マンスリーレポート

2014年5月号 「真実の愛」が生まれるとき

 真実の愛、などというと、何を歯の浮いたことを・・・、と嫌われそうですが、医療の現場にいるとしばしば「これが真実の愛ではないのか・・・」と感じることがあります。愛には家族愛や隣人愛といったものもあるかと思いますが、ここで私が言っているのは「恋愛」です。

 なぜ医療の現場で「真実の愛」を知ることができるかというと、例えば、長年寄り添った高齢の夫婦のどちらかが死に近づいているときに見つめ合っている姿とか、若いカップルのどちらかが難病に罹患しパートナーが必死に支えている姿とか、パートナーがHIVに感染していたことが判った患者さんがこれまで以上の愛を実感している姿などを目にする機会があるからです。

 このような愛の姿をみて感銘を受けると、それを文章にして多くの人に知ってもらいたい、と思うこともありますが、すばらしさを伝えるにはある程度話が具体的になってしまうことになり、そうすると個人が特定されることになりかねませんから守秘義務の観点上文章にすることは困難です。

 それに、このような話はよほど上手に書かない限りは陳腐な三流ロマンス小説のようになってしまい、私の文章力ではすばらしさが伝わりませんから、書きたくても書けない、ということもあります。

 けれども「真実の愛」ほど素晴らしいものはなく、他のどんな欲求が満たされたとしても「真実の愛」にかなうものはない、というのが私の考えです。そして、その「真実の愛」を日頃から垣間見ることのできる医療者の多くは私と同じように(たぶん)感じていると思うのです。
 
 前置きが長くなりましたが、今回取り上げたいのは、何かと世間を騒がせることの多い作家、中村うさぎ氏についてです。

 中村うさぎ氏は、自らが買い物依存やホストクラブに浪費していたことをカムアウトし、美容整形を繰り返し豊胸手術もおこない、さらに風俗店での勤務をおこない、その逆に男性を買ったこともあり、そしてこれらを文章にしてきた人気作家です。こういったエピソードを聞かされると、個人的にはいくらかの嫌悪感を抱かずにはいられませんし、病院の悪口を書いた氏に反論する内容のコラム(注1)を私はこのサイトで書いたこともあります。しかし、それでも氏の文章力は見事であり、特に女性心理の真髄に迫るような描写が大変魅力的で、実はけっこう私は氏の著作を読んでいます。

 たしか1年くらい前だったと思いますが、「欲望」に関する大変鋭い指摘を『週間文春』の連載コラムでされていました。内容を抜粋すると次のようになります。(このコラムは単行本『死からの生還』で読むことができます)

人間が社会を形成したのも、資本主義を産み出したのも、この「何かが欠落している」という意識ゆえではないか。社会があるから欲望が生まれたのではない。欲望が先にあって、そこから社会という共同幻想が作られたのだ。(中略) まだまだ足りない、満たされない、この欠落感を埋める何かが欲しいと激しく渇望する、その意識こそが人間という生き物の本質なのではないか。人間とは、欲望のフリークスなのである。永遠に満たされぬ欠落感を抱えた主体なのである。(中略) 人間の本質は欲望そのものなのであり、この大いなる欠落感こそが「私」という主体なのである。

 完全に同意できるわけではありませんが、私はこの文章を読んで今後の中村うさぎ氏の発言に注目していました。ところが悲劇が起こりました。氏は突然原因不明の疾患(注2)に罹患し、心肺停止にまで至ったのです。

 その後、中村氏は回復しますが、退院後も車椅子の生活を余儀なくされステロイド内服を続けなければならない状態のようです。しかし夫の献身的な介護のおかげで"幸せ"であることを自覚していると言います。『週刊文春』のコラムも再開されましたが、氏は次のような発言をします。

それでもう充分。欲しいものなんか何もないよ。(中略) 幸せになった途端に、書くことがなくなってしまったからである。

 同誌の連載は2014年4月で終了したのですが、氏によるとこれは同誌をクビになったそうで、その原因がこの「書くことがなくなってしまった」という発言だったことを編集者から指摘されたそうです。これに対し、氏は猛然と抗議しており、その抗議文をコラムにも載せているのですが、私は連載終了にされたのは中村氏にも原因があると思っています。「書くことがなくなってしまった」というコメントは『週刊文春』の編集者を落胆させたわけですが、落胆したのは編集者だけでなく私のような氏のコラムを楽しみにしている読者も、です(注3)。
 
 「書くことがなくなった」と公言する作家のコラムなど読みたくありません。しかし、さすがは中村うさぎ氏、これまでとは一線を画した内容のコラムを執筆し、言葉が読者の胸をうちます。氏は、献身的な介護をおこなう夫との間に「絆」を自覚しそれを文章にしています。

 中村うさぎ氏の夫は芸能人や文化人ではないと思うのですが、氏のコラムにときおり登場しますからそれなりに有名なようです。氏の夫は香港出身のゲイです。ストレートの女性である中村うさぎ氏がゲイの男性と結婚したことで随分話題になったようです。「何のために結婚するのか」という疑問が世間から出るのも当然でしょう。氏の夫に対するコメントを『新潮45』(2014年5月号)より少し抜粋してみます。

うちの夫には私よりも深刻な持病がある。車椅子ではないが、私より先に死んでもおかしくない病気だし、私も夫も結婚した当初からそれを覚悟している。(中略) 病気のせいもあり薬の副作用もあって、彼が外に働きに出ることは不可能だと思われたからだ。今はいい薬も開発されて夫はその後十数年も生き延びて来れたけど、まだまだ予断を許さない状態だ。

 ゲイである中村うさぎ氏の夫もまた難治性の病を抱えているのです。その病は、病名は伏せられていますが、相当深刻な疾患のようです。いい薬が開発されたおかげで十数年生き延びられたけれども副作用にも苦しめられ今後の予断が許されない、そのような疾患なのです。

 そんな疾患を抱えながらも、中村うさぎ氏の夫は必死に氏を支えます。『新潮45』には具体的なエピソードも紹介されており、読んでいるうちに目頭が熱くなってくるほどです。

 氏は夫との「絆」について次のように記しています。

(前略) 私は夫との「絆」について堂々と書く。何を恥じる必要があろうか、私にとって夫がなくてはならない存在であることを。(中略) 私は自分が死んでしまう時に、ぜひとも彼に傍にいて欲しいと願っている。大阪の両親でもなく、医師や看護師たちでもなく、彼ひとりだけが私を見守って、手を握ってくれていれば、それでいい。(中略) 私は絶望などしないだろう。夫がいてくれれば。夫さえ傍にいてくれれば。彼は私の愚かしくも空疎な人生において獲得した最高の宝物だから。

「永遠に満たされぬ欠落感を抱えた主体」であったはずの中村うさぎ氏は今、「夫だけが私を見守って手を握ってくれていれば絶望などしない」と感じているのです。

「真実の愛」が生まれるとき・・・。自分自身が、あるいはパートナーが深刻な病を患ったときに真実が見えるようになり愛の尊さに気付く・・・。これは素晴らしいことでありますが、そのような病気に罹患しなくても、「最高の宝物」がすぐそばにいるのだけれど気付いていない、という人も少なくないのではないでしょうか・・・。


注1:中村うさぎ氏のコラムに反論した私のコラムは下記です。
メディカルエッセイ第102回(2011年7月)「招かれざる患者と共感できない医師」

注2:中村うさぎ氏が現在罹患されている疾患について詳しいことは分かりません。氏のコラムには、神経内科の主治医がいること、比較的多量のステロイドを毎日飲まなければならないこと、心肺停止が今後も起こりうること、などが述べられており、病名ははっきりとしていない、といった記載があります。ウィキペディアには「スティッフパーソン症候群と診断されている」と書かれていますが、私の知る限り中村氏が直接書いた文章にこの病名はありません。

注3:『週刊文春』の連載コラムは2014年4月で終了となりましたが、この続きのコラムはメルマガで読むことができます。興味のある方は中村うさぎ氏の公式ホームページを閲覧するか、「まぐまぐ」から検索してみてください。


参考:
『死からの生還』中村うさぎ 文藝春秋
『新潮45』2014年5月号新潮社「夫との絆 心肺停止になって考えたこと2/中村うさぎ」