メディカルエッセイ

第177回(2017年10月) 日本人が障がい者に冷たいのはなぜか

 私がひとつめの大学に在籍していた80年代後半から90年代初頭にかけて、日本はバブル経済真っ盛りであり、世界からは「金持ちの国」と思われていました。1985年のプラザ合意以降、急激な円高が進んだにもかかわらず、自動車や電化製品を中心とする日本製品は当時流行していた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉を想起させ、世界一高品質の評価を得ていました。

 しかしながら、当時の日本人が世界から好かれていたかというと、残念ながらそのようなことはなかったと思います。お金を持っていてもその使い方に品がないとよく批判されていました。今でも語り継がれているのが、安田海上火災のゴッホ「ひまわり」4千万ドルでの落札、三菱地所のロックフェラーセンター買収、ソニーのコロンビア・ピクチャーズ・エンターテインメント買収などです。大企業だけではありません。日本人が一斉に海外旅行にでかけるようになり、ハワイやパリでは高級ブランド店の商品買い占めが問題になりました。これを思えばここ数年の中国人の「爆買い」などかわいいものです。

 このようなお金の使い方をする日本人が世界から尊敬されるはずがありません。では、以前から日本人の良き特徴と言われていた「勤勉」についてはどうでしょうか。残念ながら、家族や余暇などの私生活を犠牲にし、会社にひたらすら奉公する姿は尊敬どころかむしろ「嘲笑」の対象でさえありました。日本人自身もこのような仕事に対する態度を蔑むこともあり「社畜」という言葉も生まれました。

 バブル経済崩壊後は、企業の不祥事が相次いで発覚、倒産する企業も続出し、リストラという言葉が一般化し自殺者が急増します。90年代には日本を称賛する声は国内からも国外からもほとんどなく「日本は終わった」と考えられるようになりました。日本人の性格や考え方は依然世界水準からズレていることが指摘され、たしか90年代後半には「ここがヘンだよ日本人」というテレビ番組もありました。

 ところが、2000年代中頃からこの流れが一転します。ネット社会を中心に、東アジア諸国を蔑むような意見が増えだしたと同時に日本人や日本文化をほめたたえる風潮が出てきました。また、日本人を絶賛するものや、外国人が日本人をうらやましく思っていることを取り上げる書籍なども現れるようになり、ネット住民から知識人まで「日本人礼賛」の大合唱が起こりだしました。

 極めつけは東日本大震災でしょう。家屋が破壊され街が崩壊しても住民たちは取り乱すことなくきちんと列をつくり他人を尊重しました。暴力やレイプがまったく起こらなかったわけではありませんが、これほどまで静かに落ち着き地域住民を助け合う姿は外国ではありえないだろうと言われ、この様子が世界に伝えられると日本人を絶賛する声が集まり、また日本人もこれを誇りに感じました。

 その後「おもてなし」という言葉が流行し、コンビニやコーヒーショップまでもが、これでもか、というような笑顔いっぱいの過剰とも呼べる接客サービスをおこない始めます。「おもてなし」が日本の伝統や文化であると感じている若い人も少なくないのではないでしょうか。

 さて、ここで疑問を呈したいと思います。日本人は本当に「思いやり」があるのでしょうか。もちろんどこの国にもいい人もいれば悪い人もいて、個人によるのは事実ですが、国民全体をおしなべてみたときに日本人は思いやりがあると言えるのか。私の答えは「そうは言えない」です。理由を述べます。

 私が研修医の頃、勤務していた病院は脊髄損傷の患者さんをたくさん診ているところで専門病棟もありました。担当の患者さんが複数いたこともあり、私は頻繁にその病棟に行き患者さんから話を聞きました。家族や友達が見舞いに来ているときは、そういった人たちからも話を聞かせてもらい、また長年その病棟で勤務している看護師や薬剤師からもいろんなことを学びました。

 そこで私が気づいたことは「日本人は障がい者に優しくない」ということです。彼(女)らは車椅子で外に出るのにとても苦労すると言います。技術大国の日本は、車いすに乗ったまま運転できる自動車を開発しており、おそらく技術は世界一でしょう。また、最近はバリアフリーの駅やビルがたくさんつくられています。ですが"肝心の"人が優しくないのです。例えば、バリアフリーでないビルの前で呆然としているとき、声をかけてくれる人はほとんどいないそうです。海外ではこのようなことは考えにくく(注1)、これは日本の「悪しき慣習」と言えるのではないか、と私は考えています。

 また、日本を訪れる外国人からも「日本人は冷たい」というセリフを何度も聞いたことがあります。例えば、60代の米国人女性は、駅で重い荷物を運んでいるときに誰も手を差し伸べてくれなかった、と嘆いていました。20代のタイ人女性は妊娠中でバスのステップを上がるのが困難なのに誰も手を貸してくれず、また荷物を棚に上げる手伝いもしてもらえなかったと寂しそうに話していました。彼女らは共に「母国ではこんなこと考えられない」と言います。

 私自身の経験も紹介しておきましょう。2014年8月、頸椎症の手術を受けた数日後、リハビリの一環で病院付近を散歩していた私は自動販売機でジュースを買おうとコインを入れました。ところが首に大きなカラーを付けていた上に腕も自由に動かないためにジュースを取り出すことができません。そのときフランス人の家族づれが近くにいたのですが、両親に促されたわけでもないのに7歳くらいの男の子が私に駆け寄り「May I help you?」と英語で声をかけてくれたのです。さっきまで両親とフランス語を話していたのに、です。おそらくフランス人は、困っている人がいればすぐに近づき手を差し伸べることが「習慣」となっているのでしょう。しかも瞬間的に母国語から英語に切り替えることができるわけです。まだ小学1年生くらいの男の子が、です。ちなみに、このとき日本人の通行人は何人もいましたが私に気を留める人はひとりもいませんでした。

 ただ、日本人をひいき目にみると、他人に手を差し伸べたときに「余計なお世話です。かまわないでください」と言われるのを恐れているのかな、という気がしないでもありません。例えば、電車のなかで高齢者に席を譲ろうと声をかけると、ムッとされて「結構です!」と冷たくあしらわれたという話を何度か聞いたことがあります。私には同じ経験はありませんが、以前東京の山手線で高齢のご婦人に席を譲ると、なんでそこまで...、と思わずにいられないほど深くお辞儀をされ、さらに横にいたご主人にも何度もお礼を言われました。しかも私が電車を降りるときに、再びご夫婦でお辞儀をしてくれたのです。ちなみに、大阪では「おおきに!」と言われてそれで終わりです。

 もしかすると東京では「可能な限り他人と関わらない」が流儀なのかもしれません。ですが、先述した車椅子の話や、米国人とタイ人の話は大阪での話です。地域によって多少の差はあるかもしれませんが、日本全体でみても、海外諸国と比べて日本人が他人に「無関心」なのは間違いなさそうです。

 そして、穿った見方をすると、東日本大震災で被災者の人たちがきちんと列をつくり静かにしていたのも「他人と関わりたくない」ということの裏返しなのかもしれない...、と思えてきます。他人とぶつかることを避け、大人しく目立たないようにすることが習慣化しているから、結果として整然とした列ができたのではないか、他人に迷惑をかけてはいけないという気持ちが強すぎて他人と関わることに恐怖を覚えているのではないか、という気がするのです。

 米国の文化人類学者ルース・ベネディクトは、1946年に上梓した『菊と刀』で日本を「恥の文化」と命名しました。この考えは今も賛否両論ありますが、私個人としては日本人の性質をよく現わしていると考えています。障がい者や困っている人に対する支援という観点でみれば、「恥の文化」があるから車椅子の人を見ても目立つことはしたくないと考え、一方、障がい者の方は、障がいを抱えて迷惑をかけることを一種の「恥」と考えてしまい、たとえ声をかけてくれる人がいたとしても遠慮してしまうのではないでしょうか。

 では、どうすればいいか。日本人のいいところはそのままおいておきながら、困っている人にだけは積極的に関わるようにすればどうでしょう。アメリカ人のように、初対面なのにまるで以前からの友達のように気軽に話しかける必要はありません。私が主張したいのは「障がい者や困っている人がいれば何かを考える前にまず駆け寄る」ということです。

 私は医師という立場上、こういったことをしないわけにはいかない、というか、いつのまにか身体が勝手に動くようになっていましたが、ぜひこれを読まれているすべての人に勧めたいと思います。特に海外でこういう行動をとると「日本人も捨てたものじゃないな」と思われるようになるでしょう。

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注1:最近、乙武洋匡氏がこのことについて興味深いコラムを書いています。ロンドンの駅で立ち往生したとき、通行人が集まって来て車椅子を運んでくれたというのです。是非下記を参照ください。

『クーリエジャポン』2017年10月2日号「乙武洋匡・世界へ行く|ロンドンで感じた心のバリアフリー」