いると、かなりの確率で接触皮膚炎(かぶれ)を起こすという事象があります。NSAIDsの外用薬はステロイド忌避(最近はあまり見かけなくなりましたがステロイドを盲目的に嫌っていた患者さんが90年代には存在していたのです)の患者さんに好まれて使われていました。ところがこのNSAIDs外用薬というのはアトピー性皮膚炎を含む湿疹にほとんど効果がないどころか高率に接触皮膚炎を起こすことが次第に明らかとなり、現在は少なくともアトピー性皮膚炎には使ってはいけないことになっています。

 では、なぜ非ステロイド鎮痛薬がアトピーの人たちに高率にかぶれを起こしたのでしょうか。おそらく微小な傷から外用薬が侵入しアレルギー反応が生じたのでしょう。NSAIDs外用薬は打撲などにも使いますが、この場合はそれほどかぶれがおこりません。アトピー性皮膚炎でない人、つまり皮膚に炎症がなく微小な傷がない人が使ってもほとんどかぶれないのです。まだあります。湿布薬でかぶれた、という人は大勢いますが、私の印象でいえばアトピーなど慢性湿疹のある人にかぶれは起こりやすいですし、皮膚に炎症のない人でも上半身よりも下半身、特に下腿に湿布を貼るとかぶれやすい印象があります。これはおそらく下腿を打撲したときに微小な傷が土や草木などにより生じていて、そこから湿布の成分が侵入し、アレルギー反応が生じ、何度か湿布を貼り替えているうちにかぶれてしまった、というストーリーが考えられるというわけです。

 Lack氏のこの仮説が正しいとすると、この理論を利用してアレルギーを予防することが可能になります。すぐにでも始めたいのは「乳幼児の口の周りをきれいにする」、ということです。食べ物のアレルギーは従来言われていたように元々「決まっている」のではなく、この仮説によれば後天的なものということになります。つまり、口の周りの炎症がある部位に食べ物が侵入してアレルギーが成立するというわけです。保護者は乳幼児の口元に炎症がないかに注意し、あれば慎重に食べ物を口の中に運ばなければなりません。また、部屋をきれいにしておき、例えばピーナッツの破片が床に散らばっていないか、といったことに注意をする必要があります。もしも赤ちゃんがハイハイしているときにピーナッツの破片が腕や足の微小な傷や炎症のある部位から進入すればアレルギーが成立することになります。

 成人でも、例えば傷や炎症がある部位には痛み止めの塗り薬や湿布を使わない、とか、乳幼児と同様、口の周りに炎症があったり口唇炎があったりする場合は、アレルギーを起こしやすい物質を食べるときは口の周りに触れないように注意して食べる、といった対策が必要になるかもしれません。カニを食べるときには落ち着いて、殻(甲羅やハサミ)で口唇や口の周りを傷つけないようにしなければなりません。

 Lack氏の仮説が正しい理論であることを実証するにはまだ当分時間がかかるでしょう。例えば、日本人に多いソバアレルギーを考えたとき、ピーナッツのような固いものと異なり、ソバが皮膚から浸入するというのは考えにくいですし、最近成人で増えている口腔内アレルギー症候群をきたしやすい野菜や果物が皮膚から浸入したことを示すデータはほとんどありません。

 しかし私はこの仮説がいずれ「正しい理論」として免疫学の教科書を書き換えることになるのではないかと思っています。これからの研究に注目したいと考えています。


注1:「デンジャーモデル」については下記コラムも参照ください。
マンスリーレポート2011年6月号「勉強し続けなければ仕事ができない・・・」

注2:このイラストはこちらを参照ください。

注3:この理論は医学誌『The Journal of Allergy and Clinical Immunology』2008年6月号(オンライン版)に掲載されています。論文のタイトルは「Epidemiologic risks for food allergy」で、下記のURLで全文を読むことができます。
http://www.jacionline.org/article/S0091-6749%2808%2900778-1/fulltext

注4:2014年4月20日現在、合計2,163名の人が茶のしずく石鹸などで被害に合ったことが報告されています。



参考:
はやりの病気第94回(2011年6月)「小麦依存性運動誘発性アナフィラキシー」