マンスリーレポート

2020年3月 新型コロナから考える「優しさ」という幻想

 前回は新型コロナの現実にきちんと向き合いリスクを正しく評価しようという話をしました。楽観視しすぎるのも不安視しすぎるのも正しくなく、そのような見方をしてしまうのは「常に"幸せ"でないと気が済まない」という誤った考えだ、ということを述べました。

 過去に述べたように「人生は辛いことの方がずっと多いもの」です(私はそう考えています)。ですが、辛いことばかりではなく幸せを感じることもできるのが人生のいいところです(私はそう考えています)。一人きりで何かをしているときが幸せと感じる人も少なくないでしょうが、そういう人たちでも生涯において他者と接することを苦痛と感じ続ける人は少数でしょう。どのような趣味や仕事を持つ人も、家族、パートナー、友達といった他者とのふれあいやコミュニケーションに幸せを感じるのではないでしょうか。

 では、他人との関わりで幸せを感じるのはどんなときでしょうか。優しくされたり、優しくしたりといった体験があったときに何とも言えない平和的な気持ちで満たされたという経験はおそらく誰にでもあるでしょう。

 さて、新型コロナです。新型コロナの問題が大きくクローズアップされ始めた2020年1月末、私が懸念したことのひとつは武漢から帰国した日本人に対する差別が起こらないか、ということでした。残念ながら私の予想は当たってしまい「武漢に行っていた」というだけで、当事者や、さらには検査やケアを担った医療者までが差別的な扱いを受けました。

 その後も新型コロナに関する「差別」は広がる一方です。驚くべきことに医療者の間でさえも広がっています。武漢から帰国した日本人や「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客乗員へのケアをおこなった医療者に対する医療者による驚くべき差別が生じていることを日本災害医学会が報告しました。

 同学会によると、「職場において「バイ菌」扱いされるなどのいじめ行為」、「職場管理者に現場活動したことに謝罪を求められる」といった、信じがたい不当な扱いを受けた事案が報告されています。同学会は「当事者たちからは悲鳴に近い悲しい報告が寄せられ、同じ医療者として看過できない行為であります。もはや人権問題ととらえるべき事態であり、強く抗議するとともに改善を求めたいと考えます」と述べています。

 同じ医療者として、というより一人の日本人として到底許せない行為です。しかも、きちんとした知識があるはずの医療機関でこのようなことが起こっているわけです。医療機関以外の職場でもこれと同じか、あるいはもっとひどい差別が生まれるかもしれません。

 もしも私の目の前でこのような差別的な発言をする者がいればその場で注意します。ですが、こういった事態が相次いでいる現状を考えると、このサイトで正論を振りかざしてもほとんど意味がないでしょう。それよりも、これが人間の実態であることを認識し、その上で"幸せ"を探す方が現実的です。

 基本的に私は、人の優しさとはとても脆いものだと思っています。これは歴史を見れば明らかです。政治的ダイナミクスにより「昨日の友は今日の敵」となることなど人間社会では日常茶飯事ですし、戦争で国が分断されかつての同胞が敵となり殺し合うという歴史もあります。信頼していた家族やパートナーに裏切られたという経験がある人もいるでしょう。生涯に渡り親友が続けばそれは素晴らしいことですが、必ずしもそうはなりません。

 近しい相手からでさえ裏切られることがあるわけですから、これが単なる職場の同僚であればなおさらです。学校や職場でいつイジメやハラスメントが起こっても不思議ではありません。もちろん見ず知らずの赤の他人から優しさを期待することなどできません。ここである患者さんの話をしましょう。

 40代女性のその患者さんは花粉症があります。そしてこの季節に風邪をひくと咳がなかなか治らないと言います。薬(吸入薬)でかなり症状は改善するのですが、それでも偶発的に咳が出ることがあります。この女性、最近は怖くて電車に乗れないと言います。といっても乗らなければ出勤できません。朝は始発に乗って混雑を避けることができますが、帰りの電車が恐怖で、車両が混んでいれば何本でも電車を見送るというのです。また、駅のトイレなどで行列をつくっているときに咳がしたくなったときは、その場を離れて咳をしにいくそうです。今の世の中、咳をしただけで他人から白い目で見られるというのです。

 実際、福岡市の地下鉄内でマスクをしていない男性が咳をして乗客と口論になり非常ベルが押されたという事件がありました。この女性も、この事件を聞いて電車が怖くなったそうです。どうも今の世の中、自分の身を守るために他人を排除しようとする人たちが増えているようです。

 しかし、このようなことは今に始まったことではありません。小学生の頃には「困っている人を助けましょう」「他人に親切にしましょう」と習いますが、現実には世の中はいつの時代も優しくありません。小学校で習うことを世間の大人たちはできていないわけです。社会とは「渡る世間は鬼ばかり」であることがほとんどです。昨年(2019年)の流行語「ワンチーム」も、東日本大震災の年に流行した「絆」も幻想に過ぎなかったと言えば言い過ぎでしょうか。

 他人からの優しさなど期待できないと考えるべきです。そんな世の中でも夢を持つことができれば幸せかというと、多くの夢はいつまでたってもかないません。優しさのないつまらない日常が淡々と時を刻んでいるのが現実なのです。

 ならばそんな世の中でいったい何をすればいいのでしょう。厭世観を抱き社会から逃避することでしょうか。私はそうは思っていません。皮肉な表現に聞こえるかもしれませんが、「優しさ」がほとんどない社会だからこそ、その「優しさ」が貴重なのです。ならば、その「優しさ」はあなたが作り出せばいいわけです。

 過去のコラム「日本人が障がい者に冷たいのはなぜか」で、私は「障がい者や困っている人がいれば何かを考える前にまず駆け寄る」ということを提唱しました。これを心がけている私は、ときに自分の予定がずれこんだり、数字の上では金銭的なロスが生じたりすることもあるわけですが、決して「損をした」という気持ちにはなりません。このことは多くの人に理解してもらえると思います。ボランティアをしたことのある人なら「ボランティアをする気持ちよさ」を体験しているでしょうし、そういった経験がない人も他人から感謝の言葉をかけてもらえれば「やってよかった」と感じるはずです。

 さらに言うと、感謝の言葉も期待するべきではありません(参考:日経メディカルのコラム「医師は感謝を期待してはいけない」)。感謝されるから他人に優しくするのではなく、それが人間にとっての原理原則だから優しくすべき、というのが私の考えです。

 新型コロナは自分が感染するのはときにやむを得ないわけですが、他人、特に高齢者や持病のある人に感染させてはいけません。人の優しさについては、自分が裏切られるのはかまいませんが、裏切ってはいけないのです。

 これを実践するだけで、つまり裏切られても他人に優しくすることを忘れなければ"幸せ"は少しずつ増えていきます。