はやりの病気

第142回(2015年6月) E型肝炎対策と生肉の楽しみ方

 2011年に集団食中毒を起こし5人の子供の命を奪った北陸の焼肉チェーン店「焼肉酒家えびす」に対し今も否定的な気持ちを持っている人は少なくないでしょう。

 この事件を受けてこの焼肉屋は倒産しましたが、事はそれで終わりませんでした。2011年10月1日、生食用牛肉の処理に関する厚生労働省の基準が改正されました。ここまではいいのですが、2012年7月にはこの事件のせいで生レバーが禁止されました。

 生レバーが大好きという日本人は少なくなく、提供禁止となる直前には焼肉屋での需要が急増し、生レバーを惜しみながら食べる人が大勢いたそうです。その後は、あからさまに生レバーを提供する店はなかったでしょうが、こっそりと「裏メニュー」のようなかたちで客に出している店があり摘発されたところもあります。

 法律のなかには「形だけ」のものもありますが、摘発が相次いだことから、今ではほぼすべての焼肉屋で生レバーを食べられなくなっています。生レバーを提供し、スタッフや客の誰かひとりが裏切って通報すればその店は即つぶれることになりますから、このようなリスクを背負う店はほとんどありません。

「焼肉酒家えびす」の事件さえなかったら・・・。このように考えている人は少なくないはずです。その後、生レバーを諦めきれない人たちがどうしたかというと、牛から豚にシフトしました。法律で決められたのは「牛の生レバー」ですから、豚や鶏など他の肉では規制がないわけです。

 そこで、豚肉を提供する焼肉屋では積極的に豚の生レバーをメニューに加えるようになりました。豚のレバーも牛に劣らないくらい美味しいらしく(私は食べたことがありませんが)、「牛生レバー禁止令」が出てからすぐに豚生レバーの知名度が上がりました。

 しかし落とし穴がありました。豚肉は牛肉と異なりE型肝炎ウイルスのリスクがあるのです。

 国立感染症研究所の報告によりますと、E型肝炎ウイルス感染の報告数は2012年以降に急増し、2014年は146人となりこれは過去最多となります。これを受けて今月(2015年6月)から、豚肉の生肉提供が法律で禁止されるようです。

 全国でたった146人と聞くと、なんだそんなものか、と思う人もいるでしょうが、実際に感染している人はこの何十倍もいるはずです。というのは、E型肝炎ウイルスは不顕性感染といって感染しても発症しない人が多く、また発症したとしても一過性で、しばらく倦怠感と微熱が続いたけどいつのまにか治った、という人も少なくないからです。このようなケースでは医療機関を受診しないことが多いでしょうし、受診したとしても軽症のまま治ってしまえば医師が感染に気付きません。

 治ったのだからいいではないか、と感じる人もいるかもしれませんが、もしも体内に入ってきたウイルス量がもっと多ければ、あるいは、体調が悪く免疫力が正常でなかったとしたら、場合によっては重症化したかもしれません。

 E型肝炎には慢性化はありません。食べ物から感染するということ、慢性化がないということ、特効薬がないということ、劇症化があり死に至ることもあること、などはA型肝炎と似ています。潜伏期間も6週間程度で、A型肝炎の場合は4週間程度ですから少し差はありますが同じような感染症と考えていいでしょう。

 教科書的な話を補足しておくと、E型肝炎の不顕性感染はA型肝炎よりは少なく、また劇症化(重症化)する確率もA型肝炎よりは多いとされています。特に妊婦さんが感染すると高率に劇症化します。この点は大変重要で、私は妊娠の可能性のある患者さんがアジア方面に旅行に行くと話された場合は、屋台での食事を控えるように助言しています。(もっとも、妊娠初期は搭乗事態が流産のリスクになりますから海外渡航は可能な限りやめてもらっていますが)

 ワクチンは現在海外で開発中で、一部はかなり実用化に近づいているという情報もありますが、日本国内で接種できるようになるにはまだ当分かかりそうです。

 肉の生食に話を戻しましょう。E型肝炎ウイルスのリスクがある豚の生肉摂取が禁止されるのは当然と私は考えていますが(注1)、他の肉にも注意が必要です。最近は「ジビエ」と呼ばれる野生のイノシシやシカを食すのがブームのようですが、こういった肉にもE型肝炎ウイルスが感染していることが知られています。火を通せば問題ありませんがユッケやタタキなど生で食べることは慎まなければなりません。

 あれも食べるな、これも食べるな、と言われると、寂しくなるというよりは反発したくなります。個人的なことを言えば、牛の生レバー禁止は解除してもらいたいと私は考えています。もちろん危険性は周知させるべきですし、一定の基準を設ける必要はあります。また、行政の抜き打ち検査のようなものは取り入れるべきでしょう。しかし、完全禁止は「食文化の否定」に他ならず、私の意見は「昔から食べていたものを安易に禁止すべきでない」というものです。

 牛肉の生レバー禁止賛成という人たちが安全衛生以外のことでよくいう理由に「生レバーを食べるのは日本人くらい」というものがありますが、これはおかしな理屈です。この理屈に従うならそのうち牛肉のタタキも食べられなくなるかもしれません。何を食べるかというのは伝統に従ってその地域の人々が決めるものであり、今回のコラムの趣旨とは異なりますが、現在話題になっているクジラやイルカを食べることを外国人が非難するのも私はスジ違いだと思います(注2)。

「グリーンピース」を代表としたNGOは日本のクジラやイルカを目の敵にしていますが、ではイヌはどうなのでしょう。よく知られているように韓国や中国ではイヌを食べる食文化がありますし、タイでも東北地方のサコンナコン県などでは今もイヌを食す人がいます。ネコについては私自身は食べたという人に会ったことはありませんが、中国の一部の地方では今もネコを食べる文化があると聞きます。イヌやネコは食べてもよくてクジラはいけない合理的な理由があるなら是非聞いてみたいものです。もしも日本が一部の環境団体からの圧力に屈しクジラを食べなくなってしまえば、おおらく次の日本食のターゲットは馬になるでしょう。馬刺しが過去の産物となりヤミ市場でしか手に入らなくなるかもしれません。

 話を感染症に戻します。大切なのはどのような法律をつくるべきかではなく、安全に美味しく食事をするにはどうすればよいか、です。法律がなくても鮮度の落ちた鶏肉や魚介類を生で食べてはいけませんし、何分以上火にかけなければならないという規則ができたとしてそれに秒単位でこだわるのはナンセンスです。

 安全に美味しく生肉を食べる方法、それは「昔からその地域で食べている方法で食べること」です。わかりやすい例を紹介したいと思います。

 タイのイサーン(東北地方)では、発酵させたサワガニの入った「ソムタム・プー」と呼ばれるパパイヤサラダがあります。「発酵」といっても実際の臭いは生のサワガニそのものであり発酵臭というよりは腐敗臭にしか日本人には感じられません。私はこの料理を初めて出されたとき、どうしても口にすることができなかったのですが、その後も何度も勧められついには食べられるようになりました。当初食べられなかった一番の理由は「臭くて吐き気を催すから」ですが、もうひとつの理由は「肺吸虫は大丈夫なのか?」というものです。生のサワガニが肺吸虫という寄生虫のリスクになることは医学を学んだものであれば常識ですから、いくら現地の人たちが毎日食べていると聞かされても躊躇するのです。

 今では私はこのソムタム・プーを抵抗なく食べられるようになりましたが(注3)、私が危惧していた事故は日本で起こりました。九州に滞在している複数のタイ人が、日本のサワガニを用いてソムタム・プーをつくり、これを食べてウエステルマン肺吸虫に罹患したという報告がおこなわれたのです(注4)。

 ところで、海外にしばらくいると無性に日本食が食べたくなることはないでしょうか。日本人の大好きな定番メニューに「卵かけご飯」があります。ほとんどの国では鶏卵は比較的簡単に入手できますが、では日本にいるときと同じように卵がけご飯を食べてもいいのでしょうか。答えは「否」です。

 現地の人が食べていないものを食べるのは原則として慎むべきです。ちなみに私は以前バンコクにいるときにどうしても生卵が食べたくなりそのために日本料理店に行ったことがあります。生卵ひとつの値段がたしか150バーツ(当時のレートで約450円)もしました。そのときは、近くの屋台で売られているゆで卵を5つ串にさしたものが20バーツ(つまり1個4バーツ)でしたから生卵は驚異的な価格です。普通にスーパーなどで売られている卵は生で食べられないのです。

 もっと分かりやすい例をあげましょう。日本では全国どこにいっても水道水が飲めますが、こんな国はほとんどありません。海外に行けば多くの国ではペットボトルの水を携帯しなければなりません。

 日本のいいところとして、四季、風景、工芸品、日本食、古典芸能、きれいな街並、日本製品、新幹線、アニメなどいろんなものが挙げられますが、私が日本がすばらしいと思う3つの点は「鶏卵を生で食べられること、水道水がどこへ行っても飲めること、トイレに紙を流していいこと」です(注5)。これら3つを適えた国は、おそらく日本以外には存在しないのではないでしょうか。

 まとめです。危険性を考えて法律で肉の生食を規制するのはある程度は必要なことではありますが、牛の生レバーを完全禁止するようなことを続けていれば、そのうちに卵がけご飯が禁止されてしまう時代がくるかもしれません。これまで食してきた文化を尊重し、いきすぎた規制には反対すべき、と私は考えています。



注1:ここでは述べませんが豚の生肉にはE型肝炎ウイルス以外に、様々な寄生虫や細菌感染のリスクがあります。寄生虫では有鉤条虫が、細菌ではサルモネラが有名です。

注2:ただし日本は「科学調査目的」と言い張って捕鯨し、実際にはクジラの肉を食べているわけで、これはおかしいと思います。かつてオーストラリアに指摘されたことがありますが、日本が科学調査目的と言い張るならキャッチ&リリースすべきです。食用として捕鯨したいのですから、アイルランドが昔から言っているように「漁民の生活のために一定の捕獲を認めてほしい」と言えばいいわけです。

注3:ただし私は今でもソムタム・プーを含めたイサーン料理を現地の人と毎日食べるとそのうちに下痢をします。また私はA型肝炎ウイルスのワクチンを接種しているから、現地の人と同じものや屋台での食事がおこなえるのです。このコラムを読んでイサーンの現地料理を食べたいと思った人がいれば渡航前にかかりつけ医に相談してください。

注4:国立感染症研究所のウェブサイトに記載があります。興味のある方は下記URLを参照ください。

http://idsc.nih.go.jp/iasr/25/291/dj2916.html

注5;少し補足しておきます。まず鶏卵の生食ですが、日本のように食べる国はないと思います。ヨーロッパでは私の知る限り鶏卵を生で食べる国はほとんどありません。アメリカやオセアニアでは「サニーサイドアップ」と呼ばれる半生の目玉焼きはありますが完全に生のものは聞いたことがありません。韓国ではユッケに生卵の黄味が使われますが卵がけご飯はないと思います。

水道水が飲める国、さらに全土で飲める国というのはあまりないはずです。UKではロンドンでは飲めるようですが、地方に行くと飲めないと聞いたことがあります。アジアで水道水が飲める国は皆無です。ただ、ニュージーランドと(たしか)オーストラリアでは日本と同じように全土で飲めると聞いたことがあります。

トイレに(便器に)紙を流していい国は、先進国では増えているようですが、それでも全土で流せる国はそう多くはないと思います。アジアではその国のどこへ行っても紙を流すことのできる国は(私の知る限り)ありません。この点については『マンスリーレポート』2012年9月号「トイレの使い方、間違ってませんか?」も参照ください。