マンスリーレポート

2018年9月 人生を逆算するということ

 12年近く続いた「午前10時から診察開始」いう習慣が「11時から」に変わって10日ほど経過しました。幸いなことに、今のところ患者さんには理解をしてもらっていて特に大きなトラブルもなく診察ができています。前回のコラムで述べたように、私の出勤時間はこれまで通り6時45分とし、電話を取り始める午前8時までを自分の貴重な勉強時間として使っています。

 これまでは生活にまったく余裕がなく、勉強時間が捻出できないのが悩みでしたが、これからは貴重な1時間を使ってたくさんの論文を読んで(たまには書いて)有意義に過ごすつもりです。

 改めて「時間の使い方」を考えてみると、限られた残りの人生の時間をどう使うべきかという問題に直面します。診療に費やせる時間は、仮にあと10年間がんばれたとすると、だいたい月に20日診療をしていて1日平均患者数が70人とした場合、1カ月で1,400人、1年で16,800人、10年で168,000人となります。こう考えるとものすごく多いような気もしますが1年たてば1割減るわけです。月並みな言い方になりますが、一日一日を大切にし、一人一人の患者さんをじっくり診察しなければ、という気持ちになります。

 このように私は以前から、「この環境はあと〇年(△ヶ月)しか続かない。"卒業"までにしなければならないことがすべてできるか」と自分に問う「習慣」があります。この習慣は「自分を律する」という意味でとても有効なものだと思っています。そこで今回は(「余計なお世話だ」と感じる人もいるかもしれませんが)私のこの習慣を紹介します。

 ただし、最初に断っておくと、「自分を律する」を常に実践しているつもりですが、私の人生は計画通りに進んでいません。そして、50歳の誕生日を迎える前に気付いたひとつの「真実」があります。それは、「人生は思い通りにはいかない」ということです。

 人生は自分の思うようにはならずたいていは冷たいものです。そして、計画通りに事は運びません。私の人生など思い通りに進んだ試しがありません。職業にしても、過去に何度か述べたように自分が医師になるなどとは微塵も思っていませんでした。私が医師を真剣に目指しだしたのは医学部の4回生になってからです。そして、医師になった今も、この職業でよかったのか、自分に向いているのか、といったことに答えが出ていません。

 しかしながら、かといって「成り行きまかせだけの人生」には私は反対です。なぜなら、これは私見ですが「生涯を通して努力を続けなければならない」と考えているからです。「努力」というのは常にしんどさが伴います。ですが、たいていはその努力を終えた後は「やって良かった」と毎回感じるわけで、「初めから努力しなければよかった」と思うことはほとんどありません。これはその努力が結果につながらなかったときも、です。

 分かりやすい例をあげましょう。例えばあなたが「1年間勉強して医学部合格を目指す」と考えたとしましょう。その場合、基礎学力にもよりますが、医学部受験にはそれなりの努力が必要になります。そして1年間努力を続け、その結果、不合格だったとして、この努力はムダになるでしょうか。それは、努力と結果の程度によります。もしもあと一歩のところで合格に及ばず、そして翌年に合格したとすれば、もちろん(1年目の)その努力に価値があったわけです。

 では、努力したものの合格点には到底及ばず夢を諦めざるをえなくなった場合はどのように考えればいいのでしょう。この場合は、「その努力が充分であったかどうか、つまり精一杯努力したかどうか」を考えます。もしも「充分」であったなら、まず自分の実力を自分自身が客観的に評価できたという意味でやはり価値はあったのです。「努力しても到達できないことがはっきりした」ことを認識するのに意味があります。

 私自身も、過去に述べたことがあるように、研究者にはセンスも能力もないことを自覚してやめましたし、フランス語(以下仏語)にも挫折しました。私は医学の研究がしたくて医学部に入学し一生懸命に本や論文を読み、医学部のカリキュラムにある実験も積極的に取り組みました。ですが、あるときに「自分には無理」と納得せざるを得ませんでした。仏語にしても、医学部1回生のときに私が最も時間をかけて勉強した科目なのです。そして、あるとき「No Way!」(仏語ではなく英語で)と一人で大声をだして匙を投げました。医学の研究も仏語も、あっさりと諦められたのはなぜか。それはそれまで「精一杯努力をしていたから」です。もしも私の努力が中途半端なら、もっとやればできるかも......、といった甘い期待を捨てきれなかったかもしれません。

 では、努力は具体的にどのようなことをすればいいのでしょうか。これを考える上でのキーポイントが「逆算」です。今の例でいえば、私は「研究」については、医学部4回生のときまでに基礎の基礎をマスターすることを考えました。ですが、いつまでたっても劣等生のままであることに気づき「期限切れ」であることを認めました。仏語についてはほぼ1年間必死でおこないましたが、英語で言えば中1の二学期レベルくらいのあたりから伸びませんでした。私の目標は「1年で簡単な仏語の本を読む」でしたから、これでは人生500年あっても足りない、と考えて諦めました。

 逆算の「究極のかたち」は何でしょうか。それは「自分が死ぬ時からの逆算」です。そしてこのことに私が気づいた、というか教えてもらったのは、このサイトでも何度か紹介した『7つの習慣』です。同書の「第2の習慣」が書かれている章の冒頭に、自分が愛する人の葬式に行くと死んでいたのは自分自身だった、という逸話が紹介されています。これは、自分の葬式にはどんな人に来てほしいか、どんな言葉を述べてほしいかを常日頃から考える習慣を身につけなさい、というエピソードです。これを実践すると、では向こう30年間で誰とどのような時間を過ごし、どのような努力をすべきなのかをイメージすることができます。それができれば、10年後、5年後、3年後、1年後、1カ月後...、そして今日中にすべきこと、がイメージできるようになります。

 どのような葬式にするかは別にして、あなたが死んだときにあなたとの思い出をなつかしんでくれる人や、あなたが努力してきたことを認めてくれる人、さらにあなたに感謝の言葉をかけてくれるような人がいれば、あなたの人生は幸せだったと言えるのではないでしょうか。

 自身の最期までにすべきことは? 30年後に達成していたいことは? 1年後は?......、と考えれば自ずと重要なことがみえてきます。それは「時間をムダにしてはいけない」ということです。若い頃なら少々ムダな時を過ごしてもいいでしょうが、年齢を重ねるにつれて時間はとても貴重なものになってきます。年をとるほど時間がたつのを早く感じるのは万人共通でしょう。

 ただ、この「究極の人生の逆算」にはひとつ問題があります。それば「自分がいつ死ぬかが分からない」ということです。人生はいつも計画どおりに進まないのです。いつ寿命が尽きるのか、そして死因は何なのかが分かれば計画が立てやすいのに......、という考えても仕方のないことに私は今も思いを巡らすことがあるのですが結論はいつも同じです。それは「明日死ぬかもしれない。それでも後悔のない生き方をするにはどうすればいいのか。それは今日という一日をムダにしないことだ」というものです。

 こういったことを考えながら、私は毎朝7時からの1時間、勉強に勤しんでいるというわけです。