マンスリーレポート

2024年2月 「競争しない」という生き方~その3~

 谷口医院は「精神科」を標榜していませんが、総合診療のクリニックということもあり、2007年1月の開院当初から精神症状を訴える患者さんも少なくありませんでした。開院当初は患者さんが拒否しない限りは、精神科クリニックに積極的に紹介していました。ところが、精神科を受診してもらっても必ずしも上手くいくわけではなく、それなりの患者さんが再び谷口医院に戻ってきます。これは「その精神科医がよくない」という意味ではなく、精神疾患とはそういうものだとそのうちに気付きました。

 2010年代半ばからは「精神科で処方されている薬をやめたい」という訴えが少しずつ増えてきました。特に依存性のある薬を長期間内服している人たちはその悩みが深刻で、「どうしてもやめられない。そういう薬を出す精神科には行きたくない」と訴えます。

 「その診断、合っているのかな?」と思わずにはいられないケースもあります。最近顕著なのが発達障害です。本来、発達障害は幼少時のエピソードを確認する必要もあり、簡単には
診断できなかったはずなのですが、初診時に簡単な問診で確定診断を下され、いわゆる「精神刺激剤」が処方されているケースが少なくありません。しかも薬の説明がほとんどされておらず、「(従来の発達障害の薬と異なり)依存性はない」と言われたという患者さんがたくさんいます。しかし、アトモキセチン(ストラテラ)、グアンファシン(インチュニブ)などの精神刺激剤は、これらが登場する前によく使われていたメチルフェニデート(リタリン、コンサータ)、あるいは米国でよく処方されているリスデキサンフェタミンメシル(ビバンセ)のような覚醒剤類似物質とは異なるカテゴリーではありますが、決して副作用がない薬ではありません。そして、こういった処方に疑問を感じて谷口医院を受診する患者さんがいます。

 こういった経緯もあって、数年前から(あくまでも患者さんが希望すれば、ですが)谷口医院で精神疾患の治療をおこなうことがあります。

 まず気付いたのは、精神疾患の大部分は「環境に原因がある」という当たり前の事実です。以前、精神科でうつ病と言われたという男性が「僕はうつ病なんかじゃありません。安定した仕事と貯金があればすぐに回復します」と言っていました。そして後日、これが真実であることを身をもって証明していました。ある患者さんは失恋から立ち直り新しいパートナーができた瞬間に精神症状がすっかりなくなりました。その後、そのパートナーと入籍し今も元気にしています。

 では、どのような人がなかなか改善しないか、というと、もちろん持って生まれた素因や自身では変えようのない環境なども原因になるのですが、最近よく感じるのは「競争によるプレッシャーから逃れられない人」は治りにくいんじゃないか、ということです。

 というわけで、精神状態を改善させるために「競争から降りること」を提唱したいと思います。といっても、すでに過去に2回、「馬鹿らしい競争なんてさっさとやめて楽しく生きましょうよ」というコラム(「競争しない、という生き方」「競争しない、という生き方~その2~」)を書いていますので、今回は視点を変えて、「競争することは人間らしくない」ことを歴史的に"証明"したいと思います。

 歴史上、初めて人が人らしくなったのはおそらく集団で狩りをする狩猟生活をするようになった頃ではないかと私は考えています。一人一人がバラバラに行動していれば人どうしで殺し合いになることもあったでしょうし、獲物が効率よく獲得できません。仲間で力を合わせて狩猟生活を開始したことで人は集団生活の必要性と利便性を理解したはずです。

 次の転機は農耕生活の始まりです。身体能力にさほど恵まれていなかった弥生人が頑強な肉体を有する縄文人になぜ勝利できたかについては諸説ありますが、「集団行動に長けていた」が最たる理由ではないか、つまり一致団結できる力を有する集団の方が最終的には強いのではないか、というのが私の見立てです。そして集団での力を向上させるには「協調性」が不可欠となります。

 狩猟生活であれば、その集団が嫌になれば他のグループに移ることもできるでしょうが、農耕生活の場合は自身の土地を持っているわけですし、持っていない場合でも、他の村に入れてもらおうとしてもよその集団からやってきた者は不審者とみなされるでしょう。ならば多少嫌なことがあったとしても自身が生まれたその村で生きていくしかありません。

 村の中には他人の言うことを聞かず、すぐに争いごとをおこす者もいたでしょう。そのような者たちは村八分にされ子孫を残すことができません。「革命家」が現れ、村の有志を引き連れて新しいコミュニティをつくるというケースもあったでしょうが、それは極めて稀だったと予想されます。また、誰にも頼らず一人きりで生きていくことはほとんど不可能だったわけです。ということは、よほどの人物でない限りはその村のルールに従い、ある程度は自身の欲求を抑えて仲間に合わせていく他はなく、そのようなことができる人間のみが子孫を残すことができたわけです。そして「我々はその末裔だ」ということが重要です。

 つまり、我々現代人の大半は、歴史的に、そして遺伝的に「集団のなかでしか生きていくことができない」のです。そして、集団のなかでは弱肉強食ではなく、強い者が弱い者を守ろうとする文化が構築されたことが予想されます。なぜなら、誰もがいつ病気や怪我で身体が不自由になるかもしれない状況の中、「我々の社会では弱い者を助ける文化が根付いている」とメンバー全員が理解していれば、その村全体に安心感が広がるからです。村人の大半が頻繁に喧嘩している集団より、助け合いの精神にあふれている集団の方が存続しやすいのは当然です。このような集団ではひとりひとりの精神状態が良好であったに違いありません。

 では、この歴史上の"事実"を現代社会にあてはめてみましょう。同僚との競争を強いられ、いつリストラに遭うかもしれないという環境は、例えていえば「村人の大半が頻繁に喧嘩している集団」、あるいは「誰もが革命家を目指さねばならない集団」のようです。これではストレスから逃れられないのは当然で、同僚を蹴落として勝ち続けることができる人はほんのわずかしかいない、まさに弱肉強食の社会です。しかも、(私の仮説が正しければ)人間は"遺伝的に"助け合いの精神を持っているはずで、他人を蹴落とす行為はその"自然"に逆らうことになるわけですから心が痛くなるのは当然です。

 だからこんな競争社会からは降りてしまえばいいのです。例えば、私の知人に出世などにははなから興味がなく、職場のグチは言うものの家族や近しい友人との週末のキャンプやドライブを楽しみにしている男性がいます。また、パートナーはいないものの友達は男女共に多く、馴染みの客だけを対象に小さな飲食店を経営している女性がいます。彼(女)らは、金持ちではなく、世間がいうステイタスも高くありません。けれども、気の置けない身内に囲まれ楽しくやっています。いろんな愚痴を私には言いますが、どこか微笑ましいというか、話のネタとしてそのような不平不満を話すことを楽しんでいるようにすら見えます。診察室で患者さんから聞く苦しみとは異なるものです。

 出世、高収入、高級車、高級品、名誉、ステイタスなど、このようなものに興味を持たず、友達やパートナーとお金をかけずに楽しく過ごす人生の方が魅力的だと思えてこないでしょうか。このことを私は谷口医院の患者さんやプライベートの友人・知人をみていて強く感じます。
社会的なステイタスや収入が低くても、仕事のグチは言うものの、プライベートを楽しんでいる人の精神状態は軒並み良好です。他方、中年の男性で精神的に弱っているのは昔から優等生をやめられない大企業の人たちに多いのです。

 中年の女性でいえば、メンタルが不安定なのはいつまでも他人との"比較"をやめない人たちです。特に高学歴の女性で専門職に就いている人たちは、世間では「男社会の不平等さに苦しんで......」というようなことが言われていて、「不平等」についてはその通りなのですが、精神状態にフォーカスして言えば、私はむしろ、女性どうしの「ライバル意識」が不幸を招いているような気がします。たとえば「同僚の〇〇さんはすごく恵まれているのに私はいつもひどい目に遭って......」というようなことを繰り返し訴える人がいます。このような人たちは他人との比較をやめるだけで随分と精神状態が改善すると思うのですが、これがなかなか困難です。

 ちなみに私自身は、「医者はステイタスが高いでしょ」と言われることがありますが、実際にはそんなことはありません。年収は医師の平均よりも(たぶんずっと)少ないですし、今も大学に籍を置いていますが役職は「非常勤講師」のままですし、医師会や学会には入っていますが役職はありませんし、論文は読むのは好きですがほとんど書きませんから誰からも評価されません。つまり、医師のなかでは最低のランクです。農耕社会で言えば「小作人」くらいでしょうか。しかしそれを悔しいなどとは思ったことは一度もなく、競争社会に乗る気は一切ありません。競争社会から距離をとることで気楽な生活が楽しめているのですから。

 出世、高収入、名誉などに初めから興味を持たなければそれなりに楽しくやっていけます。逆に、そのようなものにこだわって他人と競争しようとしても、人類は歴史のなかで集団内のメンバーとは争わない方が有利なように"進化"してきたわけですから、その進化に抗うのは賢明ではないのです。