はやりの病気

第126回 デング熱は日本で流行するか 2014/2/21

 今回は以前私がタイ渡航中にある日本人男性から聞いた話から始めたいと思います。

 西岡直也氏(仮名)は30代半ばの男性です。20代の頃からタイが大好きで、タイでの生活を楽しむために働いていた会社を退職し、時給のいい夜間の工場勤務を数ヶ月間おこない、まとまったお金ができるとタイで数ヶ月過ごし、お金が尽きると日本に戻り再び夜間の工場勤務、という生活を続けていたそうです。

 景気のいい頃はこのような工場勤務の仕事がいくらでもあったのにリーマンショック以降はピタっとなくなった、と西岡氏は言います。仕事の内容にこだわらなければ日本でも仕事がないわけではなかったそうですが、氏の選択した方法は、タイで仕事を探す、というものでした。

 とはいえ、景気が悪いのはタイも同じです。大学を卒業しておらず、特に何ができるというわけでもなく、英語は片言、タイ語については普通の日本人観光客よりはできますし日本企業のタイ駐在者よりも日常用語は話せますが、とてもビジネスに応用できるレベルではありません。そんな西岡氏が選んだタイでの仕事とは日本語教師です。

 日本語教師と聞けばハードルが高そうですが、東南アジアで日本語を教えている日本人は日本語を教える教育を受けているとは限りません。というより、そのような教育を受けている教師の方が少なく、実際は日本人であれば学校のレベルにこだわらなければほとんど誰にでもできる仕事だと言われています。(たしか沢木耕太郎氏の名著『深夜特急』にも、レベルの低い日本人の日本語教師がタイで登場していたような記憶があります)

 ただし日本語教師の給料は驚くほど安いものです。西岡氏はバンコクでの仕事をあきらめ、タイ人の友達のつてを頼ってバンコク近郊のある県の日本語の塾での仕事をみつけました。給料は安いけれど(日本円で月給2万円程度)、家賃も安く(5千円未満)、なんとか生きていくことはできるそうです。

 しかし、タイでお金がなくてもやっていける自信があった西岡氏は、あることに対する知識を充分に持っていませんでした。それは「蚊対策」です。

 ある日の朝、身体がだるく風邪でもひいたかなと思った西岡氏は、いつものように塾には行ったものの昼過ぎからは立っているのも辛くなってきました。塾長に付き添われて現地の公立病院を受診した結果、診断は「デング熱」でした。数日間でよくなるだろうと言われましたが、水分摂取もままならないほど倦怠感が強いため西岡氏は入院することになりました。主治医の話だと当初は1~2日で退院できるだろうとのことだったそうです。

 ところが、西岡氏の様態は急激に悪化していきました。意識が朦朧とし何日間寝ていたのかも分からなかった、と氏は回想します。そのときはタイ語も(西岡氏のタイ語レベルでは病気の話はできません)英語もできない氏は医師の説明がよく分からなかったのですが、後から日本語のできるタイ人(医療関係者)から、それは「デング出血熱」であったことを教えてもらったそうです。血小板が生命を維持する数値を大きく下回っていたと聞かされたと言います。幸運にも西岡氏は何の後遺症もなく回復しましたが、デング出血熱がここまで進行すると助からないことも珍しくありません。

 タイでデング熱にかかる日本人は少なくありません。私自身も過去に何度か、タイでデング熱にかかったという日本人にタイでも日本でも会ったことがあります。しかし、西岡氏のようにデング出血熱に進行したという例は初めて聞きました。

 ここでデング熱についておさらいをしておきましょう。デング熱はデング熱ウイルスに感染することで発症します。感染経路は「蚊に刺されること」です。ネッタイシマカやヒトスジシマカという蚊の体内にデング熱ウイルスが潜んでいることがあり、これらの蚊がヒトを刺すときにそのウイルスがヒトの体内に侵入してくるのです。

 タイではとてもありふれた感染症で、以前タイの医師から聞いたことがあるのですが、私が「デング熱は大変恐ろしい感染症だと思う」と言うと、意外そうな顔をしたその医師は「タイでは全然珍しくないよ。子どもの多くはかかるものだよ」と言いました。その医師によれば、そんなに重症化するものでもなく、マラリアとは質が違うと話していました。

 私はこのタイ人医師の話を聞いて「なるほど」と感じました。東南アジアの渡航者に対し、我々医師は蚊の対策について説明をします。長袖・長ズボンを着用すること、虫除けスプレーやクリームを使用すること(日本製でなく現地で調達することをすすめています)、夜間は窓を開けないこと、もしくは蚊帳を張ることを説明し、蚊取り線香などの利用を勧めることもあります。

 しかしよく考えてみると、ここまでの対策をタイ人の子どもがやっているとは到底思えません。タイの地方に行けば、長ズボンどころか靴もはいておらず短パンに裸足で生活している子どもたちもいます。そんな子どもたちが蚊に刺されてデング熱ウイルスに感染しても何の不思議もありません。実際に大勢の子どもたちが感染していると思われます。しかし、このタイの医師によれば、子どもが感染してもあまり重症化はしないそうです。そういえばA型肝炎ウイルスも、水や食べ物からタイでは幼少時に感染することが多いのですが、幼少時の感染であればそれほど重症化せず、発症しても軽症ですみます。ちなみに、日本も戦後しばらくまでは現在のタイと同じような状況であり、現在70歳以上くらいの人のA型肝炎ウイルスの抗体を調べるとけっこうな確率で陽性になります。

 話をデング熱に戻しましょう。デング熱は子どもに感染しても軽症ですむことが多く、成人でも1回目の感染であれば、普通の風邪よりははるかにしんどいですが、必ずしも入院しなければならないわけではありません。怖いのは「デング出血熱」となった場合です。通常、初めてデング熱ウイルスに感染したときにデング出血熱になることはないとされています。デング熱ウイルスは4つのタイプに分類できるのですが、2回目に最初に感染したときと別のタイプのウイルスに感染したときにデング出血熱ウイルスを起こすことがあるとされています。

 西岡氏の場合、タイに長年住んでいることで、おそらく本人は気付いていなかったけれども(通常の)デング熱に一度罹患しており、そして後に別のタイプのウイルスに感染しデング出血熱を発症したのでしょう。西岡氏は後から振り返ると、そういえば数年前に微熱と原因不明の皮疹が数週間続いたことがあった、と言います。

 デング熱ウイルスは、ここ数年間、毎年のように東南アジアや太平洋地域のどこかではやっています。最近では東ティモールで流行があったことが報道されています。地球温暖化と共に発生地域が北半球では北上してきており、台湾でもここ数年は問題になっています。沖縄に上陸するのも時間の問題か・・・、と私は考えていたのですが、意外なことに、日本に旅行に来たドイツ人の女性が関東地方で罹患した可能性があるとの発表を厚生労働省が2014年1月におこないました(注1)。

 その後厚労省は追加の発表をおこなっておらず、ここから先はネット上の情報になりますが、どうもそのドイツ人女性は他国を経由して日本に入国出国したわけではなく、往路も復路もドイツ・日本の直行便を利用していたそうです。となると、日本での感染を疑わざるを得ず、滞在したとされている長野、山梨、東京のどこかで感染したことになります。そして、出所は不明ですがネット上の情報によれば、このドイツ人女性は「8月21日から24日の間に滞在していた山梨県笛吹市で蚊に刺された」と証言しているそうです。

 ただ、私自身はこのドイツ人女性の感染に疑問を持っています。数十年も日本で報告されていない感染症がごく短期間日本に滞在した外国人だけに感染、しかも地域の蚊の調査ではウイルスが検出されていない、という状況を考えると、本当に日本で感染したのかと疑いたくなります。例えば、ドイツから日本へ直行した飛行機が、その前のフライトではアジアを飛んでいてそこで機内に蚊が侵入した、という可能性はないでしょうか。とはいえ、私も自分が厚労省の役人なら、わずかでも可能性がある限りは、日本での感染が否定できないという発表をおこなうでしょう。

 当分の間、国内でも蚊に対する注意が必要でしょう。また、台湾、香港を含めたアジア方面に旅行に行く人にとって充分な蚊対策が必要なのは言うまでもありません。



注1:詳細は下記医療ニュースを参照ください。

医療ニュース2014年1月27日「デング熱は本当に日本で感染したのか」

参考:
はやりの病気第60回(2008年8月)「虫刺されにご用心」
医療ニュース2009年1月27日「マレーシアでデング熱が急増」
医療ニュース2008年7月24日「デング熱は蚊を駆除すると重症者が増加!?」
医療ニュース2008年4月3日「ブラジルでデング熱と黄熱が大流行」
医療ニュース2008年2月19日「タイでデング熱が急増」