はやりの病気

第101回(2012年1月) 増加する炎症性腸疾患

 2007年9月に安倍晋三首相が突然辞任を表明したとき、その理由が健康問題であると発表されました。発表された当事、その病気の名前が「機能性胃腸症」と報道され、野党からだけでなく与党からも「無責任だ」「国民に失礼だ」などという声が上がり、また機能性胃腸症はストレスで発症することから、マスコミの報道も「一国の首相たるものがストレスに負けてどうするのだ」という大変厳しいものが目立ちました。さらに海外のメディアも「安部首相は強いプレッシャーでストレスが大きくなり・・・」、という報道をおこなっていました。

 しかし、安倍氏の本当の病気は機能性胃腸症ではありませんでした。首相が入れ替わり少し落ち着いた頃、月刊誌『文芸春秋』2008年1月号に安倍氏は手記を寄せ、そこで自身が長年患っていた病気の告白をおこなっています。

 一国の首相を退陣にまで追い込んだその病気とは「潰瘍性大腸炎」です。

 潰瘍性大腸炎とは、大腸に慢性的に広範囲に炎症が広がる疾患で、厚生労働省から難病(正確には「特定疾患治療研究事業対象疾患」といいます)に指定されています。その原因は現在でも不明なのですが、年々患者数は増加しており、現在(2012年現在)日本中で11万人以上の人が登録されています。毎年およそ8千人が新たに罹患していると言われています。

 そして、増加しているのは日本だけではありません。医学誌『Gastroenterology』2012年1月号に掲載された論文(注)で報告されています。

 潰瘍性大腸炎と似ている病気に「クローン病」というものがあります。クローン病も潰瘍性大腸炎と同様、原因不明の慢性疾患でやはり厚労省から難病指定されています。罹患者が年々増加していることも潰瘍性大腸炎とよく似ていますが、患者総数は潰瘍性大腸炎より少なく、現在全国で登録されているのはおよそ3万人で、毎年新たに罹患しているのは1,500人前後です。

 そして、潰瘍性大腸炎とクローン病の2つを合わせて「炎症性腸疾患(inflammatory bowel disease、IBD)」と呼びます。

 先に紹介した論文によりますと、欧米など先進国で炎症性腸疾患が顕著に増加しています。地域差があり、人口10万人あたりの潰瘍性大腸炎の発生率(annual incidence)は、ヨーロッパで24.3例、北米では19.2例、アジア・中東では6.3例となっています。クローン病については、ヨーロッパで12.7例、北米で20.2例、アジア・中東では5.0例とされています。

 炎症性腸疾患は、これまで発展途上国では少ないと言われており、今回の研究でもそれが裏付けられたようなかたちになっていますが、工業化が進むにつれて発生率が増加していることに研究者は注目しています。

 潰瘍性大腸炎、クローン病のいずれも20~40歳くらいでの発生率が高くなっています。これはまさに「働き盛り」の年齢であり、社会的なコスト負担(医療費だけでなくその人が働けなくなることにより生じる損失も含めて考えます)は相当なものになります。

 炎症性腸疾患はいずれも「難病」に指定されるくらいですから、(軽症例もないわけではありませんが)社会生活に支障がでるほどの症状がでます。主症状は腹痛、下痢(ときに血便を伴います)で、1日に何度もトイレに駆け込むことも多く、また症状は突然起こることもあり外出が妨げられます。ある程度重症化すると入院を余儀なくされます。

 安倍氏が辞意を表明したときは症状がかなり重症化していたものと思われます。潰瘍性大腸炎という病名の公表を避けたのは、社会の混乱を防ぐことと、他の罹患者が社会的不利益を被らないように配慮されてのことではないか、と私は考えています。もしも潰瘍性大腸炎という病名が一人歩きすれば、軽症の人も含めて、例えば退職を余儀なくされる、内定が取り消される、婚約を解消される、などということが起こったかもしれません。「無責任だ」「国民に失礼だ」などと言って安倍氏を激しく非難した与野党の議員やマスコミは、後になり恥ずかしい思いをしたのではないでしょうか。(私は安倍氏を政治的に支持しているわけではありませんが、首相という公的な立場であっても難病を患っている人に対していい加減な報道やコメントをおこなうマスコミは許せません)

 ここで2つの炎症性疾患についてもう少し詳しくみてみましょう。2つとも初めは単なる下痢や腹痛を訴えて医療機関を受診しますが、治りにくいことや血便を伴うことから、精密検査をおこなうこととなります。血液検査でもいくらかの異常がでることがありますが、確定には内視鏡(大腸ファイバー)が必要になります。内視鏡で直接大腸の粘膜病変を観察し、一部組織を採取して病理検査(顕微鏡でどのような細胞が観察されるかを調べます)をおこなって確定とします。

 2つの疾患は似ているのですが、潰瘍性大腸炎は病変が大腸だけにとどまるのに対し、クローン病は口腔から肛門まで消化管全体に及ぶこともあります。2つとも重症化すれば、皮膚や関節、目にも病変が生じることがあります。

 治療は重症化すれば手術になることもありますが、基本的には内服薬を使います。従来はステロイドが中心でしたが、最近では生物学的製剤といって免疫系に作用する薬が用いられるようになってきました。潰瘍性大腸炎もクローン病も原因不明ではありますが、免疫系の異常であることが判っているからです。また、日頃の食事内容も重要です。あぶらっこいものを食べれば症状が一気に増悪し、食事内容が大きく制限されることもあります。

 若い世代に起こりやすいのは先に述べたとおりですが、潰瘍性大腸炎が男女比ほぼ1:1なのに対し、クローン病は2:1と男性に多いという違いがあります。また、クローン病は喫煙者に発症しやすいのに対し、潰瘍性大腸炎は「喫煙者に発症しにくい」と言われています。しかし、潰瘍性大腸炎の予防にタバコを吸うなどというのはまったくナンセンスなことですし、治療でタバコを吸うなどというのも(かつてはおこなわれていたこともあったようですが)勧められるものではありません。

 炎症性腸疾患は日本を含む先進国で増加傾向にあり、治療には長期間かかり、ときに手術も必要になる重要な疾患ですが、我々は長引く下痢や腹痛があればまっさきにこれらを疑うわけではありません。腹痛と下痢で受診される患者さんの大半は「過敏性腸症候群」といってストレスから下痢(ときに便秘)がおこる疾患です。この疾患は非常に多く太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)にも大勢の患者さんが受診されています。また、安倍氏の病気として当初発表された「機能性胃腸炎」もありふれたものですし(「機能性胃腸炎」の腸症状だけが出現したものが「過敏性腸症候群」といえることもあります)、単純な一次的な下痢(辛いものを食べたときなど)ということもよくあります。季節によってはノロウイルスなどによる感染性胃腸炎も少なくありません。また、谷口医院でも年に数例はアメーバ赤痢が検出されます。アメーバ赤痢は教科書には「男性同性愛者に多い」と書かれていますが、私の印象ではそのようなことはなく男女ともにおこりえます。また薬が原因になっている下痢も少なくありません。谷口医院の例で言えば、ある種の胃薬と鎮痛剤が原因となっている下痢が多いといえます。

 炎症性腸疾患は「難病」に指定されているくらいですから、ありふれた病気というわけではありませんが、適切な治療をしなければ日常生活が制限されることもありますし、ときに手術にいたることもあります。たかが下痢と放っておかずに、長引いているようならかかりつけ医に相談するようにしましょう。


参考:はやりの病気第49回 「ストレスと機能性胃腸症」

注:この論文のタイトルは「Postoperative Complications and Mortality Following Colectomy for Ulcerative Colitis」で、下記のURLで概要を読むことができます。

http://www.gastrojournal.org/article/S0016-5085%2811%2901378-3/abstract