マンスリーレポート

2022年6月 「若者の命」を考えれば戦争は防げるか

 戦争ほど愚かなことはない、と当たり前のように学んできました。人類の歴史は戦争の歴史でもあるわけですが、それでも2つの原爆を落とされ、300万人以上が犠牲になった太平洋戦争を経験した日本人は二度と戦争をしないと子供の頃から言い聞かされてきました。

 戦争をしかけるのが罪だというのなら、当時日本のために頑張った日本の軍人は犯罪者なのかと問うてみると、「それは時代を考えると仕方がない」というような答えが必ず返ってきました。では、「次に戦争が起これば自衛隊員は犯罪者になるのか」という質問に対してはどうでしょう。「日本は戦争をしない......」と苦し紛れに誰かが言っていたような気がします。

 太平洋戦争の空襲や原爆のフィルムを何度か見ましたが、直接人が人を殺すシーンを見たことはありません。私の幼少時にはまだ続いていたベトナム戦争でも殺戮シーンを見たことはありません。ソ連がアフガニスタンに侵攻したアフガニスタン紛争は私が小学校5、6年生のときでしたからニュースでみた記憶はありますが、人が直接人を殺めるようなシーンは見ていません。

 1990年の湾岸戦争も空爆シーンは何度もテレビで見ましたがやはり人が人を殺すような映像はありませんでした。1994年のルワンダでのフツ族がツチ族を大量虐殺した事件は想像するのも苦痛ですが、直接現場を知っているわけではありません。

 その他、物心がついてからリアルタイムで報道されていた戦争はいくつかありますが、ある人間が目の前の人間を銃やナイフで次々と殺害するシーンは直接見たことはありませんでした。そういうシーンを想像できるのは、映画やテレビでそのようなシーンに見覚えがあるからです。

 ところが、2022年2月にロシアの一方的な侵攻で勃発したウクライナ戦争ではスマホとSNSのおかげで、死体の写真や人が人を殺害する瞬間のビデオなどが世界中に広く拡散しています。欧米の大手メディアもこのような映像を紹介していますから、殺害シーンがどうしても目に入ってしまいます。映像をみればあきらかなように、戦争の犠牲になっているのはほとんどが若者です。

 最近の米国をみてみましょう。2022年5月14日はニューヨーク州バッファローのスーパーマーケットで、その10日後の24日には米国テキサス州ユバルディの小学校で、いずれも18歳の青年による銃乱射事件が起こり、ニューヨークでは10人、テキサスでは21人(うち19人は児童)が犠牲となりました。6月1日には、医師の治療に満足できなかった男性がクラホマ州タルサでの病院の敷地内で銃を乱射し4人が死亡し自身は自殺しました。報道によると、この事件は今年(2022年)米国で起こった233番目の銃乱射事件になるそうです。

 このように戦争や無差別事件が頻繁に起こっているのが人類の歴史であることを考えると、人が人を殺すことはそう難しくないのかもしれないと思えてきます。平和な日本で育った我々は、まさか生涯のうちに自分が人を殺すことがあると考えている人は(たぶん)ほとんどいないと思いますが、状況が変わればまた我々の考え方も変わるのかもしれません。

 2022年4月のマンスリーレポート「「社会のため」なんてほとんどが偽善では?」では、あさま山荘事件を取り上げ、左翼(赤軍派と革命左派からなる連合赤軍)による集団リンチ殺人について述べました。この事件が起こったのは1972年2月で、その3か月後の5月30日にはイスラエルで「テルアビブ空港乱射事件」が起こりました。

 テルアビブ空港で起こった銃乱射事件は合計26人の命を奪いました。犯人は3人の日本人です。(後に日本赤軍となる)犯人らの目的は「革命のため」ということなのでしょうが、それにしてもイスラエルとパレスチナの紛争になぜ日本人が加担できたのか、しかも何の罪もないイスラエルの人々をなぜ無差別に殺すことができたのか私には謎です。しかも、「左翼」というのはどちらかというと武力に訴えることを避ける思想を持っていたのではなかったでしょうか。あさま山荘事件の集団リンチと同様、左翼の輩の方が右翼的な思想よりもはるかに暴力的で危険です。

 つまり、(右であろうが左であろうが)人間の社会ではいつ戦争が始まるか分からず、同じ民族であろうが、隣人であろうが平気で人を殺すことができ、銃を使って一気に見知らぬ人を犠牲にすることもできるのが人間の真実なのかもしれません。

 では、私にもそのときが来れば人を殺すことができるのでしょうか......。できません。たとえ、そのような状況になれば他人を殺すことができるのが人間の性(さが)であったとしても私にはできません。それはなぜなのか。おそらく、これまで医師として、人の、特に若い人の死をみてきたからです。病気で、事故で、若い生命を救えなかったことは日本の病院でも経験していますが、私の場合は2002年及び2004~5年にかけて赴いたタイのエイズ施設でみてきた「死」に多大な影響を受けています。当時のタイではまだ抗HIV薬が充分に使えずに、HIV感染は「死へのモラトリウム」を意味していました。そして、実際、若い命が毎日のように奪われていたのです。

 高齢者にも自分の運命を受け入れることができない患者さんがいますが、私の経験でいえば、若くしてエイズを発症し末期になった人の多くは死を受容できていませんでした。自力での水分摂取も困難となり、もうあと一日もつかどうかわからないといった段階になってもそれでもなお死を受け入れられず「助けて......」とか細い声で私の腕に触れようとする患者さんもたくさんいました。

 「命は平等」という言葉がありますが、私はそうは考えていません。私には高齢者の命よりも若者の命の方が大切に感じられます。さらに、誤解を恐れずにいえば、物心がまだついていない赤ちゃんよりも自我を認識できるようになった年齢の若者の命の方が大切です。若者の命が簡単に失われるようなことはあってはならないのです。

 だから、戦争をすることや、人が人を殺すことが人間の性(さが)だとしても、私にはまだそれを阻止する方法が残っていると信じています。その方法とは、世界中で徹底的に「若者の死」についての教育をおこなうことです。

 現在ロシアはウクライナをネオナチになぞらえて国民を洗脳していると言われています。ロシア軍はネオナチに迫害されているウクライナの民間人を救うために戦っているんだと国民に納得させれば国民の支持が得られると考えているのでしょう。戦争には大義名分が必要なのです。しかし、「戦争とは若者を容赦なく殺害すること」であることを再認識すればそのような洗脳には騙されなくならないでしょうか。

 ウクライナ側からみたときも、攻めてくるロシア兵を殺せるだけ殺すのではなく、白旗を挙げ降参している敵兵の命は守ることを考えるべきです。もしも私がロシアかウクライナで医師をしているとすれば、戦争は若者の命を奪うことであることを両国の国民に訴えかけます。私は戦争を阻止するキーパーソンは医療者ではないかと考えています。医師だけが命の大切さを知っているわけではありませんが、医師は若者の不遇な死を繰り返し経験しているからです。

 けれども、この私の主張には説得力がないかもしれません。先述したテルアビブ空港乱射事件の主犯格の奥平剛士の(戸籍上)の妻は最近刑期満了で出所した重信房子です。重信の帰国後の潜伏を手助けしていた一人は若い頃に学生運動に傾倒していた医師です。この医師は重信の秘匿の罪で医師免許を剥奪されましたが、その後再び医師免許を取得し(おそらく現在も)医療を続けています。戦時下の九大医学部の医師たちは生きた若い米兵を実験の材料にしました。満州では731部隊が捕虜の中国人やロシア人の若い男女に想像を絶するような人体実験を繰り返し、最大では3千人以上の命を奪ったと言われています。

 こういった事件を考えると、医師だから若い命の大切さを知っているなどと主張すれば噴飯ものだと言われるかもしれません。ですが、それでも「若い命は大切だ」と私は言い続けるつもりです。