はやりの病気

第240回(2023年8月) 「自然光」と「公園」が"抗うつ薬"になる

 旧・谷口医院(太融寺町谷口医院)では2021年1月より、何の予告も挨拶もなく突然入居した階上キックボクシングジムの振動に苦しめられてきました。突然の振動に小さな悲鳴を上げ、身体を震わせる患者さんを前にし、我々医療者はいつ針刺し事故を起こしてもおかしくない環境を強いられ、私自身が精神的に次第に病んでいきました。裁判自体は「振動」の測定データのある谷口医院が有利でしたが、「もうこれ以上事故を起こすリスクを背負えない」と判断し、また、さんざん探した移転先が見つからなかったためにやむを得ず「閉院」を決めそれを公表しました。

 ところが予想をはるかに超えた「閉院は困る」という声が届き、最終的には谷口医院に長年通院されている不動産会社の社長から現在の物件を紹介してもらい移転できることになった、という話は随所でしました。

 2年7か月ぶりに「振動のない部屋」で仕事をするのは思いのほか快適です。旧・谷口医院ではたとえしばらく静かだったとしても突然ハンマーを落とされたような激しい振動を起こされ、壁や天井が揺れるなかで恐怖に耐えねばならなかったわけですからやはりあの環境は異常でした。その異常な環境に2年7ヶ月も苦しめられ、そしてようやく解放されたのですから快適なのは当然です。

 それに、苦しくて恐怖感が消えなかったのは振動だけが原因ではありません。ジムの社長は一度会っただけでは顔を覚えられないような地味な風貌をしているのですが、話がまるで噛み合わず、対面時にはTシャツ、短パン、ビーチサンダルという恰好でやって来て「何か文句あんのか?」という態度。何を言ってもヘラヘラしているだけで、コミュニケーションが一切とれないのです。家主が何か対策をとってくれるのかと思いきや、振動で診察が続けられないことを伝えると「家賃を倍にする」と言われ、そんな無茶苦茶な欲求が認められないことを裁判で告げられると、今度は「谷口医院がビルを不法占拠している」と言いだして谷口医院を訴えてきたのです。

 このようなキックボクシングジムと家主から患者さんとスタッフを守らねばならないわけで、今から振り返れば「よく神経がもったな」と思わざるを得ません。おそらくあのまま続けていればいずれ私の精神が破綻したでしょう。この2年7ヶ月は間違いなく私のこれまでの人生の最悪期でした。その地獄のような生活から解放されたのですから、現在は天国にいるようなものです。

 しかし、8月14日から診察を開始し数日がたったとき、はたしてこんなにも気持ちがいいのはそれだけなのかと、ふと疑問が湧いてきました。なぜなら、「振動」から解放されたことで快適なのであれば、それはどこにいても同じように快適であるはずだからです。

 しかし、実際に快適で気分が安定するのは新しい谷口医院に出勤したとき、なのです。自宅よりも職場にいるときに快適なのは、私が「仕事人間」の証ということなのでしょうか。初めはそうかな、と考えていたのですが、そのうちに妙なことに気付きました。出勤の際、遠回りしたくなるのです。帰り道に寄り道をする人は大勢いるでしょう。ですが、朝の慌ただしい時間にわざわざ遠回りして出勤する人がいるでしょうか。

 もっとも、私の場合、朝の7時前後に出勤していますからかなり時間の余裕はあります。しかし、それにしても旧・谷口医院に用事もないのに遠回りして出勤したことなどただの一度もありません。

 では、なぜ私は新・谷口医院にはわざわざ遠回りして出勤するのか。おそらく公園の横を歩きたい、あるいは公園を横切りたいからです。ただし、私が遠回りしたくなるのは晴れた日だけです。ということは朝の光が心地いいということなのでしょう。

 新・谷口医院に到着し診察室に入ると、まず私は窓から外の景色を眺めます。特に特徴のある景色があるわけではなく、クリニックに面した道路の向こう側はマンションですから、他人の部屋の窓が見えるだけできれいな景色ではありません。しかし、窓は南側にありますから、季節にもよるのでしょうが、窓から差し込む光がなんとも言えない平和的な気分にさせてくれるのです。

 こうなると「理屈」が欲しくなるのが私のクセです。もともと私は冬に抑うつ感が生じて春に解消されます。自分は「冬季うつ病」ではないかと疑ったこともあり勤務医時代の2005年にコラムを書きました。そこで、自然光が人を幸せにすることを示した研究がないかどうかを調べてみました。最初に見つかったのが「毎日の太陽光はあなたを幸せにするか? 幸福と天気の主観的な尺度(Does Daily Sunshine Make You Happy? Subjective Measures of Well-Being and the Weather)」で、研究規模が比較的大きいですし、タイトルから期待できそうだと考えたのですが、結局「自然光と幸福感の関係ははっきりしない」が結論でした。

 もう少し調べると、一流誌「The LANCET」の2002年12月7日号に「脳内セロトニン代謝に対する太陽光と季節の影響(Effect of sunlight and season on serotonin turnover in the brain)」という論文が見つかりました。脳内でセロトニンが生成される速度は、日光にあたる時間に関係していて、明るさが増すと速度が急速に上がるそうです。「セロトニン=幸せホルモン」と単純化することに私は反対の立場ですが、とは言え私が晴れた日の朝に得ている幸せ感は朝の光で脳内に生成されたセロトニンのおかげかもしれません。

 もうひとつ興味深い論文が見つかりました。医学誌「Building and Environment」2022年9月号に掲載された「家屋内での露光による幸福: 居住空間における幸福の認知と悲しみに対する自然光の影響(Enlightening wellbeing in the home: The impact of natural light design on perceived happiness and sadness in residential spaces)」です。

 この研究が面白いのでちょっと詳しく紹介しましょう。研究に参加したのは750人。様々な部屋のシュミレーション画像を見てもらい幸せ感または寂寥感を評価してもらっています(シュミレーション画像の写真は論文に掲載されていますので是非見てみてください)。その結果、室内に差し込む自然光の量が多いほど、参加者はより強い幸福を感じることが分かったのです。そして、冬よりも夏の方がより強い幸福を感じるようです。窓の大きさも幸福感の因子になっているようで、壁に対する窓の割合が40%のときに最も幸せ感が強いそうです。参加者の年齢・性別も関与するようで、30歳未満の若者と女性はより強い影響を受けます。

 偶然にも、私がいつも仕事をしている診察室の窓は壁のだいたい40%を占めています。窓は南向きのため早朝から夕方まで光が入ってきます。ということは、計らずも私は最適の環境を手に入れたということになるのかもしれません。

 ところで私が寄り道をして通っている公園には晴れの日以外は行かないとはいえ「緑」という健康によさそうなものがあります。公園の横にあるマンションは家賃が高いと聞いたことがありますが、公園が健康に良いとする科学的なエビデンスはあるのでしょうか。

 ありました。医学誌「International Journal of Environmental Research and Public Health」2014年3月号に掲載された論文「近くの緑地訪問と精神的健康: ウィスコンシン州の健康調査からのエビデンス(Exposure to Neighborhood Green Space and Mental Health: Evidence from the Survey of the Health of Wisconsin)」です。この研究によれば、近隣の緑地のレベルが高いほど、うつ病、不安、ストレス症状のレベルが有意に低いことがわかりました。

 さらに興味深い研究が見つかりました。医学誌「People and Nature」2019年8月19日号に掲載された論文「都市の緑地を訪れた人は、Twitter上での感情が高まり、否定的な言葉が少なくなる(Visitors to urban greenspace have higher sentiment and lower negativity on Twitter)」です。人々が公園に訪問前、訪問中、訪問後にどのようなツイートをするかが調べられました。結果、公園訪問中のツイートは感情が(いい意味で)高ぶり、その後数時間はその感情が持続したことが分かったのです。

 どうやら現在の私が快適な日々を過ごすことができるのは、キックボクシングジムが巻き散らす振動から解放されたことだけでなく、公園が近くにあって自然光が差し込む部屋で仕事ができるという非常に恵まれた環境のおかげのようです。上述したように、我々にこの物件を紹介し「閉院」の危機から救ってくれたのは不動産会社を経営している谷口医院の患者さんです。本当にありがたい話です。