マンスリーレポート

2017年7月 「やりたい仕事」よりも重要なこと~中編~

 ひとつめの大学(関西学院大学)時代に先輩たちから「コミュニケーションの重要さ」について学ばせてもらった私は、就職活動をする頃には対人関係力を武器に社会で勝負しようと思うようになっていました。前回は旅行会社でのアルバイトのことに触れましたが、19~20歳のときにおこなっていたディスコでのアルバイトもその考えに拍車をかけることになりました。

 ディスコでアルバイトを始めた動機も不純なもので「プロのDJから音楽の話を聞きたい」というものでした。お金がないと言いながらも週に1~3回程度は欠かさずディスコやクラブ(と80年代当時は呼べるところはほとんどありませんでしたが)に遊びに行っていた私は、プロのDJと話をしたかったのです。才能のないことに気づきながらも、DJになれれば...と当時思っていた私は自宅にターンテーブル2台とミキサーを置いてDJの真似事をしていました。自分でミックスしたテープをよく友達に聞いてもらっていて、褒めてもらうこともあったのですが、音楽に詳しい友人(彼は「絶対音感」があり現在も音楽活動をしています)から、「単にテンポを合わせてもダメ。お前の合わせ方では不協和音を作り出しているだけだ」とダメ出しをされ断念することになりました...。

 話を戻します。ディスコでのアルバイトで結果として私が最も学べたこと。それは「接客」のむつかしさと面白さです。水商売の世界というのは奥が深く、才能と経験が重要になります。当時、私が最も尊敬していた先輩はなんと17歳。その先輩は中学のときから水商売の世界に入っていて「貫禄」が違います。昼間に外で会えば当時19歳の私より若く見えますが、いったん制服を着て店に入ればまるで別人です。姿勢、歩き方、お客さんの前で跪くポーズ、声のトーンや話し方。まさに「水商売」という感じでした。他にも尊敬すべき先輩が多数いましたが、私はこの先輩から積極的に教えを乞うようにしていました。私の情熱が伝わったのか、午前3時の閉店後、トレーの持ち方から水割りの作り方、話し方まで「授業」をしてもらえることもありました。

 中年以降の2歳の差ならほとんど無視できますが、17歳と19歳の差は小さくありません。19歳の私が2歳年下の"先輩"を崇めるように接していたのですから、水商売の世界を知らない人には不審に思われていたかもしれません。このときの体験で「年齢なんて関係ない。大切なのは経験と実力だ」ということを学びました。まだ仕事もできないのに、自分の方が年上だという理由だけで、若い看護師にため口で偉そうに話す研修医を見るとついつい私は説教してしまうのですが、これはそのときの体験が大きいのです。

 水商売の世界にどっぷりとつかっていたその頃の私に欠けていたのは「謙虚さ」だったと思います。大阪ミナミのディスコでアルバイトをしていると、水商売の世界で有名な男女の知り合いがどんどん増えていきます。心斎橋筋を地下鉄心斎橋から難波の駅まで歩いただけで何人もの知り合いに会い、ある程度有名な飲食店ならたいていは知っている従業員がいる、という感じで、まだまだ世間を知らなかった当時の私は、生意気で自信過剰でした。

 そんな私が就職先を探すときに重要視したのは「自分の力でどれだけ大きいことができるか」です。逆に初めから考えなかったのが「大企業」です。大企業の歯車になるのがイヤで、同期で競争するなど馬鹿らしく不毛で無駄なことだと考えていました。また、名刺がなければ何もできないような男には絶対になりたくありませんでした。過去にも述べたように「大企業〇〇会社の谷口恭」と思われたくなかったのです。

 私が目指していたのは「企業内起業」です。会社の中にいながら、新規事業の部署を立ち上げることを考えていたのです。実は私が就職活動をおこなっているとき、Iさんという「師匠」がいました。Iさんは元リクルートの社員で、私が知り合った頃にはすでに自身の会社を立ち上げていました。当時の私は大企業にはまったく興味がなく、会社で人を判断するようなことはしませんが、リクルートは別格でした。何しろ、当時知り合った(元)リクルートの社員の人たちは、ほぼ全員が魅力的だったのです。後にリクルート社の基本方針が「長期雇用を前提としておらず何年後かには一人前になって辞めてもらう」ということだったことを知り納得できました。リクルートに入る人たちは会社にしがみつくことなど頭にないのです。

 師匠のIさんにも勧められた会社に就職を決めた私は、早く仕事を覚えるために、大学卒業前からその会社でアルバイトを始めることにしました。社内の雰囲気を知り、扱っている商品を覚えることよりも私が重要視したことは、入社前から社内のネットワークをつくっておくことです。何しろ私がその会社でやりたかったことは「企業内起業」です。早い段階で社内の人間関係を把握し、〇〇を相談するなら□□課の△△さんが詳しい、などといった情報を集めておくことは、入社前から開始した方がいいだろうと考えたのです。

 ところが、です。満を持して入社したその会社で私が配属されたのは、なんと海外事業部。英語がまったくできなかった私はまるで使い物にならず最低ラインに立たされることになりました。学生時代にお世話になった先輩達には到底かないませんが、それでも当時の私は誰とでもコミュニケーションを取れることに自信を持っており、社内外の人脈を築いていずれ新しい部署を立ち上げるんだ...、と意気込んでいました。しかし、海外事業部では英語ができなければ挨拶すらできません。今考えれば、生意気で世間知らずの私は、一度頭を打つ必要がある、と人事部で判断され、最も行きたくなかった海外事業部に配属されたのだと思います。

 過去にも述べたように、「退社」か「英語の勉強」の二者択一を迫られた私は「英語」を選択しました。最初の一年はひたすら英語の勉強と輸出業務の事務仕事に苦しんだ、という感じでしたが、二年目の途中からは、上司の許可を得た上で、自分のアイデアでいろんな国の商工会議所宛てに自社製品を売り込む手紙(90年代前半当時、メールはもちろん、FAXもない国が多く、そういった地域にはもっぱら手紙かテレックスしかありませんでした)を書いてみました。すると、アラブ首長国連邦のある企業から注文の手紙が...。この嬉しかった気持ちは今も覚えています。

 3年目からは輸入部門に移り、今度は輸入品を国内に売り込む仕事となりました。この頃の仕事はただただ楽しかったという感じです。自分でキャンペーン企画を考案し、チラシをつくり、景品を探してくるのです。入社前にアルバイトをしていた頃の社内人脈もいきてきて、さらに就職活動時の師匠Iさんの会社とも協力できるようになり、入社前に私がイメージしていた「企業内起業」に近づいていることを実感しました。

 けれども、最高に楽しい!と思ったとき、同時にある懸念もでてきました。そしてそれが次第に抑えきれなくなっていることを認めざるを得ませんでした。その懸念とは、「これでいいのだろうか...。10年後も同じことをやっているのだろうか。これが生きる意味なのだろうか...」。そんな思いがときおりふと脳裏をよぎると、言いようのない虚しさが私を襲います。

 実は英語や貿易実務に少し慣れだした頃、学生時代に読みたくてそのままにしていた社会学関連の本を少しずつ読むようにしていたのです。私は成績は良くありませんでしたが、大学3回生からは勉強が嫌いではなくなっていました。仕事の傍らに社会学の本を読めば読むほど、きちんと勉強したい、という気持ちが強くなってきました。

 大学時代の恩師、遠藤先生に連絡をとり、考えていることを話すと、君がやりたいことなら高坂先生にお世話になるのがいい、と助言をいただき、さっそく高坂先生に挨拶に伺い、その後数か月に一度は高坂先生の究室を訪れるようになりました。論文や教科書を紹介してもらい、社会学部の大学院受験の意思が固まりつつありました。

 社会学の面白さにとりつかれた私は、次第に仕事よりも社会学関連の本を読むことに時間を割くようになりました。これまでの人生で私が「どうしてもこの職業につきたい!」と最も強く思ったのはこのときで、端くれでもいいから社会学の研究者になりたかったのです。私が研究したかったのは人間の行動、感情、思考といったものです。そしてこういったテーマに興味を持てば自ずと生命科学にも感心が向きます。

 そこで私が考え付いたのが「まずは医学を勉強してから社会学に戻る」という道です。こうして私は医学部受験を決意することになります。しかし、合格したのはいいものの、入学後早くも挫折を味わうことになります...。

(続く)