メディカルエッセイ

第134回(2014年3月) 医師に人格者が多い理由

 医師の多くは人格者である、と言われればあなたはどのように感じるでしょうか。

 悪い冗談を・・・、と感じる人もいるかもしれません。私のことを個人的に知っている人なら「おまえが言うな!」とあきれる人もいるでしょう。私自身は人格者ではありませんし、このサイトで医師の犯罪について何度か書いたこともあります(注1)。医師が犯す罪には、違法薬物とわいせつ行為が多いということにも触れたことがありますから、今さら医師が人格者なんてよくそんなことが言えるな、と感じる人もいるかもしれません。

 一方、素晴らしい人格を持ち合わせた医師に治療を受けたことのある人からすれば、医師が人格者という言葉を当然と受け取るかもしれません。自分の時間を犠牲にして献身的に治療をしてもらったという経験がある人などは医師に尊敬の念を持っていることでしょう。

 これまで医師の反社会的な行為についても言及してきたこの私の意見をいえば、医師は、あってはならない犯罪に手を染める者がいるのは事実ですが、それでも多くは人格者ではないかと感じています。私自身が人格者でないことは自明ですが、それでも「人格者的」という形容詞で考えた場合、医学部入学前の自分と今の自分を考えれば人格者的になってきているという程度のことなら言えると思います。

 今回は、医師がなぜかくも人格者になれるのか、ということを述べたいわけですが、その前に医師がどのような人格者なのかについてみておきたいと思います。

 まず医師の多くは利他的です。患者さんによくなってもらうためにあらゆることを考えます。勤務時間を終えてからも他にいい治療はないかということを考えますし、手術の前日には術中の様子をシュミレーションします。医師は高給取りと思っている人が世間には多いようで、たしかに年収をみれば一般の会社員の平均よりは多いかもしれません。しかし時間給でみれば決して高くはありませんし、そもそも医師(の多く)は給料が高いとか低いとかをあまり気にしていません。自分が最も貢献できる場を求めている、という言い方が最も適していると思います。

 次に医師は目の前の患者さんを治療するだけでなく、自分が少しでも貢献できるなら他の医師を通して多くの人の力になりたいと考えています。一般の会社であれば、社内で開発した技術やノウハウを他社に知られたくないと考えるでしょう。そのために特許をとれるものはとり、産業スパイを警戒します。一方、医療の世界では、研修医のみならず中堅の医師でも他の医療機関に見学や研修に行くことがよくあります。他の医療機関からの医師を受け入れる側も、工夫している治療法について説明し、手術を見学してもらいディスカッションの場を設けます。患者さんの情報については医師どうしにも守秘義務がありますが、治療法や手術の方法、治療の工夫などについてはお互いの知識や経験を惜しみなく公開し互いに切磋琢磨をおこないます。これはより多くの患者さんの力になりたいからに他なりません。

 また医師(の多く)は私生活も他人から尊敬されるようなものである場合が多いといえます。日頃から医学以外のことに対しても教養を深め、様々なかたちで社会に貢献しています。「飲む・打つ・買う」という言葉がありますが、仕事に影響がでるほど大酒を飲む医師は(ほぼ)いませんし(違法薬物に耽溺する少数の医師がいるのは事実ですが)、「打つ」については合法・違法を問わずギャンブルにはまっている医師など見たことがありませんし、「買う」についてはほぼ皆無でしょう。

 人格者とは到底言えない私自身でさえも、教養を深め社会に貢献するにはどうすればいいかということを常々考えています。私生活を覗かれてもかまわないとさえ思います。映画『トゥルーマン・ショー』(注2)のように、寝室とトイレ以外ならあらゆる場面でカメラで監視されてもさほどストレスにはならないかもしれません。

 さて、ではなぜかくも医師はこれほど高い人格を有しているのでしょうか。もしもあなたが医学部の入学式をみてもそのようには感じられないでしょう。私自身も医学部に入学した頃は、医学生を尊敬するどころか、「この子たち、本気で医者になりたいと思ってるの?」と感じたのは事実です。なかには立派な人格を持ち合わせている学生もいましたが、大半は「大丈夫?」と言いたくなるような男の子、女の子でした。当時の私は27歳で、入学当初は研究者志望で医師になることは考えていなかったのですが、そんな私自身も今から振り返れば人格者などとは到底呼べるものではなく思い出すのも恥ずかしいくらいです。

 そんな医学生が医師に一歩近づくのは解剖実習です。実際のご遺体に接するとき我々は一種の洗脳を受けます。今思えばこのときに医師としての人格が少し身につくのかもしれません(注3)。次に医師に近づくのは医学部5回生の臨床実習のときです。まだ学生なのにもかかわらず患者さんは「先生、先生」と言って話をしてくれます。このときに「患者さんから期待されている」ことを実感し、より医師の本質に近づきます。そして実際に医師になり、患者さんの主治医になると「期待されている」という感覚がますます強くなり、私生活も含めてより高度な人格者へと進んでいくのです。

 そして医師が人格者へと進んでいきやすいもうひとつの理由があります。それは医師のミッションが分かりやすく明文化されているということです。

 以前見た映画でこのようなシーンがありました。その映画は、ストーリー自体はさほど(私には)面白くなかったのですが、印象に残った場面があります。悪徳企業に雇われた医師が、主人公の患者に対し不利なことをしようとします。そのときその主人公は「ヒポクラテスの誓い」(注4)を暗唱しだしたのです。患者からヒポクラテスの誓いを聞かされたその医師は良心を思い出し「医」に忠実になります。ヒポクラテスの誓いには「自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し」という一文があります。我々医師は、それは世界中すべての医師ですが、ヒポクラテスの誓いには絶対に逆らえないのです。

 ヒポクラテスの誓いだけではありません。日本医師会が作成している「医の倫理綱領」(注5)というものがありますが、我々はこのミッションにも絶対服従しなければなりません。いえ、しなければならない、というよりはこのミッションに深く共感できるからこそ何を差し置いても遵守しようと思うのです(注6)。

 ちなみに看護師の世界には「ナイチンゲール誓詞」というものがあります(注7)。これはナイチンゲール自身がつくったものではないという説が有力ですが、世界中の看護学校でこの誓詞が教えられていると聞きます。多くの看護師もまた人格者であるのはこの誓詞があるからではないかと私は考えています。

 私はこのコラムで、別に医師(や看護師)が人格者で尊敬されるべき、と言いたいわけではありません。そうではなく、医師が人格者である、というより人格者になることができる、あるいは人格者に近づくことができるのは、解剖実習から実際の臨床への経験と同時に、「ヒポクラテスの誓い」や「医の倫理綱領」といった、わかりやすい一種のミッション・ステイトメントがあるから、ということが言いたかったのです。

 医療者以外で高い人格を有している人が多い職業に警察官があると思います。警察の不祥事もしばしば報道されますが、それでもおしなべていえば警察官は高い人格をそなえた尊敬できる人物が多いのではないでしょうか。私はこの理由のひとつに「警察官の宣誓」(注8)があるからではないかと考えています。この宣誓は警察学校入学式に読まれ、全員が暗唱できるようになると聞いたことがあります。私は個人的にこの宣誓のファン、というか読む度に感動させられます。特に「何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い」というところが涙があふれるほどの感動に包まれるのですが、こんな風に感じるのは私だけではないでしょう。

 話を戻しましょう。以前別のところでも述べましたが、ミッション・ステイトメントの力は偉大です。私は個人のミッション・ステイトメントを持つようになってから精神の平安を得ることができ、心がぶれなくなったことを実感しています。定期的におこなっているミッション・ステイトメントの見直しは私にとって最も大切な時間でもあります(注9)。

 それにしてもミッション・ステイトメントというのは不思議なものです。短い文を読み直せば、たちまち忘れかけていた良心がよみがえり、まるで魂が真実に導かれるような気持ちになります。ということは、もしも私が変わり者でなく私の感性が一般的なものであるとするなら、すべての組織が、すべての職業人が、そしてすべての人がもしも熟考されたミッション・ステイトメントを持てば、全組織、そして全員が正しい方向に導かれるということになりますが、これは幻想なのでしょうか・・・。

 次回に続きます。



注1:たとえば下記のコラムで医師の犯罪について述べています。

メディカルエッセイ
第107回(2011年12月)「医師がストレスを減らすために(前編)」
第95回(2010年12月)「医師による犯罪をなくすために(前編)」


注2:『トゥルーマン・ショー』は1998年公開のジム・キャリー主演のアメリカの映画。主人公は保険会社のサラリーマンとして平和な生活をしているが、実はテレビの壮大な企画番組であり、周囲の人物や景色はすべて撮影用のセット。いたるところに設置されたカメラで24時間監視され、それが世界中に放送されている、というストーリー。個人的に好きな映画です。


注3:解剖実習についてのコラムは下記を参照ください。

メディカルエッセイ第118回「解剖実習が必要な本当の理由」


注4:『ヒポクラテスの誓い』の日本語訳の一例を下記に記しておきます。

・この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。
・師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。
・著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
・自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。
・依頼されても人を殺す薬を与えない。
・同様に婦人を流産させる道具を与えない。
・生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。
・どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。
・医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。


注5:「医の倫理綱領」を下記に紹介します。

医学および医療は、病める人の治療はもとより、人びとの健康の維持もしくは増進を図るもので、医師は責任の重大性を認識し、人類愛を基にすべての人に奉仕するものである。
1.医師は生涯学習の精神を保ち、つねに医学の知識と技術の習得に努めるとともに、その進歩・発展に尽くす。
2.医師はこの職業の尊厳と責任を自覚し、教養を深め、人格を高めるように心掛ける。
3.医師は医療を受ける人びとの人格を尊重し、やさしい心で接するとともに、医療内容についてよく説明し、信頼を得るように努める。
4.医師は互いに尊敬し、医療関係者と協力して医療に尽くす。
5.医師は医療の公共性を重んじ、医療を通じて社会の発展に尽くすとともに、法規範の遵守および法秩序の形成に努める。
6.医師は医業にあたって営利を目的としない。


注6 他にも医師のミッションが記されたものはあります。下記コラムの最後に紹介したものも良質な医師のミッションです。

マンスリーレポート2013年2月号「幕末時代の勉強法から学ぶこと」


注7:「ナイチンゲールの誓詞」を下記に紹介します。

われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わんーーー
わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。
われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、
悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。
われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを努むべし。
わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、
わが知り得たる一家の内事のすべて、われは人に洩らさざるべし。
われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。

 
注8:「警察官の宣誓」を下記に記しておきます。

私は、日本国憲法及び法律を忠実に擁護し、命令及び条例を遵守し、地方自治の本旨を体し、警察職務に優先してその規律に従うべきことを要求する団体又は組織に加入せず、何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い、不偏不党且つ公平中正に警察職務の遂行に当たることを固く誓います。


注9:これについては下記を参照ください

マンスリーレポート2009年1月号「ミッション・ステイトメントをつくってみませんか」