はやりの病気

第72回 新型インフルエンザの対策は充分か 2009/8/22

お盆明けの8月17日の深夜、私の携帯電話に見慣れない番号が表示されました。66で始まる番号はタイからです。私はNPO法人GINA(ジーナ)の関連でタイからの電話をとることが多いのですが、この番号には見覚えがありません。

 声を聞いてもすぐには誰かが分かりませんが、確かに聞き覚えのある声です。タイ語のなかにときおりタイ語風の発音の英語が混じったこの独特の表現・・・。しばらくして、その声の主がグルーアイ(仮名)であることが分かりました。グルーアイは、数年前に私がタイに出張中に宿泊していたホテルのルームメイクの仕事をしていました。トイレの水が流れないからなんとかしてほしい、という私の依頼を一生懸命に聞いてくれたことから仲良くなり、その後何度か電話で話すような関係ではありましたが、ここ2年程は音沙汰がありませんでした。

 彼女は、今はイサーン地方(タイの東北地方)の実家に帰り、両親と2人の子供と一緒に暮らしていると言います。しかし、グルーアイはそのようなことを私に報告したくて電話してきたわけではありませんでした。同じ村の中学生の女の子が突然死んだというのです。そして、その原因が「カイ・ワット・メキシコー」だと言います。

 つまり、新型インフルエンザでこの前まで元気だった近所の女の子が死んじゃった、この病気は今タイで急速に広がっている、自分や自分の家族が感染しないためにはどうしたらいいのか教えてほしい・・・。これが、彼女が私に電話をしてきた理由でした。

 タイでは先月(2009年7月)あたりから、新型インフルエンザの罹患者が急速に増えだし、死者も相次いでいます。たしか、死者が65人に増えた、というニュースをお盆前にタイの英字新聞で読んだ記憶がありました。

 しかも、若い世代の間に死者が少なくないという報道もあります。近所の若い女の子が突然発症し短期間で死亡すれば、グルーアイのように恐怖を感じるのも無理はありません。

 新型インフルエンザの対策として重要なのは、外出を控える、うがい・手洗いを励行する、感染を疑えば直ちに医療機関を受診する、といったあたりです。言われなくても分かることばかりですが・・・。

 幸にもグルーアイの実家では田植えは7月に終了しています。イサーン地方の一般的な農家では、田植え(タム・ナー)が終了すれば次は稲刈り(キアオ・カーオ)まであまりすることがありません。せいぜい、近所に魚を取りに行くか、野菜を育てるか、たまに市場に買出しに行くか、といった程度のはずです。私は、できるだけ人の集まるところには行かないようにして、うがい・手洗いをしっかりするように言いました。

 問題は、学校に通っているグルーアイの子供たちです。しかし、これは学校の指示に従うしかありませんから、あまり過剰に心配しすぎないように言いました。

 さて、新型インフルエンザは日本でもついに死亡者が出ました。8月20日時点で3人の死亡が確認されており、3人とも基礎疾患があり免疫力が低下していた状態での感染であった、と報告されています。

 しかし、これからどうなるかは分かりません。タイでも死亡者の多くは循環器疾患や糖尿病、肥満、などがあったそうですが、そうではなく、グルーアイの近所の女の子のように日頃は元気であった症例も少なくはないようです。タイでの新型インフルエンザによる死亡者は8月15日までで111人と報告されています。(8月19日のBangkok Post)

 すでに日本での感染者は5千人を越えており、集団発生以外は報告義務もなくなっていますから正確な実態はつかめませんが、かなりの感染者数になっているのは間違いありません。8月19日には、舛添厚生労働大臣が記者会見で事実上の流行宣言を表明しています。

 しかし、5月の連休前後にはあれだけあふれていたマスクをした人の姿がなぜか(少なくとも大阪の繁華街では)ほとんど見られません。5月には関西では各地でコンサートやライブ、その他イベントなどが中止されました。しかし、奇妙なことに、その後新型インフルエンザの勢いが増しているのにもかかわらず、7月、8月にはコンサートなどの自粛はほとんど聞きませんし、5月に中止となった代わりに7月や8月におこなわれているコンサートやイベントすらあります。

 新型インフルエンザの重症度については、5月の時点で米国科学誌『サイエンス』で、死亡者はアジア風邪並みの0.4~0.5%程度であることが発表されています。(報道は5月12日の共同通信など)

 そして、今月にも同様の数字が発表されています。オランダ・ユトレヒト大学の西浦博研究員(理論疫学)らの研究で、やはり新型インフルエンザの死亡率はアジア風邪並みの0.5%程度だと発表されています。(報道は8月19日の読売新聞など)

 このように、当初から(少なくとも世界的には)重症度の見解には変更がないわけです。にもかかわらず、日本の一般市民の新型インフルエンザに対する対応が5月と現在で異なるのはなぜなのでしょうか。現在の方が感染者も死亡者も増えているのに、マスクをしている人をほとんど見かけることがなく、コンサートやイベントが自粛されないことが、私には不思議でなりません。

 私は、マスクの着用を義務化しコンサートを自粛せよ、と言っているわけではありません。むしろ、あの5月の混乱には違和感を覚えていました。しかし、重症度の見解が変わっておらず、感染者も死亡者が増えているなかで、一般市民の予防意識が低下していることを危惧しているのです。

 参考までに、アジア風邪というのは、香港風邪、スペイン風邪とならんで、20世紀の三大インフルエンザのひとつです。1957年から1958年にかけて、中国や香港から世界中に広がり、死亡者は世界で100万人以上(200万人以上という説もあります)にも上ります。日本でも、数千人が死亡したとされています。

 つまり、科学者の見解では、新型インフルエンザは、日本だけで数千人が死亡したアジア風邪に匹敵するくらいの重症度であるわけです。5月のあの混乱ぶりは異常だとは思いますが、現在取るべき対策がとられているのかどうかはしっかりと検証すべきでしょう。

 ワクチンが完成するまでは、うがい・手洗いの励行、人の集まるところに行くのは最低限にする、などの対策が大変重要になってきます。

 今朝(8月21日)のBangkok Postに目を通すと、グルーアイと同じイサーン地方のある県で、26歳の妊婦が新型インフルエンザで死亡したという記事が報道されていました。若い妊婦が死亡しているのが新型インフルエンザの現実なのです。

 この妊婦は死亡しましたが、帝王切開で誕生となった8ヶ月の赤ちゃんは1,400グラムしかないもものの今のところ元気なようです。


参考:
はやりの病気第69回(2009年5月号)「疑問だらけの新型インフルエンザ」 
はやりの病気第70回(2009年6月号)「新型インフルエンザの行方」