マンスリーレポート

2022年5月 「社会のため」が偽善かどうかを見抜く鍵は「順番」

 前回のマンスリーレポートで私は、あさま山荘事件、さらにはオウム真理教も引き合いに出し、「社会のため」などと宣う者は、本当は社会や他人のことを考えているわけではなく、自分自身の強すぎる承認欲求を美辞麗句でカモフラージュしている偽善者ではないか、という私見を述べました。

 さらには、そういった罪を犯した者だけではなく、「社会のため」などという言葉を気軽に口にする政治家、経営者、あるいは医師たちも、本心でないきれいごとを言っているにすぎず、大半は偽善者ではないかという意見も付記しました。

 社会のため、あるいは、世のため人のため、といった言葉に嫌悪感を抱くのは私だけでしょうか。世の中の多くの人は、そういう言葉を聞いて「この人は立派だ」と思うのでしょうか。

 幸福学研究者の前野隆司さんの生い立ちを2022年4月11日の日経新聞が記事にしています。そのまま転記します。
 
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人の役に立ちたいという気持ちは持っていました。中学1年のとき、友達に「皆の役に立つために医者になりたい」と話すと、思わぬ反応が返ってきました。きれい事を言うやつとみなされ、「偽善者」とあだ名をつけられたのです。
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 その時代の前野隆司さんを私は存じ上げませんが(お会いしたことはなく今もよく存じませんが)、前野さんが幼少時からどれだけ人格者であったとしても「皆の役に立つために医者になりたい」という表現をとれば、やはり周囲からはいいようには思われないのではないでしょうか。

 では、すべての中学1年生が「将来は医者になりたい」と言って非難されるのかといえば、そういうわけではありません。前野さんのように偽善者と言われてしまう生徒と、そうは言われず、むしろ周囲から応援される生徒にはどのような違いがあるのでしょうか。

 私は20代前半の頃から稲盛和夫さんのファンで著作はほとんどすべて読んでいます。このサイトの過去のコラム「メディカルエッセイ第86回(2010年3月)動機善なりや、私心なかりしか」でも取り上げたことがあります。

 稲盛さんは、DDI(現在のKDDI)を設立されるとき次のような自問をされました。

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 私は自分の本心を確かめるため、毎晩ベッドに入る前に、「動機善なりや、私心なかりしか」と心の中で問いかけることにした。「世間に自分をよく見せたいというスタンドプレーではないか」、(中略)毎日自問自答を繰り返した結果、世のため人のために尽くしたいという純粋な志が微動だにしないことを確かめた私は、この事業に乗り出す決心をした。(『稲盛和夫のガキの自叙伝』日経ビジネス人文庫)
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 稲盛さんが自問された「世のため人のため......」という言葉に対して「偽善者」と言う人はいないでしょう。中学生時代の前野さんとはどこが違うのでしょうか。

 もう1つ例を挙げましょう。東日本大震災が起こってしばらくしてからのある日、谷口医院をかかりつけ医にしている40代のある男性が受診しました。精神的に不安定な男性で、谷口医院を受診している理由も精神疾患が中心です。仕事には就いておらず生活保護を受給しています。その男性が言ったのが次の言葉です。

 「震災の被害者たちが困ってるのに日本政府は何もしない。僕はさっき2万円寄付してきました。こんな国には希望が持てませんからこれからも毎月2万円の寄付をします」

 男性は少しテンションが上がって興奮気味です。いかにも「いいことをしたでしょ」と言わんばかりの勢いです。この男性、偽善者ではないでしょうし、"いいこと"をしたのは事実でしょうが、生活保護を受給しているこの男性のこの言葉を万人が賞賛するわけではないでしょう。

 では、同じように見ず知らずの人のために尽力したいと考えた稲盛さんの言葉が美しいのに対して、生活保護を受給している男性の言葉が空しく聞こえるのはどこに違いがあるのでしょうか。

 私の答えは「順番」です。稲盛さんはカネもコネもほとんどないなかで京セラを立ち上げ、大きくし、社員を守りながら(京セラが従業員を大切にするのは有名)、その上で当時電話を独占支配していたNTTに立ち向かったのです。

 一方、生活保護受給の男性の発言を我々が素直に賞賛できないのは、「国を批判する前に、生活保護をもらっている自分のことを考えたら?」という気持ちが拭えないからです。

 では、前半で紹介した前野隆司さんの場合はどう考えればいいのでしょうか。おそらく周囲の生徒たちからは、「そんな大それたことを宣う前に、両親など自分がお世話になった人たちを幸せにしろよ」と思われたのではないでしょうか。あるいは、例えばクラスに障がい者がいたのならば、「皆の役に、などと言う前に近くにいる苦しんでいる仲間を助けることを考えろよ」との思いがあったのかもしれません。

 最近、何かの熱に受かされたように「ウクライナ人を助けよう!」と言い出している人たちに私が辟易としているのも同じ理由です。ウクライナの人たちが見聞きするのに耐えられないような状況に追い込まれているのは事実ですから「力になれることは何でもしたい」と考えることは理解できます。ですが、それならば、凄惨な事態となっているミャンマーにはなぜ見向きもしないのでしょうか。行き場をなくしたロヒンギャ難民のことはどう考えているのでしょうか。

 私がヨーロッパ人だとすればミャンマーよりもウクライナ人の力になろうと考えます。しかし私は日本人ですから、ミャンマー人には何もせずにウクライナ人を助けたいとは思えないのです。

 「ミャンマー(やロヒンギャ)について、メディアではウクライナほどの報道をしないからよく分からなかった。私はウクライナ人が悲惨な状態になっていることを知って純粋な気持ちから助けたいと思っただけ」という人も少なくないでしょう。ですが、それならば、「同じアジアの自分たちを無視して欧州人を優先する日本人」をミャンマーの人たちはどう感じるかについて、改めて思いを巡らせてほしいのです。

 そろそろ私見をまとめたいと思います。まず、「社会のため」「世のため人のため」などという言葉は安易に口にすべきではありません。そういったことを考えるのは自由ですが、言葉にするならば「それを言う資格があるか」を考えるべきです。

 「社会のため」よりも大切なのは「自分の身近な人たちのため」です。自分の周囲の人を蔑ろにして、あるいは自分自身が自律(自立ではない)できていないときに「社会のため」などと言い出しても、それは偽善にしか聞こえないのです。

 こう考えれば、あさま山荘事件の革命戦士たちも、オウム真理教の幹部たちも、あるいは実績が伴っていないのに「社会のため」などと宣う政治家たちも、その主張に説得力がない理由が見えてくるのではないでしょうか。

 コロナ流行以降、私が医師に幻滅しているのも、日ごろ診ている患者さんが発熱などで苦しんでいたときに「うちでは診られないから自分で受診先を探せ」と言って見放した医者があまりにも多かったからです。そのような医者には金輪際「患者さんのため」という言葉を使ってほしくありません。