はやりの病気

第124回 睡眠薬の恐怖 2013/12/21

  薬に対するイメージというのは人それぞれで、危険性をまるで顧みずに処方を強く希望する人もいれば、使用することをすすめたいのだけれど頑なに使用を拒否する人が混在する薬というのがいくつかあります。今回お話する「睡眠薬」はその代表的な薬です。(ちなみに、他にはステロイドと抗生物質でこの傾向があります)

 日本では、少し年配の方であれば、睡眠薬と言えばサリドマイドを思い出す人が少なくないでしょう。サリドマイドを内服した妊婦さんから生まれた子どもたちの悲惨な姿を報道された写真などで目にすると「睡眠薬=恐怖の薬」という方程式が頭の中でできあがるのも無理もないかもしれません。(サリドマイドは現在睡眠薬としては用いられていませんが、一部の難治性の疾患に奏功することからその後再び注目されるようになりました)

 一方、現在の若い人たちのなかには、サリドマイドを知らず、また睡眠薬を友達からわけてもらって気軽に飲んでいる人や、インターネットで入手して使っている人もいるようで、もちろんこれらは違法行為なのですが、随分と睡眠薬に対する敷居が低くなっているような印象があります。そしてこの傾向は年を経るごとに加速しているような気がします。太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)がオープンした7年前は、不眠の相談に受診される人は「睡眠薬はできるだけ使いたくない」という人が多かったのですが、最近は、薬の名前を指定して処方してほしい、というような人もいます。

 改めて言うまでもないことですが、睡眠薬というのはそんなに簡単に使うべきものではありません。谷口医院に不眠を訴えて受診された人に最初から睡眠薬を処方するのは、3人に1人もいません。

 現在医療機関で標準的に処方される睡眠薬はサリドマイドのような催奇形性のあるものはありませんが、原則として妊婦さんは使うべきではありませんし、副作用については誰もが充分に理解しなければなりません。またアルコールとの併用は絶対にNGです。

 患者さんを必要以上に怖がらせることはしたくありませんが、最近起こった事件を取り上げて睡眠薬の注意点について改めて考えてみたいと思います。

 2012年9月2日、日曜日の正午過ぎ、東京都目黒区の高級住宅街の豪邸に住む会社社長(当時46歳)が3階の自室から1階の居間に降りると、変わり果てた当時5歳の息子の姿がありました。目と口をガムテープでふさがれ、ビニール紐で身体が縛り上げられ、さらに家庭用ゴミ袋を二重に被せられガムテープで密閉されていたのです。

 この無惨な殺人事件の犯人は、なんと実の母親(当時42歳)でした。これだけを聞くと、母親に化けた鬼畜が犯した断じて許すことのできない児童虐待か、と思いますが、事実はまったくそうではありませんでした。

 この事件を後に詳しく報道したジャーナリストの森哲志氏のレポート(注1)に、この母親の法廷での様子が描写されていますので少し引用したいと思います。

 開廷中、(母親の名前が書かれていますがここでは実名を伏せます)のすすり泣きが絶えない。細身の体に黒袖のカーディガンと白いブラウス。ブラウンのメガネをかけた顔立ちに、理知的な上品さ。細い右手のピンクのハンカチは濡れている。(中略)進学校を出て(中略)税理士資格を取得、玉の輿に乗り、3億円超の豪邸に住むセレブの面影が、長期留置を経ても漂う。(中略)イタリア製外車が置かれた豪邸。夫婦のいさかいもなく、上の男の子2人は野球少年。仲のよい家族と見られていた。

 つまり、この母親は残虐性を持ち合わせている反社会的な人間ではなく、我が子を殺すような動機はまったく見当たらないのです。では、何がこの女性を殺人に導いたのか。それが睡眠薬、しかも、日本で最も頻繁に処方されている睡眠薬のひとつである「マイスリー」だったのです。

 誤解を避けたいのでこの時点で解説しておくと、数多い睡眠薬のなかでマイスリーが危険な睡眠薬というわけでは決してありません。マイスリーは作用時間が短く、翌日に眠気やだるさが残ったりしにくいために、危険どころか、日本でもっとも処方量の多い睡眠薬ですし、睡眠薬を初めて使うという人にも処方しやすい薬なのです。

 では、なぜそれほど危険性のないと考えられているマイスリーでこのような悲惨な事件が起こったのか。それはアルコールを同時に摂取していたからです。睡眠薬とアルコールの同時摂取、または睡眠薬内服後に眠れないからといってアルコールを摂ることは絶対にやってはいけないことなのです。この母親が睡眠薬とアルコールの併用の危険性をどれだけ認識していたのかは報道からは分かりませんが、きちんと理解していればこのような事件は起こらなかったはずです。

 では、アルコールさえ摂らなければ危険性は完全に回避できるのか、と言えばそういうわけでもありません。もうひとつ、最近の事件を紹介しましょう。

 2012年3月31日未明、兵庫県明石市内の総合病院の病室。夜勤の看護師が異様な光景を目撃しました。肺炎で入院していた72歳(当時)の男性が、女性の病室に忍び込み、87歳(当時)の女性に馬乗りになり、自らの下腹部を押し当てていたそうなのです。

 病院側は警察に通報し、この男性は準強姦未遂罪で起訴されました。しかしこの男性、犯行のことはまったく記憶になく、「夢の中で、縛られたおばあさんの縄をほどこうとした。何も覚えていない」と証言したそうです。

 2013年11月21日、神戸地裁はこの被告に無罪を言い渡しました。(検察の求刑は懲役3年でした) 無罪とした理由について、地裁は「睡眠導入剤の副作用で心神喪失状態だった可能性」を認めたのです。つまり、この男性は事件を起こす7時間前に睡眠薬(この事件もマイスリーでした)を内服しており、この薬が心神喪失の原因となった可能性を認めた、というわけです。念のために付記しておくと、この男性はアルコールを摂取していたわけではありませんし、精神疾患を有していたわけでもありません。

 先にも述べたように数多い睡眠薬のなかでも、マイスリーは短時間しか作用せずに作用強度もさほど強くないために相対的にはそれほど危険なものではないのですが、なぜか睡眠薬に関連した事件はマイスリーが原因であることが目立ちます。2006年5月に、故ケネディ大統領の甥であるパトリック・ケネディ下院議員が議会敷地内で自動車事故を起こしたのもマイスリーが原因であると報道されています。

 こういった事件はインパクトが強いために、睡眠薬を処方するときにすべての患者さんに事件の詳細を伝えているわけではありませんが、谷口医院では(というより以前から私は)、高齢者にはよほどのことがない限り睡眠薬の処方はしませんし、若い方に対しても注意点をしつこいくらいに話しています。しかし、それでも"副作用"が出現することがあります。例えば、翌朝台所に大量に食べ散らかした後があった(つまり暴食した記憶が一切ない)という患者さんがいましたし、谷口医院宛てに記憶のないまま赤ちゃん言葉のメールを送ってくる人もいました(ちなみにこの患者さんは社会的ステイタスの大変高い立場にいる人です)。

 では、眠れないときはどうすればいいのか。私が不眠を訴えるすべての患者さんに話すのは、まずは「同じ時間に起きて同じ時間に寝る」ということです。海外出張が多く時差が睡眠を妨げている場合や、夜勤があって生活が乱れている場合でも、まずは薬なしで眠れる工夫をしてもらいます。そして薬が必要と判断すれば、マイスリーのような睡眠薬ではなく、メラトニン作動薬であるロゼレム(一般名は「ラメルテオン」)を使ってもらいます(注2)。

 それでも眠れないときは、一時的にマイスリーのような睡眠薬を処方することがありますが、危険性は充分に承知してもらった上での処方になります。睡眠薬は怖がりすぎるのもよくありませんが(睡眠薬を飲んだことで不安が昂じて眠れなくなれば本末転倒です)、安易に飲むのはもっと問題です。日本人が気軽に睡眠薬に頼りすぎていることは以前から指摘されており、先に紹介した森哲志氏のレポートによりますと、睡眠薬の世界市場125億円中、日本人は75億円を消費しているそうです。

 もしもあなたが睡眠薬の使用が常習化しているなら、危険性を改めて顧みて、「同じ時間に起きて同じ時間に寝る」ことの重要さをまずは見直してみてください。


注1:このレポートは『新潮45』2013年12月号に「目黒碑文谷「愛児袋詰め殺人」の真相」というタイトルで掲載されています。

注2:下記コラム「新しい睡眠薬の登場」を参照ください。


参考:
はやりの病気第86回(2010年10月)「新しい睡眠薬の登場」
メディカルエッセイ第130回(2013年11月)「噛み合わない薬の論争」