メディカルエッセイ

第144回(2015年1月) Choosing Wisely(不要な医療をやめる)(前編)

  今月(2015年1月)に公開した<院長あいさつ>のなかの「開業9年目に向けて」というコラムのなかで述べましたが、私はこれからの日本の医療には「Choosing Wisely」という考え方が不可欠だと考えています。「Choosing Wisely」とは、直訳すれば「賢く選択する」となりますが、わかりやすく言えば、「適切な医療を選ぶ」、言い換えれば「不要な医療をやめる」ということです。

 ここで私が研修医時代に経験したChoosing Wiselyを考える上で興味深い症例を紹介したいと思います。

 患者さんは3歳の男の子。自宅のベッドから落ちて頭をうちお父さんに連れられて深夜の救急外来にやってきました。幸運なことに、その日の救急外来の担当医は脳神経外科医でした。医師は充分な時間をかけてその男の子の診察をして、お父さんに「大丈夫だと思います。このまま何もせずに様子をみてください。もしも、意識がぼーっとしたり、吐いたりするようであればあらためて受診してください」と言って診察を終わらせようとしました。

 すると、驚くべきことに、その子のお父さんが突然言葉を荒げて怒り出したのです。「思います、では困るんです! この子は頭をうってるんですよ! CTを撮るのがあんたらの仕事でしょ! もしもこの子に何かあったらあんた責任とれるんか! こっちは金払う言うてるんや、医者はサービス業ちゅうもんがわかっとらんのか!・・・」、とこんな感じで次第にけんか腰になってきました。

 この症例のように「頭をぶつけたからCTを撮ってほしい」という要望は「以前は」少なくありませんでした。「以前は」と過去形なのは、最近ではその傾向が変わってきているからです。これは患者側が冷静にリスクを判断できるようになったから、というよりも、おそらく東日本大震災の影響でしょう。放射線の有害性がマスコミにより大きく取り上げられるようになり、CTどころか単純X線にすら過剰な恐怖心を持つような人もいます。

 しかし、震災前までは「頭をぶつければCT」と考えている人は非常に多く、特にこの症例のように、子どもが頭をぶつけたときの親の間では顕著でした。これはおそらく1999年に起こった「杏林大病院割りばし死事件」が影響を与えていると思われます。これは4歳の男の子が転倒し救急搬送されたものの、割りばしが喉の奥に突き刺さっていたことが見逃され翌日に死亡したという事件です。折れた割りばしは小脳にまで到達しており、これを診察した医師が見抜けなかったのです。このときにCTを撮影していれば発見されたであろうことから、CTを撮影しなかった医師が業務上過失致死などで送検されました。

 この事件は最終的に医師の無罪が確定しました。救急外来受診の状況から割りばしの存在を疑うのは困難であり、このような例は世界的にみても極めて稀なものであり、CTの撮影をおこなわなかったことを過失とは認められない、というのが大まかな判決の内容です。

 しかし、このような判決を聞いても遺族の立場からすれば納得しづらいでしょうし、もしも我が子に同じことが起こったら・・・、と考えれば、「頭になにかある場合はCTが必要」と考えたくなる気持ちは理解できます。

 しかし頭をうったり転倒したりした症例すべてにCT撮影というのは現実的ではありません。このようなことを言うと、「それは(全体の)医療費を抑制するためですか」と言う人がいますがそうではありません。このケースでは、一番の問題は被爆であり(CTの被曝量は単純X線の比ではありません)、次の問題は患者さんが負担する費用の問題です。もっとも、多くの自治体では小児の場合はどのような治療を受けても1回の受診料が500円程度になっていますから「それは問題でない」という人もいるでしょう。しかし成人であれば3割負担で数千円の費用がかかります。

 件の症例の続きに戻ります。診察室で大声を張り上げて今にも診察医を殴りかかるくらいの勢いでこのお父さんは引き下がりませんでしたが、医師側からみれば、小さな子どもに無駄な被爆をさせるわけにはいきません。「すべきではない検査はできません」と冷静に説明を繰り返します。結局、これ以上何を言っても無理と判断したそのお父さんは捨てゼリフを吐いて診察室を去って行きました。

 私は診察医の後ろでこのやりとりを聞いていたのですが、無駄な被爆と医療費を回避すべきと考えていたその医師の考えが強く伝わってきました。「CTは不要です」と断言するのも勇気がいることなのです。自分の診察に自信がなければ「もし何か見つかればどうしよう・・・」という不安が出てきますし、もっといえば、今回の転倒と関係のない異常所見が見つかることだって可能性としてはあるわけです。患者さんの立場からすれば、「もしもあのときCTを撮っていれば・・・。CTを拒否したあの医者を一生許さない!」となることもあり得るのです。

 私はこのエピソードをこれまで何度か(医療者でない)知人に話したことがあるのですが、「これが医師のあるべき姿だ」というと首をかしげる人が少なくありません。彼(女)らは、「要望があるならCT撮ってあげたらいいんじゃないの。異常がなかったらそれでお父さんも満足しただろうし、病院だって儲かるんじゃないの?」、というのです。

 医師は「聖職」などというつもりは毛頭ありませんが、医師は他の職業と異なる、としばしば感じるのがこの点です。つまり、市場社会におけるほとんどの仕事は営利を追求することが(それだけではないにしても)第一の目的であり、一方、医療というのは(利益がなければ組織の存続ができないのは事実ですが)営利を追求しない(してはいけない)仕事です。日本医師会の「医の倫理綱領」の第6条には、はっきりと「医師は医業にあたって営利を目的としない」と述べられています。

 この点を理解していない人は非常に多いと言わざるを得ません。鋭い指摘をするジャーナリストや知識人でさえも誤解していることがあります。Choosing Wiselyの議論になったときも、「検査や治療を減らせば医療機関が儲からなくなるから日本では普及しないんじゃないの」という意見すらあり驚かされます。

 しかし、アメリカの医師も日本の医師もミッションは同じです。アメリカの学会が一丸となってChoosing Wiselyのキャンペーンをできて、我々日本の医師にできないはずはありません。なかなか理解を得られないかもしれませんが、我々医師は利益のことを考えて診療をしているわけではありません。その逆にいかに不要な検査や治療を減らしていくかを考えているのです。これを説明するのに「医師の矜持」にかけて、という言い方ができるかもしれませんが、そんなたいそうな表現を用いなくても、普通に医学部で学び、医師になれば研修期間が終了する頃には「医師の常識」が身についているのです。

 身体の具合が悪くて医療機関を受診するのはお金持ちだけではありません。というより裕福でない人の方が多いでしょう。そのような人たちは、治療にどれくらいお金がかかるだろう・・、と不安な気持ちで受診することも少なくありません。すでに具合が悪くて仕事を数日間休んでいたり、場合によってはその症状のせいですでに退職していたりすることもあるのです。そんな人たちに対して、少しでも検査を増やして濃厚な治療をしてお金を稼ごう、などと考えることのできる人間はいません。

 それに、治療がうまくいくと、患者さんは心の底から感謝の言葉を話されます。そういう言葉を聞くと、もっとがんばろう、という気持ちになり心が奮い立たされます。そんなときに、どうすればお金が儲かるか、などとはまともな神経をしていれば考えることができないのです。

 つまり、医師は高い人格を有しているから自分の利益よりも患者さんの負担を少なくすることを考えるのではなく、仕事を通して困っている人の力になりたいと"自然に"感じ、また感謝の言葉を聞くにつれて"自然に"利他的な考え方になっていくのです。

 Choosing Wiselyという考え方が誕生したひとつの理由として、膨大する医療費を抑制しなければならないという国(アメリカ)の意向が反映されているのではないかという意見があります。しかし、Choosing WiselyのPRをしているのはABIM(American Board of Internal Medicine、アメリカ内科学委員会) という医師からなる非政府組織です。つまりChoosing Wiselyは行政主体ではなく医師主体なのです。

 広く世論にChoosing Wiselyの本質を理解してもらうことができれば、患者さんの時間とお金の負担が減少し、医師としては思うような診療ができ、コミュニケーションのすれ違いや誤解が減ることが期待できます。おまけに全体の医療費も縮小できますから、患者、医師、行政の3者にとって望ましいことになるはずです。(検査会社、製薬会社、医療機器のメーカーなどは利益が減少することになるでしょうが・・・)

 次回は、先に紹介した子どものCTを執拗に迫ったお父さんのような例にはどのような説明をすべきなのかについて検討し、医師・患者のコミュニケーションのすれ違いが生じる理由について言及し、そしてChoosing Wiselyの具体例(注1)を紹介していきたいと思います。


注1:ABIMが作成するChoosing Wiselyの具体例は下記URLですべて閲覧することができます。
http://www.choosingwisely.org/doctor-patient-lists/