マンスリーレポート

2015年1月号 「総合」なるものの魅力(後編)

  1987年の夏。それは私が関西学院大学理学部に入学できたものの、勉強に興味が持てなくて、というより授業についていけなくて、退学することを考えていた頃です。以前別のところで述べましたが、同じ大学の社会学部の先輩に、ひょんなことから集団力学というものについて話を聞いたことがきっかけで、私は社会学という学問に興味を持つことになりました。

 その後社会学部への編入を考え、そして実行することになるのですが、編入学試験を受けるために社会学の勉強を独学で開始しました。集団力学というのは、集団における人間の行動を研究する学問ですが、私にとっては人間そのものを研究対象にするというのが斬新でした。私が在籍していた理学部では、わけのわからない実験をやらされたり、意味不明な数式を解かされたりしていたわけで、いったい何の役に立つものかがわかりません。人間そのものを研究する学問がとても魅力的にうつったのです。

 社会学の勉強を開始しだしてまず驚いたのは、学問の対象としている領域があまりにも広いということです。社会学で取り上げているのは、法律、経済、宗教、政治、心理、家族、歴史、マスコミ、福祉、・・・、などなんでもかんでも研究対象にしています。これらは法社会学、経済社会学、宗教社会学、家族社会学、などと〇〇社会学と命名された比較的大きなサブグループがあり、また、社会心理学、社会人類学、・・、など社会〇〇学と命名されたものもあります。また、このようなサブグループとしては確立していないものの、社会学が取り上げる領域は、差別、同性愛、賭博、祝祭、犯罪・・・、など人間に関することならなんでもあり、という感じです。

 これは面白い!、と直感した私は社会学に関する本をどんどんと読んでいきました。そして、社会学関連の本を読み進むにつれて、ものごとを多角的に考えるようなクセがついていきました。例えば経済を考えるときには、経済学の教科書には載っていないこと、例えば、人間の欲望や嫉妬心といった心理的な要因、あるいは宗教や政治といった社会的な要因も考察に加えるのです。関西学院大学の経済学部の知人たちは、卒論に、例えばケインズだけを深くとりあげた研究とか、ミクロ経済のある特定の領域を取り上げた研究などをしていましたが、社会学から経済をみると、視点はより幅広いものになるのです。

 前回のコラムで、「総合診療医」は専門医か専門医の対極なのかという議論になるとき、私はある<懐かしい記憶>を思い出した、ということを述べましたが、この<懐かしい記憶>とは、私が社会学部に編入学を考えていたときの記憶なのです。私が考える「総合診療」とは、臓器を診るのではなく、その人のすべてを診て、必要あれば心理・社会背景にまで踏み込み、さらに場合によっては職場や家族での人間関係も考慮する医療のことをいいます。こういうと、それは「全人医療」ですか、と聞かれることがあるのですが、「全人医療」という言葉は手垢がついているというか、これまで様々な場面で使われてきた言葉なので私自身はあまり使っていません。まあ、言葉というのは定義によりますからあまりこだわらない方がいいのかもしれませんが。

 また、「総合診療医」は専門医か専門医の対極なのかという議論になるとき、専門医は「理系」的であり、総合診療医は「文系」的である、という人がいます。後で述べるように、今はこの考え方に同意していますが、理系・文系という分類については、もともと私自身はあまり好きではなく、安易にそのような分類をすべきではない、と思っています。

 ところで、なぜ人は学問に魅せられるのでしょうか・・・。勉強なんかに魅せられるわけがない!と感じる人がいるかもしれませんが、それは学問の面白くないところばかりを強要されるからであって、本来学問とは人間にとって大変魅力的なものです。なぜなら、学問とは「真実」を知るための手段だからです。多くの高校生からみたときには(私の高校時代を含めて)、教科書に書いてあることなんてムダなことばかり、と感じますが、これはつまらないことばかりが書かれているからです。

 しかし、もしも高校時代に先生からこのように言われればどうでしょう。「人間とはいったい何なのでしょう。人はどこから来てどこへ向かおうとしているのでしょうか。いったい世の中の何が正しくて何が間違っているのでしょうか。真実とは何なのでしょうか。それを知るために学問があるのですよ。もちろん教科書に書いていないことで正しいこともたくさんあります。しかし、教科書に書かれていない正しいことを理解するためにも、まずは目の前のある学問に取り組みませんか・・・」

 人生経験のない高校生のこのようなことを話しても理解されることはないかもしれません。私自身も自分が高校生のときにこのようなことを聞いても分からなかったと思います。しかし今なら分かります。そしてこれは私だけではないはずです。「歴史に学ぶ」ことの重要性に気付いて中高年になってから歴史の教科書を読み直す人や、高校時代に挫折した物理の入門書を読み出す人は少なくありません。

 で、私が何を言いたかったのかというと、「真実を知る」ための手段が学問であり、初めから文系と理系を区別するのはナンセンスである、ということです。

 しかし、最近ある新聞のコラムをみて、頑なに「文系・理系を区別すべきでない」とする私の考えも柔軟性を持たせなくてはいけないのかな、と考えるようになりました。

 そのコラムとは、池上彰氏が日経新聞の月曜日に連載されているもので2014年12月8日の内容です。池上氏は東京工業大学の講義で、国内総生産(GDP)の2014年7~9月期の速報値が悪かったことを取り上げ、その原因として民間企業の在庫が減ったことを挙げ、GDPの数字は悪化したが、在庫減少はひょっとすると景気回復のサインかもしれない、という話をされたそうです。すると、学生から「在庫減少がGDPにどのように反映するか、その計算式を教えてください」という質問を受けたそうです。池上氏は「そこが気になったのか!」と、びっくりしたと書かれています。

 私なら、そして多くの"文系"の人たちは、「GDPの悪化が景気悪化を意味するのか、あるいは回復の可能性があるのかを知るために、まずは他のファクターを取り入れて考えてみよう。そして、政治家、経済人、学者、外国のマスコミなど様々な視点からの意見を聞いてみよう」といった発想になると思います。しかし、「理系」である東工大の学生はまずは「在庫とGDPの計算式」なのです。

 池上氏のこのコラムをみて、私が以前から主張している「文系・理系を区別すべきでない」という考えを変えるまでには至りませんが、「理系的な発想」が存在するのは認めざるを得ない、と思うようになりました。

 そして、この「理系的な発想」がまさに、前回のコラムで紹介した「何でも診るということは結局何も診ないことと同じ」と主張する専門医の考え方だと思うのです。専門医というのは特定の臓器の、さらに特定の領域だけを診ます。多くの領域で治療が複雑化していますからこのように一つの小さな領域に特化した医師というのは絶対に必要ではあります。しかし、このような専門医だけでは医療が回りません。

 最近私が経験した患者さんを紹介したいと思います。この患者さんは数年前から風邪、胃腸炎、湿疹、など様々なことで受診されていました。先日、ある2つの皮膚症状を話され、どちらも場合によっては入院しての高度な治療が必要と判断した私は、ある病院の皮膚科に紹介状を書きました。すると、返ってきた返事が「それら2つの皮膚症状は別々のものだから同じ医師が診ることはできない。別々に紹介状を書いてくれ」というものだったのです。患者さんからすれば、同じ皮膚なのになんで分けて受診しなければならないの?となるわけですが、一方医師から診たときには「専門医は専門分野しか診ない」というのも理解できることです。

 文系・理系を区別すべきでない、という考えは変わりませんが、総合診療に取り組んでいる私は「文系的な発想」をしていることになるのかもしれません。そして、これからもこのように多角的な観点から物事を考えるクセは変わらないと思います。私は医学部に入学したときは、研究者として分子生物学を極めて真実にたどり着きたい、と考えていましたが、それを諦めた理由の一つが、分子レベルのミクロの世界の研究よりも人間全体を多角的な観点からみるのが好きということに気付いた(あるいは、思い出した)、というものです。そういう意味で、社会学に魅せられて編入学したことと、医学部でミクロの研究を断念し総合診療を志すようになったことは共通しているのではないかと考えています。