マンスリーレポート

2017年9月 「ジェネラリスト」の違和感

 私の経歴が純粋な医師コースでないことが原因なのか、医学部生や医師が使う言葉に違和感を覚えることが度々あります。過去のコラムで取り上げた「ditto」もそのひとつで、私以外のほぼすべての医療者がこれを「do」と書いて「ドゥー」と発音します。長い単語を略すならわかるのですが、「ディトー」と「ドゥー」をそれぞれ声に出したときにいったいどれだけの差があるというのでしょう。いまだに理解不能です。

 他にも、例えば医学用語には「pseudo-」で始まる単語が多く、これをほぼすべての医療者は「シュード」と発音します。素直に「スド」と言えばそれでいいではないか、とずっと思っているのですが、私に同意してくれる医療者はほとんどいません。しかし、興味深いことにこれを「シュード」と発音する医療者以外の人を私は一人も知りません。医療者はあえて「シュード」と読むことにプライドを持っているのでしょうか...。

 今回取り上げたい「ジェネラリスト」という単語も私には違和感が拭えません。ジェネラリストの対極にあるのが「スペシャリスト」で、これは私にもよく分かります。何かの専門家のことを指しているわけです。医学の分野では、例えば「彼は心臓弁膜症の手術のスペシャリストだ」とか「彼女は新生児の遺伝性疾患のスペシャリストだ」という言い方をします。

 一方、ジェネラリストというのは、おそらく最近使われるようになった言葉で、専門医の反対側に位置する総合診療医、プライマリ・ケア医、家庭医などを指します。(これら3つを厳密に区別すべきだという意見もありますが、ここでは同じものを指すこととし、以降「総合診療医」で統一します)

 私がジェネラリストという言葉に違和感がある最大の理由は、この単語を日本人の医師以外から聞いたことがないからです。以前、ベルギーの医師とこの話になったときに、「それはGP(general practitioner)のことだ。普通はgeneralistとは言わない」と指摘されました。米国人の医師にこの話をすると、「意味は分かるが、やはりGP(general practitioner)と言うか、home doctorがより一般的だ」と言われました。つまり、外国人は医師でさえジェネラリストという言葉に違和感を覚えているのです。

 この話が興味深いのはここからです。日本人の医師でない知人(会社員)に聞いてみると「ジェネラリストはよく使う」と言うのです。私自身も医学部入学前の90年代前半には4年間の会社員の経験があります。しかし、ジェネラリストなどという単語は聞いたことがありませんでした。ということは、医療者が最近よく使うようになったのと同じように、一般社会でも比較的新しい言葉なのかもしれません。

 話はさらに興味深くなります。この男性の会社で使う「ジェネラリスト」は、昔で言う「一般職」とほぼ同義だというのです。私が会社員だった90年代前半には、短大卒でルーチンの事務職をおこなう女性が「一般職」、男性や四大卒で複雑な仕事を担う女性が「総合職」と呼ばれていました。これが男女差別だという意見がでたのでしょうか。現在はこういう呼び方はあまりしないと聞きます。

 話はまだ続きます。知人男性によると「ジェネラリスト」は呼び方を替えても結局一般職と同じような職種であり、率直に言えば「簡単なルーチンワークをする人」を指すことが多いそうです。

 なぜこの話が面白いかというと、医療界の意見と似ているからです。医師の間でも、例えば「心臓外科専門医」「脳外科専門医」といった人たちがなんとなくエライような雰囲気があり、なんでも診る総合診療医は一番「下」にみられることがあります。そういう専門医がよく使う言葉は「多芸は無芸」です。なにかひとつのことを極めるのが最も優れた医師であり、どのような疾患も診る医師は結局専門性がなく何もできないのと同じだ、という考えです。

 もちろんこれは極めて極端な意見で、実際は「専門医」と「総合診療医」がいがみ合っているわけではありません。ですが、やはり医師の"花形"は「専門医」であると考える風潮は存在します。実際、医師の多くは、人数不足が明らかな総合診療医には関心がなく、分野によってはすでに飽和している専門医を目指すのです。(だから、「医師は余っている」と言う医師はたいてい専門医で、「足りていない」と考えているのは総合診療医なのです)

 ところで、ジェネラリストという言葉は欧米ではどのように使われるのでしょうか。先に紹介した欧米の医師たちは「意味は分かるが使わない」と言っていました。英英辞典の『Oxford Living Dictionaries』(オンライン版)をみてみると「A person competent in several different fields or activities.」(いくつかの異なった領域や活動において有能な人)と書かれています。つまり、私の知人が言うようなルーチンワークのみをこなす「一般職」とはまったく正反対であり、competent(有能な人)を指しているのです。「多芸は無芸」ではなく「多芸は多芸」が英語本来の意味というわけです。

 これですっきりとします。なぜジェネラリストという単語が欧米では使われないのか。その答えは「そんな人、めったにいないから」です。いくつもの領域で「competent(有能な人)」はそうそういませんし、いたとしても自分から「私はいくつかの分野で優れた能力を持っています」とは言わないでしょう。一方、スペシャリストが自己紹介をするときは「自分の専門は〇〇〇です」という言い方をするわけで、そう聞くと「この人は日ごろ〇〇〇に取り組んでいるんだな」と理解できます。同時に、「他のことにはそれほど熟知していなくて当然」と認識します。

 医師の世界で言えば、「私は総合診療医です」と言えば、「この医師は日ごろ患者さんから最も近い立場にいて、患者さんの話に耳を傾け、難治性・重症性の疾患に遭遇した時は専門医を紹介しているんだな」と理解します。これが総合診療医の定義と考えて差支えありません。『Oxford Living Dictionaries』の定義を基準とすると、もしも「私はジェネラリストです」と言えば、「ん?、この人は難易度の高い心臓弁膜症の執刀もおこない、稀な遺伝性疾患のカウンセリングもできて、iPS細胞を用いたパーキンソン病の治療もおこなえて...、ということ??」となってしまいます。もちろんそんな医師は存在しませんから、自分から「ジェネラリストです」などと言えば、人格が疑われることになりかねません。

 このように同じ「ジェネラリスト」という言葉で想起される人物像が使用者によりまったく異なります。まとめてみると、私の会社員の知人がいう「ジェネラリスト」は、比較的簡単なルーチンワークのみをおこなう職種のことで、昔でいう「一般職」に相当します。日本の医師がいう「ジェネラリスト」は「総合診療医」のことで、患者さんに最も近い位置にいる医師です。そして、欧米人(医師も含めて)がいう「generalist」は、複数のことがらに極めて高い能力を発揮する、まさに「スーパーマン(ウーマン)」のことなのです。

 これだけ意味が異なればもはや会話が成り立たなくなる可能性があります。「一般職」をジェネラリストとするのは「和製英語」でしょうし、日本の医師がいうジェネラリストも欧米の医師は使いません。和製英語のすべてがいけないわけではありませんが、やはり呼び方を替えるべきではないでしょうか。私は日本の医師との会話でも「ジェネラリスト」という単語は用いずに「GP」「総合診療医」「プライマリ・ケア医」などと言います。

 企業の「ジェネラリスト」に替わる適当な表現は思いつきません。興味深いのは、ビジネスの現場では、医師の世界とは異なり、「一般職」に対極するのが「総合職」であり「専門職」でないことです。私はビジネス界におらず口を出す立場にありませんが、就職活動をする学生はややこしくならないのでしょうか...。