はやりの病気

第130回 渡航者は狂犬病のワクチンを 2014/6/20

  私が代表をつとめるNPO法人GINA(ジーナ)は、現在主にタイのエイズ施設やエイズ孤児の支援をおこなっていますが、タイのエイズに関する日本のいくつかの団体も支援しています。そのひとつの団体が発行する機関誌に興味深い体験談が載っていました。

 体験談を書いたのはある男子大学生で、タイ北部でのボランティアに志願し現地に行ったそうです。そしてイヌに咬まれて病院に行き、破傷風と狂犬病のワクチンを接種したそうです。この体験談からは緊迫感が伝わってこずに、むしろ自分の失敗談をおもしろく語っている、というような印象を受けたのですが、私はこれは問題だと感じています。

 後から、この団体の幹部クラスの人から、その後この大学生は何の問題もなく暮らしている、ということを聞き安心しましたが、そもそもワクチンを接種しないで現地に行っていること自体が問題です。

 たしかに狂犬病はイヌに咬まれてからでも速やかにワクチン接種をおこなえば助かる病気ではあります。しかし対応が遅れて発症すると(ほぼ)100%死に至ります。

 以前、たしか医療者(だったと思います)が書いた何かの雑誌に掲載されていた文章に「狂犬病を発症して助かった者は世界中で4人しかいない」というものがあり、私自身も何度か「世界で4人」という話を聞いたことがあるのですが、どうもこの情報は疑わしく、私は今ではこれは一種の都市伝説ではないかとみています。

 というのも、きちんとした論文で、狂犬病を発症して助かった症例というのを見たことがありませんし、「●●●(例えばプノンペンやバラナシといったバックパッカーが大勢たまっているところ)で知り合った日本人がすごいヤツで、アフリカで狂犬病を発症して1ヶ月意識がなかったけれど助かったらしい。狂犬病で助かったのは世界で4人しかいないそうだ」という話を、日本人のバックパッカーから何度か聞いたことがあるからです。もしもこの「アフリカで狂犬病を発症して助かった日本人」が同じ人物なら納得いきますが、その日本人の情報がときには東京出身であったり九州出身であったり、また年齢も様々で到底同じ人物とは思えないのです。それに医療者からならまだしも、バックパッカーたちから次々と「世界で4人・・・」と聞くと、正直に言うとこの情報を信用しにくいのです。というわけで、私はこの「世界で4人が助かった」という話も現在は都市伝説に過ぎないのではないかとみています。

 話を戻しましょう。狂犬病は絶対に発症させてはいけない感染症であり、最善の対策はワクチン接種です。ワクチン接種をしていない場合は、「咬まれたら直ちに医療機関を受診してそこでワクチン接種」ということになります。狂犬病(と破傷風)は例外的に病原体が感染してからでも間に合う可能性のあるワクチンなのです。ワクチンのことについては最後にもう一度確認するとして、まず発症するとどのような転帰をたどるかについて述べておきます。

 といっても私は狂犬病の患者さんをこれまでひとりも診察したことがありません。教科書には、水を怖がる、幻覚をみる、興奮・精神錯乱などの症状が生じ、最終的には昏睡し死に至る、となっています。日本で医療をしている限り、よほどのことがない限りは狂犬病の患者さんを診る機会はないだろう、と考えていたのですが、先日ある学会で貴重なビデオを見ることができました。

 これは1950年に当時の厚生省が作成したもので、当時4歳の男の子が狂犬病で入院して死に至るまでの経過がビデオカメラにおさめられています。今の時代であればプライバシーの観点からこのようなビデオが作られることはないでしょうし、仮にあったとしても表情をぼかすなどの措置がとられることになると思いますが、当時はそのような配慮はなされておらず表情もそのままうつっています。

 入院したばかりの頃は子どもらしい笑顔でベッドに座りとても愛くるしい顔をしています。それが日がたつにつれて落ち着きをなくしていきます。教科書には「水を怖がる」と書かれていますから、水から逃げるのかと思いきや、そうではなく、カップの水を求めます。水を飲まなければ生きられませんからそれは当然でしょう。しかし水を口に含むと興奮を抑えられない不可解な行動をとりだします。その後けいれんを繰り返し、最後には死に至ります(注1)。

 現在では狂犬病というと、外国の病気、というイメージが強いのかもしれませんが、このビデオがつくられたのは1950年ですし、その後の国内での発症もあります。ここで日本の狂犬病の歴史を振り返っておきましょう。

 日本に古来からあったのかどうかは不明です。18世紀前半には狂犬病と思われる感染症が広がったとする記録があるそうです。どれだけ正確に報告されているか、という問題はありますが、狂犬病のピークは1920年代のようで、1925年には年間2千件以上の報告があったそうです。1920年代後半から減少傾向となり、先に紹介したビデオがつくられた1950年には狂犬病予防法が施行され、飼い犬の登録と(飼い犬への)ワクチン接種が義務化され、さらに野犬の駆除が徹底化され、1956年以降国内感染の報告はありません。

 何かと批判されがちな日本の行政ですが、この成績は立派です。日本に住んでいると、日本という国は対応が遅くて、感染症でいえば、なぜ海外では標準のワクチンが日本では入手すらできないのか、ということが指摘されますし、私自身もしばしば感じることですが、この狂犬病の対策に関しては見事だと思います。もちろん厚生省だけでなく、地域の保健所や獣医師会、そして国民ひとりひとりの協力があってこそですが、それでもこれだけの業績をこれだけ短期間で達成した国というのはおそらく他にはないでしょう。ちなみに、現在でも狂犬病のない国(輸入例は除きます)は(人口数万人以下の島国などを除けば)日本とイギリスくらいではないかと思われます。

 話を戻してその後の狂犬病の歴史をみていくと、1970年にネパールを旅行中の日本人が現地でイヌに咬まれ帰国後に発症し死亡しています。その後はまったく報告がなかったのですが2006年に60代の日本人男性2名が立て続けにフィリピンでイヌに咬まれて狂犬病を発症しました。このときは少し話題になりましたが、その後マスコミなどで狂犬病が取り上げられることはほとんどありません。

 さて、狂犬病の対策ですが、これはワクチン以外にはありません。狂犬病は発症すれば(ほぼ)100%死亡しますが、ワクチンを接種しておけばこれまた(ほぼ)100%防げる感染症なのです。ワクチンは事前に接種しておくべきですが、イヌに咬まれてからでも間に合います。

 しかし、これを過信してはいけません。先に紹介した北タイでイヌに咬まれた男子大学生は現地の医療機関を速やかに受診できたことで事なきをえましたが、もしもこの大学生が少数民族への支援をおこなうために国境付近の山奥に訪れていた場合はどうなったでしょうか。もちろんそんなところに医療機関はありません。もしも、複数箇所咬まれており痛みが強くて移動しにくいような場合、山を越すのは容易ではありません。

 海外に支援に行こうという若い人たちを怖がらせるようなことはしたくはないのですが、必要最低限の対策はおこなわなければなりません(注2)。また、狂犬病は日本人の支援が必要なへき地にのみ存在するわけではありません。実際、タイでは北タイや東北地方(イサーン地方)よりもむしろバンコクを含む中心部や南部の方で発生が多いのです。

 先進国でも起こりうるのが狂犬病です。そして気をつけなければならないのはイヌだけではないということです。かつての日本を含むアジアではイヌからの発症が大半を占める、というだけで、実際にはコウモリやキツネ、ネコ、アライグマなどからも感染します。

 海外で何かトラブルがあったとき、大使館が助けてくれるわけではありません。自分の身は自分で守らなくてはなりません。狂犬病のワクチン接種をお忘れなく・・・(注3)
 

注1:このビデオはもちろん一般には公開されていません。しかしこの男の子の写真が載ったポスターが厚労省によってつくられています。「私たちは君を忘れない」というタイトルで下記のURLで閲覧することができます。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou10/pdf/poster02.pdf


注2:海外(特にタイ)にボランティアに行く場合の注意点はNPO法人GINAのサイトに掲載しているコラムが参考になるかと思います。興味のある方は下記を参照ください。
GINAと共に第92回(2014年2月号)「無防備なボランティアたち」


注3:ただし狂犬病ワクチンは慢性的に供給不足となっており、希望すれば誰でも接種できるわけではありません。太融寺町谷口医院では、接種の優先順位を考えて、留学やボランティア、海外駐在や出張に行かれる人(会社の産業医に接種してもらえない場合)を優先しています。短期の旅行やバックパッカーはお断りすることもあるのが現状です。(へき地を好んで訪れるバックパッカーはリスクが高いのは事実ですが・・・)

しかし行政も狂犬病ワクチンが慢性的に不足しているこの事態を手をこまねいてみているわけではありません。日本製ワクチンの製造が間に合わないなら、海外製品を輸入すれば済む話です。まだ本決まりではありませんが、現在ヨーロッパのある製薬会社が作成している狂犬病ワクチンの認可が申請されているようです。

参考:はやりの病気第40回「狂犬病」